フロムブラックマンション―夜 ここ数日、彼とセックスをしていない。 あの悪夢は毎晩見るが、彼を起こしてベッドに潜りこむことは出来なかった。彼の背中がこんなにも遠く感じられたのは初めてだった。 深夜、一人で汗ばんだ胸を必死に静めている僕は、哀れだった。 もうじきそのベッドが空になることに、心底怯えていた。 土曜日が来る。 僕は朝から夕方までバイトを入れていた。正しい判断だと思った。彼とあのマンションで朝からずっと一緒に過ごすということだけは、どうしても避けたかった。とてもじゃないけど、僕がもたない。 胸に引っかかるものがあろうと、バイトでミスをすることはなかった。連動していなくて助かった。だとしたら僕は今日一日でバイトを首になっていただろう。 しかし顔色だけはどうしようもなく、声にもやはり覇気はなかった。見かねた店長が、他の人にもう少し長めに入ってもらうよう頼んでみるから、帰って休んだらどうかと提案してくれたが、僕は丁重に断った。頼むから僕を追い出さないでくれ。 こんなことならもっと遅くまでシフトを入れておけばよかった。シフト提出は一カ月前なのでどうしようもないが、僕は悔みながら家路についていた。 宵闇にそびえ立つマンションを見上げると、僕の足が鈍った。口の中で作られた息はあまりに重く、溜め息として外に出て行くことも出来なかった。 鍵を開けて中に入ると、玄関に座り込んでいる彼の姿があった。僕に気がつくと、すっと立ち上がって「おかえり」と言った。僕は「ただいま」が言えなかった。 おもむろに僕の手を取ると、僕の顔を真っ直ぐに見つめてきて言った。 「話したいことがあるんだ」 僕の呼吸が止まる。返事が出来ない。肩は、依然としてがっくりと落ちている。 この人には、八時間労働で疲れている人間を労わろうという気遣いなど備わっていない。 リビングまで僕を導きソファに座らせると、隣に座ることもなく、僕を見降ろしたまま彼は重い口を開いた。 「ここをね、出ようと思う」 当然のことながら、僕は大して驚けなかった。何しろ夢の中で何度も聞いていたから。 しかし彼は、不自然なほど顔色を変えない僕を訝しげに見ている。 「驚かないの?」 「フランスに行くんでしょう?」 平坦な声で問い返すと、彼は眉を寄せた。 「君は勘違いしてる。彼女は関係ない」 「白々しいこと言わないでください」 「何で怒ってるの」 「怒ってなんかいません」 もちろん僕は怒っていた。見え見えの嘘をつく彼が、「何で怒ってるの」だなんて平気で問う彼が、心底腹立たしかった。 「手紙の内容、仕事の紹介だったんだ。元々あっちで仕事してたから、戻ってきてほしいって」 「どうして日本に?」 だんだん刺の出てきた僕の語調に、彼は口を閉ざす。沈鬱な表情で俯く彼を見ても、同情の念が少しも浮かんでこない。ただ冷たい目で見上げてしまう自分がとても惨めだった。 長く感じられた沈黙の後、彼はようやく答えた。 「彼女とは、きちんと別れてなくて、逃げるように帰国したんだ」 僕の下がり切っていた瞼が少し上がる。さすがにそこまでは、夢は教えてくれなかった。 「そのままここに転がり込んで、出られなくなった」 一体どんな無茶苦茶な恋愛をしてきたんだと尋ねたかった。これが他人事であったならば。 今の僕に、少しの好奇心も残っていない。 「でも、いつかは出なくちゃってずっと思ってたんだよ。君に迷惑かけ通しだったから」 僕は今にも笑いだしそうだった。何を言っているんだろうこの人は。 さっきから何の冗談を口走っているんだ? 「迷惑かけてる自覚があったんですね」 冷ややかに言うと、彼は酷く脆く見える微笑をした。 「君があんまり優しいから、たまに都合よく錯覚しそうになるんだ」 意味がよくわからず、僕は怪訝そうな顔で彼を見上げた。彼は目を細めて笑った。 「君も俺を好きなんじゃないかって」 僕は自分の目がじわじわと見開いていくのを感じた。心臓はどんどん重くなっていくのに、体だけ浮遊していきそうな、奇妙な感覚を味わう。 何度でも言おう。 何を言っているんだこの人は。 「でも、これ以上君に甘えられない。俺はもちろん駄目になるし、君まで駄目になる」 肩が小刻みに震えだす。急激に襲う吐き気。 お願いだから、もう喋らないでほしい。 「今まで、ごめんね」 瞬間的に膝に力が戻り、僕は立ちあがって彼の胸倉を掴んだ。顔を上げられなくて下を向いているため、彼の表情は伺えないが、恐らく驚愕している。 「何言ってんだ」 僕は極めて低い声で唸るように言った。冷静が、理性が、音もなく一斉に後退を始めている。とても性急な速度で。 今更何を言ってるんだ。 「謝るなんて、吐き気がする」 人をこんな体にしておいて。 「アンタは何もわかっちゃいない」 ゆっくりと顔を上げると、僕は自身の青ざめた頬に涙がいくつも伝っていることに気付いた。声も酷く、掠れている。 「逆だろ。アンタは僕を好きでも何でもない。何が迷惑がかかるだ。彼女とよりを戻したくなっただけだろ。もっともらしいこと言って、綺麗におしまいにするつもりかよ」 知らず、口角が上がる。 怒りを通り越して、僕の頭は恐怖に支配されていた。怖くてたまらなくて、震えが止まらない。そうなるともう、薄ら笑いを浮かべるしかなくなってくるのだ。 はらはらと泣きながら、僕は亡霊のように笑っていた。 「ふざけんなよ」 僕を簡単に一人にするくせに。 彼のシャツを掴み上げたまま、がくりと項垂れた。しばらくの間声が出せず、重い沈黙を保っていたが、不意に半開きの唇から息が漏れた。 「こんなろくでもない男、何で好きになっちゃったんだろう」 声に出すつもりなどなかったのに独りでに出てきてしまった、情けない呟き。涙声なので、そのみっともなさは途方もない。 消えてなくなりたい。 僕は無造作に濡れた目元を拭うと、彼に背を向け玄関へ向かった。虚を突かれた彼の声が背中に当たる。 「どこ行くの」 返事をせずにドアの鍵を開けると、彼に肩を掴まれた。 「もう夜だよ」 たしなめるような彼の声が僕を変に刺激し、その手を思いきり振り払ってしまった。面食らった彼の顔が視界に入る。 見るもの全てがかなしい。 僕はじくじくと疼く涙目で彼を睨み上げた。 「アンタみたいな臆病者が、ここから出られるわけない」 彼が悲しい顔をしたまま目を大きくした。僕は本当に悪い子供だ。でも、どうしたらいいのか本当にわからないのだ。 「僕が好きなら追ってこいよ」 三流恋愛小説に出てきそうな安っぽい台詞を吐いてしまったが、僕はいたって真面目だった。僕が真剣になると、全部が滑稽に見える。 僕は短く息を吸い込んだ。 「そこから出られたらな!」 乱暴にドアを開けて、僕はマンションを飛び出し、夜の中を走った。 ただこれ以上彼と一緒にいるのが耐えられなかっただけだ。何でもいいから彼の姿を見なくていい状況が欲しかった。 それだけだ。だからただ単に黙って出て行けばよかったのに。頭が冷えたら戻ってくるつもりだったのに。 あんな恐ろしい台詞を吐いておいて、どうやって戻ってくればいいのだろう。 僕は早くも迷子になってしまった。 色々なことがありすぎて、もう頭のキャパシティが限界だ。 怒っていたはずなのに、失望していたはずなのに。 自分自身から出た言葉でいっぺんに絶望してしまうなんて、滑稽もいいところだ。 僕は夜を闇雲に走りながら静かに悟った。 もう帰る場所はなくなったのだ、と。 |