フロムブラックマンション―午前七時


ベーコンの焼ける匂いで目が覚めた。
普段の起きぬけの気だるい体が嘘のようで、僕はベッドから飛び起きてキッチンに小走りで向かった。

彼は料理をしていた。
フライパンで、ベーコンを焼いていた。油の弾ける音、香ばしい匂い。パンの焼ける匂いもした。オーヴントースターを見ると、スライスされたフランスパンだった。
呆然と立ち尽くしている僕に、彼はフライパンから目線を外さずに話しかけた。

「座ってて」

鼻歌でも歌いだしそうな機嫌のいい声だった。酔いから来る機嫌の良さではなかった。朝に似つかわしい、自然で、ごく穏やかな。
ざるに入ったレタスに、水が落ちる。何もかもを遠ざける水道の音。蛇口を捻ったのは、無論彼だ。

僕はぴくりとも動けない。

「すぐ出来るから、座って」
彼は再度僕に勧めた。僕はどうにか唇を数センチ開けることに成功し、掠れた声で尋ねた。
「料理が出来たんですか」
彼は微笑んだ。
「俺実は何でも出来るんだ」
僕は再び口を強く閉ざす。知らず、両肩がじわりと上がる。彼は火を止めて、焦げ茶に縁取られたピンクのベーコンを真っ白な皿に置いた。そこには既に、焦げ目の見当たらない、形の綺麗な目玉焼きがいた。
油にまみれたフライパンをシンクに置くと、突っ立っている僕に寄り添った。
「冗談だよ、そんな顔しないで」
気まぐれさ、彼は僕をどうにかして安心させようとそう付け加えた。残念ながらまるで安心出来なかった。
「大体、これが料理のうちに入る?どれも焼いただけだよ」
「あなたが台所に立っているのが気味が悪いんですよ」
冷やしたビールやワインを冷蔵庫から出す以外に。僕はようやくダイニングの椅子に座った。人の家に上がり込んだような気がした。
運ばれてくるグリーンサラダ、目玉焼きとベーコンのプレート、バターの塗られたフランスパン、アッサムとダージリンのブレンドティー、グレープフルーツ、何もかもが作り物めいて見えた。それでも恐る恐る口にしてみれば、泣き出しそうなほど誠実な味がした。

実際、僕は泣いていた。

「どうしたの」
彼は少しだけ驚いて、フォークを持ったまま固まった僕の肩に手を置いた。人は、嗚咽も何も無しに号泣が出来るものなのだな、と他人事のように思った。
「いつもと逆だ」
どうしたらいいかわからないらしく、彼はぎこちなく笑ってそう言った。泣いて僕を困らせるのはいつも彼だ。
「わかった、もう料理はしないよ」
彼に包みこまれるように抱きしめられると、僕は女の子のようにぐすぐすと泣き出した。とても久し振りに流す涙だった。僕が流す分の涙は、いつだって彼の目から全部流れてしまうから。

彼は実は、フランス料理もイタリア料理もスペイン料理も鼻歌交じりで作れてしまうのではないか。
それはどこで教わった?誰から?
あなたはどこにいた?どこから来た?

頭の中で発生する大量のクエスチョンでぐらぐらする。
こんな情報はいらない。
彼が本当はどこへでも行けるかもしれないだなんて。


どこにも行かないで
一人にしないで、ここにいて
お願い


これは誰の言葉だ?




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