フロムブラックマンション―ジントニックの川 その晩、僕はジントニックの川に浮かぶ夢を見た。 ジントニックの匂いはしなかったけれど、何故かその水がそれだということは分かった。 溺れもせず、僕は器用に浮いていた。川の流れに身を任せて。 気分がよかった。 僕は幸福だ。 酷く危険な川だった。 あれから一週間も経たないうちに、僕は彼女に別れを切り出した。 「どうしてそんなこと言うの」 彼女はあっという間に涙を流し、床を睨みながら必死に目頭を押さえ、目尻を擦る。 僕が答えられずに黙っていると、彼女は、不謹慎にも可愛いと思ってしまうような、小さな声で尋ねた。 「他に好きな人が出来たの?」 「うん」 正確には違った。「出来た」わけじゃない。 しかしこれは嘘ではない。僕はそう判断して、それ以上何も言わなかった。 彼女は一層泣いた。 「あたしのこともう好きじゃないの?」 「そんなことないよ」 ただ君より好きな人がいただけで。 最後の言葉はかろうじて喉の手前に引っ張ったが、言いながら僕は自分自身の残酷さに戸惑っていた。 「最初からあたしのこと、そんなに好きじゃなかったでしょ」 蚊の鳴くよりもか細い声で、彼女は言った。 僕はもう一度「そんなことないよ」と言おうとして、やめた。 僕がこの二年、彼のことを忘れようともしなかったのは、動かしがたい事実だった。 「抱きしめて。キスもしてよ」 僕は彼女の要望に、一瞬驚いた。顔をぐしゃぐしゃにして懇願する彼女は、 「最後くらいいいじゃない」 哀れで痛々しく、壮絶に綺麗だった。 僕は言われたとおり、彼女を包むように抱きしめた。細い肩。イングリッシュローズの香り。薔薇にそんな名前があると知ったのは、彼女の口からだった。 僕のTシャツにしがみ付きながら彼女はぼろぼろと泣いている。僕は彼女の耳元に唇を寄せ、少しだけ戸惑った声を出した。 「キスもした方がいい?」 彼女はしばらく言葉に詰まり、部屋の中にはひっくひっくという彼女の喉の音だけが響いた。 そして激しく首を振り、僕の胸に顔を押し付けてまた泣いた。 彼女にとって、最後にキスをすることがいいことだとは思えなかった。だから僕は尋ねた。そして、予想した通りだった。 僕は彼女の頭を抱きながら、驚いたことに自分も泣いていた。 好きな人に愛してもらえないこと、そばにいてもらえないことの空しさを、僕は知っていたからだ。 彼女のために泣いてあげられないことに、また泣いた。 しかしそれすらも正しいのか分からなくなり、僕はひたすら泣くしかなかった。 「びっくりした」 帰宅すると、彼が夕飯を作って待っていた。具だくさんの炒飯が二つ、テーブルに乗っている。返事が出来ず、すぐに椅子に座ってスプーンですくうと、ぱらぱらと音がした。 何故僕が食事の用意をしていたのだろう。僕は少しむっとしてしまった。 「別れ話してきたんだよね」 「はい」 「何で君まで泣いたの」 少し充血した僕の目を見ながら彼は尋ねた。僕は存外はっきりと答えていた。 「思いが通わないのは悲しいから」 彼は少し目を丸くして、すぐに苦笑した。 「あなたの彼女も、泣きましたか」 今度は僕が尋ねると、彼は「泣いたよ」と答えた。 「あなたは?」 さらに質問すると、彼は照れくさそうに笑った。 「泣いたよ」 僕もつられて笑ってしまった。 来年の夏、フランスへ旅行することを約束した。 彼の過ごした街を二人で歩く。 たくさんのものを犠牲にした後で。 僕たちはどこへでも行くのだ。 誰かが笑えば誰かが泣く。逆も然り。 そういうもんだと、私は思っています。 だからこれはハッピーエンドの話ではありません。ハッピーエンドなんて元よりありません。 でもそれは悲しいことではなくて、当たり前のことなのです。 |