寵愛




気がつくと、僕は長い長い列の一番後ろに並ばされていた。
息を吸うと、鼻腔に何か得体の知れない、しかし不快ではない空気の匂いが入り込んでくる。嗅いだ事が無いのに何故か懐かしい。
僕の身体は死んだのだと、その時穏やかに悟った。
辺りは霧が立ち込めているように薄曇り、前に並んでいるおびただしい人数の死人は確かに喋くっているように見えるのに、どうしてかとても密やかである。
不思議な場所だ。僕は簡単すぎる感想を頭の中で述べた。
少しずつ進む列に引きずられながらも、僕は酷く冷静だった。その実、身体の一番中心はじわじわと熱を持っている。
死んだという事実は少しも恐ろしくなかった。死にたかったわけではないし、死ぬ瞬間は痛いのだろうか苦しいのだろうかと思うと怖くもあったが、絶対に死にたくないとは微塵も思わなかった。

だって、死ねばあの人に会える。

だから死後の世界が存在しないとは欠片も思わなかった。そんなこと、あってはならないからだ。
僕はひたすらに静かな気持ちで自分の番が回ってくるのを、列が消えてなくなるのを待っていた。
広間に通されて目に入ったのは、玉座に座った病的に白い肌の男だった。
奇妙に白い肌は僕に似ている、と一瞬思ったが、男の体から立ち上っている感じたことのない気配で、それが人ではないことが十分にわかる。
彼は僕を視界に捉えるとうっすらと微笑んで指を組み直した。

「お待たせ。ずいぶん待ったでしょう」

僕は答えなかった。その間、目をあまり動かさないように努めながら辺りを見渡した。天国はどこから行けるのだろう。
この、人ではない者の隙を果たしてつくことができるだろうか、と僕は思う。
自分が地獄行きであることくらい承知していたので、列に並んでいる間どうにかして隙をついて天国へ逃亡しなければならないと考えていたのだ。
あの人は、天国にいるだろうから。

「待っててもらったところ悪いんだけどね」

言葉を続けられ、僕は視線を男へ戻した。恐らくこの男が『閻魔大王』と呼ばれる者なのだろう。
書物や絵巻ではもっと化け物じみた描写をされていたが、拍子抜けするほどその男は人間だった。貧相ですらある。
けれど、男は紛れもなく人外だった。

「君を裁こうにも、書類がどこにも見当たらないんだ」
「は?」

僕は思わず声を上げた。言っている意味が分からなかったから。

「困ったね」

ちっとも困っていなさそうに、閻魔大王は肩をすくめて笑っている。笑いごとではない。

「僕は確実に地獄です。地獄はどっちですか」

扉は二つあった。地獄がどちらであるかさえわかればそれでよかった。
何も天国にずっと居座ろうだなんて考えてはいない。一目でいいからもう一度会いたいだけなのだ。
そうすれば僕は、ようやく全てを諦めて解放され、罰を受けることができる。

「そんなのは君の知る所じゃない」

大袈裟に眉を八の字にして閻魔大王は言った。

「君が天国行きか地獄行きかは既に決まっていて、俺はそれを言い渡すだけなんだから」

それなら尚更僕の行き先は決まっている。
あの人を愛してしまった僕は、地獄に落ちるべきなのだ。

「というわけで君は『保留』だ」

たまにあるんだよね、と閻魔大王は億劫そうに言った。そして億劫そうに席から立ち、大きく伸びをした。

「だから今の君は天国にも地獄にも属せないんだ、ごめんね。今日の俺の仕事これでおしまいなんだ。行くとこないだろうし、付き合ってよ」

僕は呆然としてしまった。どちらにも行けないとはどういうことだろう。ぺらぺら喋った後帰り支度を始めた閻魔大王に、僕は少し焦った声を向けた。

「それは困ります」
「俺も困ってるんだ。でも仕方がない」

半ばぴしゃりと言われ、僕は返す言葉を失う。閻魔大王は人の良さそうな笑みを浮かべて手招きをした。

「行こう。美味しいお酒をご馳走するから」

僕は戸惑い、無言だった。その場から動けなかった。

「名前は?」
「河合曽良」

いい音だ。閻魔大王はそう言って愉快そうに笑った。

「おいで曽良」

僕はついて行くしかなかった。



彼の行きつけであるという居酒屋に行くまでの道中、大きな建物の中を通った。
彼はいちいち通り過ぎる部屋の説明をして解説を加えた。観光をしているような妙な気分になる。
たまにすれ違う職員らしき人が、彼の姿を見るとちょっとぎょっとして、すぐに深々と頭を下げて通り過ぎて言った。やはり偉い人なのだ、とぼんやりと思う。
彼は終始笑顔だった。何がそんなに楽しいのか、僕にはまるで理解が出来なかった。
彼の解説にはあ、とかへえ、とか適当な相槌を打ちながら、この人結構足が長い、などとふざけたことを考えたりしていた。
この馬鹿でかい建物は閻魔庁と呼ばれていて、彼の職場なのだそうだ。
向かった先はこざっぱりとした小さな居酒屋だった。大王御用達なのだからもっと大きくて洒落たところなのかと思っていたが、意外に庶民派なのかもしれない。
彼はてきぱきと注文し、運ばれてきた臙脂の杯に酒を注いでくれた。金色に輝くそれは、ほんの少しとろりとしていた。

「どうぞ」

勧められて、静かに盃を手に取り傾ける。飲んだことのない味だったが、とにかく甘かった。

「蜂蜜ですか」

彼はまさか、と言って吹き出した。そして口角をくい、と上げて僕を見つめる。

「神様のお酒さ」





ある日の朝、僕は彼の私室の引き出しの中からある物を見つけた。
それは僕の死後判決に関する書類だった。
僕の顔写真と名前だけはわかったが、あとの項目は不自然にぼやけて読むことが出来ない。まるで無理矢理もみ消してあるように。もちろんどちら行きかもわからない。
その上から見たことのない異国語のような字の印が押されていた。
その印に触れると少し寒気がして、身体が徐々に重くなっていくような感覚に陥り、僕は手を離した。
そして全てを悟った。何もかもが意図的だったのだと。
反対側の壁の姿身を振り返った。自身の黒髪の中にひそりと生えている小さな角に手を伸ばす。
これが生えて、もう十年は経つ。
ということは、僕が彼の部屋で暮すようになったのはもっとずっと前に当たる。
僕は姿見の中の自分を見つめながらぼんやりと考えた。昨夜も彼に散々愛し尽くされた、僕の身体。
あの人はどこにいるのだろう。





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