フロムブラックマンション―午後の光


毎日少しずつ荷物をまとめて(大して持ち物などなかったけれど)、彼は明け方にマンションを出て行った。
何も言わずに出て行った。さよならも言わずに。
僕は、それは正解だと思った。ちっとも『Goodbye』なんかじゃないから。少なくとも、僕にとっては。
がらんとした寝室を見る。片づけられたベッド。シーツに乱れはない。リビングに行っても、ソファに転がる体を見ることはない。冷蔵庫をしょっちゅう開けていた彼の姿は、台所にはもういない。
僕はフローリングにへたりこんで嗚咽もなしに泣いたりぼうっとしたりを繰り返して午前中を過ごし、余っていた味噌汁を温めて胃に流し込み、午後から学校に向かった。
バイトを終えて、誰もいないマンションへ帰宅する。ドアを開けても何も起こらない。おかえりと嬉しそうにする声も、遅いと駄々をこねる声も、一刻も早くしたいとねだる声も。
僕を不健康にする腕も。

一人暮らしとは、どうやって暮らしていけばいいのだったか。
僕はすっかり忘れてしまっていた。

冷蔵庫の中には、まるで減りやしない缶ビールが一パック、息を潜めるようにして淡々と冷やされている。






僕は大学生になった。
浪人する気にはなれなかったので、あまり高望みせずに妥当なところを選び、そこそこの勉強に励んで、誰に心配されることもなくすんなりと入学した。
一人暮らしはそのまま続行した。大学はこのマンションから楽に通える範囲だったので、親も特に何の意見もしなかった。
ここを離れる気にはなれなかった。あの日全てを諦めた気になっていたのに、実際は未練がましくこの場所にいついている。
所々に残っている彼の記憶や痕跡に耐え切れず、早々にここを出て行くことになると思っていたのに、逆にそれらから抜け出せなくなっていた。
これは檻だ。きつくなったから彼は出て行ったのに、僕は彼の残した物々を置いていけず、ここに閉じ込められたまま。


「じゃあね」

ライトブラウンの長い髪が波打ってこちらを振り返る。手入れの行き届いた髪からはイングリッシュローズだか何だかの香りがした。僅かに縋るような表情を見せて、彼女は尋ねた。
「今度はいつ来ていいの?」
一人暮らしなんだから、突然来たって構わないよ。
彼女の期待する言葉を頭に浮かべながら、僕はそれを口にしない。もちろん合鍵だって渡さない。
「後でメールする」
たしなめるように言うと、彼女は安堵して微笑した。彼女がようやく玄関を出たので僕はドアを閉め、短い溜め息をついた。レポートを片づけてしまおうと、寝室に戻ってパソコンを付けると、チャイムが鳴った。
忘れ物でもしたのだろうか。僕はすぐにインターホンへ向かった。モニターがないので不便である。受話器を取って、一応は彼女の名前を呼ばずに「はい」と返事をした。
しばらく不自然な沈黙が耳から流れてきた。悪戯だろうか。不審に思った僕が受話器を戻そうとした時、来訪者は言葉を発した。


『ただいま』


僕は息を吸い込んで石のように固まった。目がこれでもかと見開かれているのがわかった。
聞き間違いだと思った。よく似た誰かの声だと。
けれど、ここに『ただいま』を言いに来る人間を僕は一人しか知らない。

『俺だよ、わかる?』

そして僕の名を呼んだ。僕は何も言い返せず、受話器を乱暴に押し付けて玄関へ走った。きちんと引っかからなかった受話器がコードからぶらさがっている。
ドアを開けると逆光だった。午後の光の中に、彼はいた。
少し髪が短くなっていて、顔色も良くなり、一緒に暮らしていた時より若く見えるほどだった。

「久しぶり」

しかし声だけは寸分も違わなかった。僕はまたしても返す言葉が見つからない。口は間抜けに半開きだ。
「入っていいかな」
僕ははっとして身を引き、無言で彼を玄関へ招き入れた。彼は鼻から息を深く吸い込んでいるように見えた。そして満足げに微笑している。
靴を脱いでリビングに向かいながら、彼は口を開いた。
「ごめんね、二年もかかっちゃった」
僕は笑ってしまいそうになるのを堪えながら、努めて厳しい声を作り上げる。
「ちょっとより戻してただろ」
「ちょっとだけね」
大して悪びれもせず、彼は答えた。リビングに入ると、彼はすっきりとした表情で僕を見る。
「でもちゃんと終わりにしてきたよ」
僕は苦笑して肩をすくめた。どうリアクションしたらいいかわからなかった。安堵すればいいのか、納得すればいいのか。
いや違う。あまりにも自然に彼と話している自分に動揺しているのだ。

「女の子が出てきたけど、彼女?」
やはり入れ違いだったようだ。タイミングがいいんだか悪いんだか。僕は何も言わずに頷いた。彼は面白そうに尋ねてくる。
「何してたの」
「キスしてた」
彼が可笑しそうに笑うので、僕もつられて口の端が上がってしまった。
「どうだった?」
あまりに気軽に聞いてくるので、僕は逆に照れくさくなってしまい、目線をそらして少し間を置いてから穏やかな声で返事をした。

「あなたとしたくなった」

彼は強く僕を抱きしめ、長いキスをした。二年間があっという間に埋まっていく。彼の頬に触れ、首筋をなぞられ、腰に手を回し、体をぴたりとくっつける。顎をあまり上げなくても唇が届くようになっていたことから、僕は自分の背が伸びていたことに気付いた。
涙は出なかった。少しだけ異国の匂いのする肌。グレイのシャツ。眩暈がしそうだった。目を閉じていてもはっきりとわかる、瞼を温める日差しが心地よかった。

あなたは気づくだろうか。玄関のポトスが、二年前より美人になっていることを。
僕は水やりを欠かさなかった。あなたがかつて水やりに使っていたコップで。


僕たちを囲うブラックマンションはもうどこにもない。
日の光の差す、扉の開かれたこの場所で、僕たちはもう一度生きる。



Fin.








Thanks
Under the rain(ACIDMAN)/ライオン・翡翠(天野月子)



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