最後の祈り




彼が大好きだった。
愛していた。
別れを告げられるだなんて夢にも思わなかったし、結婚を考えていたわけではないけれど、それでもずっと一緒にいられるものだと思っていた。
まだ付き合って半年しか経ってなくて、まだセックスはしてなくて、それでも抱きしめられて頭を撫でられてキスをされると私は世界で一番幸せになれた。
ずっと気になってて、ずるいと思いつつも告白してほしくて、彼から言ってくれた時は本当に嬉しかった。夢のようだった。
言いづらそうに「ええと」と「その」を何度も挟みながら付き合わないかと言った彼の俯いた顔が愛しくて、これから私はこの人の彼女なんだと思うと踊りだしそうだった。
週に数回は彼のマンションに行った。休日には手を繋いで出かけた。買い物に行ったり、お茶をしたり、水族館にも行った。たまに彼の家でご飯を作って一緒に食べたりもした。
いつかディズニーランドに行きたいだとか、誕生日には何を贈ろうだとか、クリスマスはどこで過ごそうだとか、そんなことを考えていた。
彼の笑顔を見つめて、手に触れて、声を聞きたかった。
私は幸福だった。

彼は突然私に別れを告げた。
ものすごくショックだったし、悲しかったし、たくさん泣いた。狂いそうだった。
だけど心のどこかで「やっぱり」と納得している自分がいた。
告白してきたわりには私に対する執着があまり感じられず、私で納得しようとしている気がした。
本当は付き合って少しするとそのことに気付いた。でも認めなかった。幸せでいたかったから。
他に好きな人が出来たのかと尋ねると、彼は小さく頷いた。
別れを告げられてから一週間後、私は彼に電話をかけた。
「これで最後にするから、最後に一つだけわがまま聞いてくれない?」
彼は少しだけ黙った後、低い声で「いいよ」と言った。
その週の土曜の夜、私は彼と彼の新しい恋人と会うことになった。

午後六時半。駅前広場のベンチで薄闇の中を待っていると、彼が私の方へ歩いてきた。
隣を歩く人物を視界に捉えて私は目を丸くした。彼より少し背の高い、すらりとした身体の男の人だった。
白い肌に少し伸ばした黒い髪。皺一つないポールスミスのシャツ。瞳は切れ長だけれど優しい笑顔。
私の想像とは大きくかけ離れた、大人の男性が彼の横に立っていた。
私が呆然と見上げていると、その人はもう一段階微笑んで「はじめまして」と言って名乗った。円間という珍しい名前だった。
その声が耳から頭へ沁み渡るような綺麗な声で、そして整った鼻筋に不覚にも見とれてしまい、名乗り返すことを数秒間忘れた。

円間さんに連れられて着いた先は、小さいが洒落たイタリアンの店だった。円間さんはウェイターに何か言うと、奥へ通された。予約していたらしい。
大学生がそう気軽に入れる雰囲気ではないこの店の入り口で、私は居心地悪く肩を寄せていた。今月はあまりお金が無いので、自分の分をきちんと払えるかどうかの心配もしてしまう。
しかしテーブルに着くと、真っ白いテーブルクロスも、その上に乗っていると思っていたたくさんのフォークやナイフもなかったので私は心底ほっとした。
私と彼が一緒のソファに座り、向かいに円間さんが座った。彼と円間さんが一緒に座るのも見たくなかったが、久しぶりに彼の隣りに座るのもちょっと心臓に悪かった。
円間さんはにこにこしながら指を組んで、
「何でも好きなもの頼んで」
と言った。私は露骨にうろたえて
「いいです、自分で払いますから」
と返した。円間さんは首を横に振って、目を開けて笑った。
「給料日後で潤ってるんだ。心配しないで」
それもあるけどそういう問題じゃない、という台詞を飲み込んでしまった。ちっとも強引じゃないのに、この人には何か有無を言わさない物がある。
前菜として小海老とパプリカとレタスのサラダを頼み、円間さんは白ワインを、私はアプリコット・クーラーを頼んだ。お酒に極端に弱い彼は、何も頼まなかった。それが何故だか嬉しくて、私はこっそり笑ってしまう。
初対面の人と話すのが苦手な私は終始借りてきた猫のようだったが、円間さんは気にせず気さくに私に話しかけてくれた。冗談交じりに色々な方面の話題を操るので、教養が深い人だということが分かる。
一方、彼はいつになく口数が少なかった。それでも、たまに盗み見る彼の横顔は穏やかだった。それに耐えられず、私は円間さんに視線を戻す。
円間さんは、きっと世間一般に言う「いい男」だ。それも嫌みのない。きっと円間さんが彼の紹介じゃなく、そして二人で食事をしていたなら、今頃私の頬は何度も赤くなっていたことだろう。
そのせいで、私は円間さんに上手く嫉妬が出来なかった。そもそもいまだに信じられなかった。この人が彼の恋人だなんて。
あまりに魅力的な『男性』である円間さんが相手では、嫉妬も納得も出来ずに私の頭は混乱するばかりだった。
気がつけば、円間さんはかなりのハイペースでアルコールを頼んでいた。さっき頼んだばかりのスパークリングワインがもう半分になっている。
それを見て彼が呆れ顔でこう言った。
「紗南子の前でそんなに馬鹿みたいに飲むなよ。恥ずかしい」
私ははっと息を短く吸いこんだ。その瞬間、心臓に鈍い痛みが細くほとばしる。
円間さんは困ったように笑ってワイングラスから手を離した。
「ごめん。こんなに若い女の子とご飯食べるのなんてあんまりないからさ。実は緊張してるんだ」
彼はため息をついてラザニアを口にした。
「紗南子ちゃん大丈夫?ちょっと顔青いけど、お酒弱い?」
声を掛けられて我に返った私は、「平気です」と答えてカクテルを傾けた。アルコールの味がいやに強く感じられて、あまり美味しくなかった。

食事が終わり、本当に全額出してもらってしまうと、ちょっと寄るところがあるからと言って円間さんは改札の向こうへ消えた。
もうすぐ夜中になろうという駅前で二人取り残され、私は途方に暮れてしまった。ようやく二人きりになれたというのに、ちっとも嬉しくなかった。
人気のない細い裏通りを選んでしばし無言で歩く。
「面食いなのね」
私が不意に呟くと、彼は苦笑して「そんなんじゃないよ」と言った。
「嘘。それに羽振りもよさそうだし、話も上手だし、完璧じゃない」
彼は一層苦笑した。何がそんなにおかしいのか、私にはわからない。
「紗南子は、いや、女の子はああいうのがいいの」
その問いに答えず私が黙りこむと、彼は戸惑いがちに「ごめん」と言った。
「あたしこそごめん」
私は立ち止まって俯いた。下を向いた瞬間に涙が溢れそうになった。
「もうこんなこと言わないから。ほんとに、ちょっと見たかっただけなんだ」
誰もいないバス停に着き、私達は無言でベンチに座っていた。私は泣き出しそうなのをさっきからずっと我慢し続けていて、だんだん頭痛すらしてきた。
この瞬間も、私は彼に抱き寄せられることを期待しているのだ。だから早くバスが来ることを強く望んだ。
それでも彼に抱きしめられたかった。
宵闇の中にオレンジ色の電光文字が見えた。私はほう、と息をついて立ちあがる。
バスのドアが開く少し前に、私は彼を振り返った。
「お幸せに」
優しい声で言えたことにほっとし、バッグから財布を取り出して私はバスに乗った。
バスに人はいなかった。それをいいことに、私は声を押し殺して泣いた。バッグの中のハンカチを出すことも忘れていた。




「ありがとう」
自室に帰ると、彼は既に帰宅していた。テーブルの上のグラスの中身は水だったので、僕はほっとした。
「あんな感じでよかったかな」
彼の確認に、僕は頷いた。
「完璧だって言ってたよ」
彼はまた困ったように笑って「そっか」と言った。
少し疲れた顔の僕を、彼はごく自然な動作で抱き寄せた。彼の大きな手が僕の髪の中を撫でる。
「お疲れ様」
嘘みたいに優しい声で言うので、僕は彼の背に腕を回した。
紗南子の寂しそうな横顔が怖かった。崩れそうな細い肩が怖かった。弱々しい声が怖かった。
それでも僕は、この優しい声と、暖かい腕と、媚薬のような肌の匂いを失うことが出来ないのである。




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