ヘヴンリィカフェー 午後三時半。 雑踏を抜けて、どこにでもあるありふれたその場所へ向かう。 自動ドアを進むと、香ばしい匂いが鼻腔を満たす。ムーディーに落とした照明。カジュアルなBGM。ちょっと奇抜な絵画。オレンジのランプ。 自宅に戻ってきたのとはまた違った安心感を、ここに来るたびに抱く。 カーキのハンチングを被った若い男は、あまり広くはない細長い店内を進んだ。休日なら混む時間帯だが、平日なので空席はちらほらと見つかる。 にこやかに出迎えたグリーンのエプロンの店員を一瞥し、店の奥へと視線を投げる。感じよく後ろに撫でつけられた黒髪を見つけると、男はほんの少し早足になった。 待ち合わせをしていて人の中から相手を見つけたとき、何も変わったところなどないのに何となく他人に見えて、それでいて特別な感じがするのは何故だろうと疑問に思いながら。 小さめの丸テーブルで待っていた黒髪は、ハンチングの男に気づくと顔を上げて微笑んだ。 細身のモノトーンアーガイルのインナーは、それだけならきっと地味で物足りないであろうが、色の白いこの男によく馴染んでいて、男を少しだけ軽薄で、そして愛嬌のある姿に見せる。 「待ちましたか」 ハンチングはテーブルの上の空の紙カップに目を落とした。上手く飲めないと言って、黒髪はいつもカップの蓋を外してしまう。 「いいよ、待つの好きだから」 開いていた文庫本にしおりをして閉じ、テーブルの隅に置いて立ち上がった。ハンチングが帽子を椅子の背の角にかける。その下の髪はくすんだ金髪だった。 「すみませんでした。何飲みますか」 「いいって言ってるでしょうが。部下は上司におごられてなさい」 そのどこか得意げな顔が通り過ぎていくのを見ると、金髪は肩をすくめて上司の背を追った。 「どうするの」 「エスプレッソ。ダブルショットで」 「にっがぁい」 金髪がレジの横のフードボックスを眺めながら淡々と告げると、黒髪が眉を寄せながら苦笑した。安物のエスプレッソは飲めたものではないので、ここぞと苦みを堪能したかったのである。 「ほら、男が突っ立ってると邪魔だから戻ってな」 ぼんやりとしていた金髪の肩を軽く押して、保護者のように黒髪が笑う。あからさまに子供扱いをされて気分は良くなかったが、狭い店内で意味もなく立っているのも気がひけたので、大人しくテーブルへ戻っていった。 テーブルの隅の文庫の表紙を眺めていると、黒髪がトレーと共に戻ってきた。金髪はトレーの上で湯気を立てているキリマンジャロのブラックに少し目を丸くした。 「キャラメルのグランデが来ると思ってたのに」 「それも好きだけどね」 「飲んだことあるんですか」 「わりといけるもんだよ」 平然と言ってのけるその顔を見ただけで、金髪は胸やけを起こしそうになった。そしてそらした目線の先にあった薄桃色のクリームに顔が引きつる。 「恥ずかしい奴だな」 「男がケーキ食って何が悪い」 「いや別に悪かないですけど」 「だって、甘いのと一緒じゃないとブラックなんて飲めない」 大きな桜のシフォンケーキの向こう側でむすっとしている三十過ぎの男を、金髪はどこか諦めたような表情で眺めていた。 濃い香りと共にエスプレッソを口に含むと、指先の神経が冴え渡ると同時に心臓の辺りに温度が与えられる。 黒髪はいそいそとクリームに包まれたスポンジにフォークを入れている。小さめに切って口に入れ、すぐにコーヒーにも口をつけた。 この人の食べ方は案外上品だ。金髪はしみじみと思う。 黒髪はもう一切れ作ると、ごく自然な所作でそれを金髪の方へ向けた。 「一口」 「あー、いいです。今クリーム系はちょっと」 やんわりと断ると、黒髪は「そう?」と言って差し出したフォークの先をそのまま自分の口の中に持っていた。その拍子に口の端に少しだけクリームが付く。それに気づいた金髪が紙ナプキンを差し出した。 「付いてますよ」 指摘され、黒髪は舌で唇を舐めた。金髪が首を振る。 「違う、逆」 「取ってよ」 「アホか」 甘ったるい声を押し返すように、金髪は強引にナプキンを押し付けた。黒髪が可笑しそうに笑いながら言われたとおりに拭ったのを見ると、金髪が頬杖をついてため息をつく。 コーヒーで喉を潤すと、黒髪はおもむろに金髪の剥き出しの鎖骨に手を伸ばした。黒のVネックからのぞく、褐色の肌に。同じくカップに口をつけていた金髪が顔を上げる。 「何ですか」 「シルバーが必要だ」 何か思いついたようである楽しそうな顔を、金髪はまじまじと見つめる。 「必要って」 「この後俺が見繕ってあげるよ」 それを聞いて、金髪が渋面を作った。 「この前も似たようなこと言って勝手にジャケット買ったじゃねぇか」 「喜んで着てるくせに何言ってんの」 「もらえるもんはもらっとく主義なんで」 「じゃあ今回も」 にっこりと隙のない笑みを向けられると、金髪は観念して肩を落とした。どうせぐちゃぐちゃ言ったところで貢がれるのだ、文句を垂れるだけ気力の無駄というものである。 「だってここ寂しいよ」 鎖骨の線に沿って肌をなぞるその指を、金髪はつまんで制止した。呆れて俯いたその顔は羞恥で歪んでいる。 「わかった、わかったから触るな」 黒髪ばかりが楽しそうに微笑んでいるのがどうにも癪だが、もうこうなると完全にペースを持っていかれているので、どうしようもない。そして、とっくに奪われた主導権がちっとも惜しくないことに、皮肉にも金髪自身が気づいていた。 桜のケーキが姿を消し、カップの最後の一滴が飲み干されると、二人は席を立った。 男は背もたれにかけてあった黒の小ぶりのウエスタンをさっと手に取り、首筋にかかる程度の少し長めの黒髪に被せた。金髪は自身もハンチングを被りながら、その仕草を見ていた。自分には似合わないから買おうとは思わないけれど好みの型であるそれが、彼の頭にあることに何故だか安堵しながら。 ライトカラーのタイトジーンズが二つ、コーヒーショップを後にする。店員のほがらな声に見送られて。豆の香り、人の声。センスのいいタンブラーが並び、そして洒落たマカロン。 ふらりと立ち寄り、コーヒーを飲み、軽口を楽しんで、さらりと出てゆける、この気安い場所。 二人の男はそこを気に入っている。 ありふれた雑踏の端にある、ありふれた空間。 でも、ちょっと特別な。 頂いたイラストから書き起こし、まつさんに捧げたもの イメージイラストはこちら |