黒猫と青い道


足元で、にゃあという声がした。

鬼男は視線を床に降ろす。足首に黒猫が擦り寄ってきていた。
「……何で」
動物霊の審判は閻魔の管轄ではない。ましてここは審判場ではなく執務室。鬼男は不審そうに眉を寄せてしゃがみこんだ。
「あの、何か御用で」
ごくたまに、天国や十二天の神がお忍びをしにこういった姿に化けてここら一帯をうろつくことがある。
しかし小さいからどうにかなっているものの、動物の姿ではかえって目立っていることに彼らは気づいていないらしい。
万一本当にお偉方であってはまずいので、鬼男はその猫の赤い瞳をまっすぐ見て丁寧に尋ねたのだった。
しかし、猫は鬼男の顔を覗き込んで再度にゃーと鳴くだけである。ふああ、と大口を開けて欠伸をし、首の後ろを後ろ足でカリカリとかいている。
見たところお偉方ではなさそうなので、鬼男はほっと息をついた。

「まあいいや、どっちでも。返事をなさらないんですから、後になって無礼だとか言わないでくださいよ」
不思議そうに首をかしげている猫にそう言って、その脇の下に手を差し込み、ゆっくりと抱き上げる。
心なしか、その表情はいつもより嬉しそうだった。
「まったく、どこへ行ったんだかあの大王イカめ。……お前知らないか?」
艶のある黒く柔らかい毛並みを優しく撫でてやりながら鬼男は猫に問う。
閻魔は報告書の承認業務をほっぽって、先ほどから姿を消している。天国で甘味巡りでもしているのだろうか。
当の黒猫は鬼男の話など聞いていないらしく、鬼男の服をその小さい手で弄くっている。
鬼男はその姿にふ、と口元を緩ませ、喉を撫でてやった。猫がごろごろと嬉しそうに喉を鳴らす。
「あれがいないんじゃ仕事にならないし、僕もちょっと休憩するかな。……付き合ってくれるか?」
猫がにゃんと赤い舌を見せながら鳴いた。


冥界の外れに、『常に夜』の小道がある。
何故かなんてわからない。そんなことはどうでもいい。ここはところどころ、いや全体的に不可解で非常識だ。あの王にしてこの世界あり、である。
鬼男は黒猫を肩に乗せ、青い月光の降り注ぐ道を歩いていた。月明かりの青さは、どこか物悲しくしかし美しい。
冥界には元々月などなかった。当たり前だ、それは下界のものだから。
鬼男が秘書に就任するずっと前、閻魔は冥界に月を作ったのだと言う。

『……なんでまた』
『欲しくなったから』

眠そうな顔でそう答えたのを、何故かはっきりと記憶している。

ゆっくりと歩を進めながら、鬼男は頭上の月を見上げた。
「……綺麗だ」
同意するかのように、猫が鬼男の首に頬をすり寄せる。鬼男は結んだ口の端をふ、と緩めて呟いた。
「あの人もたまにはマシな仕事するんだな」
そして、あんなものを「欲しかったから」という理由で簡単に作ってしまう彼の力の大きさに、少し身震いしそうだった。
靴と砂利が擦れる音。どこまでも続く小道。光が青いせいか、どこかひやりとした空気を纏って鬼男はうつむいた。
「不思議だ」
蚊の鳴くよりも小さな声で、ぽつりと零す。猫が顔色を伺うように鬼男の顎へ首をねじった。
こんな風に、一人でどこかをふらふらと歩いたのはいつぶりだろう。もう思い出せない。
嘘みたいに長い時間を閻魔と過ごしてきたことを思い出し、鬼男は小さくため息をつく。
不意に視線を肩の猫に向ける。黒く艶やかな毛並み、赤い瞳。鬼男が目を細めると、猫は首を傾げた。その姿に鬼男はふっと頬を緩ませる。

「いなければいないで、落ち着かないなんてな」

瞬間、猫の目が見開かれ、突然吹き出した白い煙が鬼男を襲う。
「えっ……?!」
面食らっているのも束の間、鬼男は一方の肩にすさまじい重みを感じてそのままその重みに押しつぶされるように道に倒れこんだ。
「いっ……て……」
だんだんと煙が晴れてきた。わけがわからずとりあえず自分の肩を見ると、閻魔が自分の体を下敷きにして鎮座していた。鬼男は絶句した。
「どうも」
本当にその辺でばったり会って軽く挨拶をするかのように、閻魔は右手を軽く上げた。目が開ききった状態のまま、鬼男は口をパクパクとさせている。
「あ、……え?」
「いやーごめんごめん、一応どの辺で変身解こうかタイミング見計らってたんだけどさ」
「…………えぇ?」
いまだに状況が飲み込めていない鬼男は、地面に伏したまま閻魔の方へ首をねじり、ただただ疑問符を叩きだすばかりである。
「つまんなくてさ、変身コンパクトでちょっと遊んでみた」
ようやく知りたい部分を説明され、鬼男は我に返った。
「こんなに完璧に変身できるならどうしてあの時後ろ髪長男になっちゃったんだ!」
「えええそこなの?」
思わずつっこんでしまった後、閻魔はたまらず吹き出した。
「動揺してる」
「……うるさい」
からかわれ、鬼男はがっくりと肩を落として地面に突っ伏した。髪の間からのぞく耳は真っ赤である。閻魔はにやにやと薄笑いを浮かべながら畳み掛ける。
「大丈夫、無礼だなんて言わないよ俺」
「いいですいちいち言わなくて」
「しかし君猫好きなの?ずいぶんデレデレしてたね」
「えぇい黙れと言ってるだろ!!ていうか降りろ!どけ!!」
「ええー、やだぁ」
「やだじゃない!」

鬼男がいくら怒鳴っても閻魔は降りようとしなかった。
そして鬼男も、閻魔の体を跳ね除ける力がありながら地面に倒れ伏したままだった。
しばし沈黙し、青い月光を二人で味わう。はたから見れば滑稽な二人なのに、何故かどちらも居心地の悪さを感じなかった。
閻魔が口を開く。
「俺の化けっぷり、ちょっと神がかってたよね」
「どこで覚えてきたんですかあんな芸」
「ま、閻魔大王ですから」
かかか、と偉そうに笑うと、途端にふっと表情を緩めた。
「ほんっと俺がいないとこだと素直なんだね」
「……ずるいですよ」
「ごめんねー俺反則が服着て歩いてるようなもんだから」
どんどん縮こまっていく鬼男の首をそっと撫でてやる。鬼男は抵抗をしなかった。
「じゃあ俺も一つ本音を言ってあげよう。ほんとはちゃんと意図的に変身解くつもりだったんだけど、さっきはほんとにびっくりして解けちゃったんだよ。だって鬼男君があんな」
「いいです!もう何も言うな!」
言葉の鋭さの割には勢いが弱まっていくその声が愛しくて、閻魔はぽんと鬼男の髪に手を置いた。

「もう淋しくない?」
腰に響きそうなほどの低く艶かしい声なのに、どこか慈しみを感じさせる、閻魔の問い。たまらず鬼男は強く目を閉じた。
「……ほんと、勘弁してください」
「はいはい」
さすがにこれ以上は可哀想になり、閻魔は質問をやめた。
昔自分が作った偽物の月を見上げる。自分の生み出したものは一つ残らず、美しいなどと思ったことはなかった。
しかし今は何故だろう、体が素直に月光の清らかさを噛み締めている。
眼下のくすんだ金髪に目を落とし、ああそうか、と胸の奥で呟いた。
子供を寝かしつけるように、少し硬い、その短い髪を撫でる。


「君の肩の上から見る世界は、なかなか新鮮だったよ」





相互御礼として蔵鳥さんに捧げたもの
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