浮遊する現 「鬼男君お酌して」 定時に仕事が終わって機嫌のいい上司が、へらへらとしたしまりのない笑みを浮かべながら、後ろ手に何か持って近づいてきた。 僕はそれを胡散臭げに見る。 「いいですけど、僕は飲みませんから」 それを聞くと、彼はつまらなさそうに肩をすくめた。 「鬼のくせに飲めないんだよね、君」 「アンタの飲む酒がいちいち強すぎるんですよ」 ザルめ、と言い捨てると、大王はにんまりと笑って背に回していたものを僕の顔に突きつけた。 「じゃん、知り合いがくれたんだ。蜂蜜酒だって」 凝った意匠の彫りが施されたライトブラウンの瓶に入ったそれの中で、琥珀色の液体がゆったりと揺れている。僕は顔をしかめた。 「甘そう」 「そ、甘党の俺にぴったりって勧めてくれたんだ。だからきっと鬼男君でも飲めるよ」 彼は普段アルコール度の高い日本酒やウイスキーを好んで飲むので、きついものが苦手な僕は酌をすることしか出来ない。一緒に飲んで酔ってやれないことに申し訳なさを感じるが、飲めないものは仕方がない。僕が二日酔いにでもなって翌日の仕事に支障が出たら、一番困るのは彼なのだから。 梅酒や缶チューハイ程度で我慢してくれればいいのだが、彼が「そんなんじゃ酔えない」と文句を言うので、酒盛りすることはあっても同じ酒を飲むことはほとんどなかった。 「度数はどれくらいですか」 僕が確認すると大王は即答した。 「知らない」 「聞いとけよ。なら飲みません」 「ケチ、味見するくらいいいじゃないか。上司命令、いや大王命令だよ。さあ行こう」 ぐいぐいと問答無用で手をひっぱられ、僕は呆れかえりつつも彼に従うほかなかった。目指すはいつもの場所、彼の私庭の縁側である。 山吹色の光を落す月を見上げながら、僕と大王は縁側に腰を下ろした。彼が持ってきたグラスを軽く揺すったので、僕は黙って酒瓶の封を開けて傾けた。 とくとくと小気味のいい音がする中、そこから蜂蜜の濃い香りとアルコールの匂いが混ざって鼻腔に入り込んでくる。僕は眉を寄せた。 「大王、これ絶対強いですよ。飲みませんからね僕は」 「そうかな。甘いし、強くても結構いける気がするんだけど」 「前から言おうと思ってたんですけどね、僕あんまり甘いもの好きじゃないんですよ。アンタが食べるから付き合ってるだけです」 「そうなの?」 露骨にがっかりして肩を落としたが、上等な酒を前にして心なしか目が輝いている。一方の僕は匂いだけでもう胸やけがしそうだった。 静かに縁に口をつけて呷ると大王が目を見開いた。 「久しぶりのヒットかも」 透明なグラスの中の蜂蜜酒をうっとりと見つめながら賛美している。割と味にはうるさい彼にしては、素直で素朴な感想だった。 「飲んでごらんよ。口当たりまろやかで美味しいよ」 「結構です」 僕はあらかじめ用意しておいた梅酒をグラスに注いでそろそろと飲んだ。お子様だと言われようが、僕はこれくらいが一番好みである。 しつこく文句を言われるかと思いきや、大王は上機嫌で二杯目をグラスに注いでいた。そしてそれを僕に向けて軽く振ってみせる。 「鬼男君」 僕も従って、半分まで入った梅酒のグラスを掲げた。何となく照れくさくて苦笑してしまう。 「良い月と、良い酒に」 「乾杯」 グラスのぶつかる美しい音がして、僕と彼の声も重なった。 確かに良い月である。星のない夜空に浮かぶ月は、僕と彼の視界のちょうど間に浮かんでいた。 密やかな夜の空気は、酒の味を上質にしていくようだった。 取り留めのない話をしながら杯を傾けていると、夜はとっぷりと更けていた。 僕はというと、途中で飲むのをやめてしまった。それでも頬がほんのりと熱いのだから、やはり相当酒に弱いのだろう。大王の酒を断って正解だった。 彼も心底味を楽しみながら飲んでいたので速度としてはゆっくりだったが、一口一口が重そうなあの酒を一瓶空けてしまった。彼から漂ってくる甘ったるい匂いに頭がくらりと揺れそうである。 だんだんとお互いに口数が少なくなってきたので、僕は月を見上げていた視線を隣の大王まで下ろした。僕と違って肌が白い彼は、きっと酔ったらさぞかし頬が赤くなるのだろうと思っていたのだが、生憎彼が酔ったところを見たことがない。今日までは。 蜂蜜のようにとろんとした目をしながら、その下の頬を薄紅に染めてぼんやりと足元を眺めていた。傾けた首筋やら何やらから匂い立つような色気を感じ、僕は心臓がぞくりと鳴ったのを聞いた。 「あの、大王」 どぎまぎしながらも異常事態に不安になった僕は、恐る恐る彼に声をかけた。すると閉じられていた唇がすう、と弧を描く。 「美味しかった、あっという間に一本空けちゃったよ。今度またもらってこなくちゃなぁ」 思ったより呂律はしっかりしていたが、語尾がぼやけていて、どうやら本当に酔っているらしいことがわかった。グラスを横に追いやると、僕の方へにじり寄ってきた。 「ふわふわするなぁ。もう何年……何十年も酔ってなかったから、感覚忘れちゃったよ」 「ちょ、ちょっと」 酔っぱらいに近寄られて及び腰になっている僕は、後ずさりながら焦った声を上げた。それも空しく、しなだれかかってきた大王の体を受け止める羽目になってしまった。大王は僕の肩できゃらきゃら笑っている。 「すごいなこれ、上手くバランス取れないや。俺の体じゃないみたい」 「やっぱりそれ相当きついやつだったんですね。酔いすぎですよまったく」 「みたいだねぇ。口当たりいいからすいすいいけちゃって」 蜂蜜の匂い、彼の肌の匂い、髪の匂い、それらが一緒くたに襲ってきて、僕の頭もいよいよどうにかなりそうである。 そんな時、彼がいまだ浮遊しているような声で言った。 「ねえ男君。何か聞きたいことがあるなら言ってごらん。今の俺ならきっと何でも喋ってくれるよ」 僕は何を言われているのかよくわからず、一瞬息を飲んでしまった。 「あとは、そうだね。何されても許してしまうと思う」 やはり上機嫌で、しかし淡々と、そんなことを言う。何と言ったらいいか分からず、大王の背を支える、少し酔った自分の手の平が熱くなっていることだけが確かだった。 「こんなこと滅多にないから、大事に使っておきなよ」 何がおかしいのか、ふふ、と笑って僕の肩に鼻をうずめた。 そんなこと言われたって、どうしたらいいかわからない。そんな無防備な姿を晒して、それでも彼に逆らえない僕に、そんなことを言うのはずるい。彼の存在と彼の言葉。二重の意味で、僕は逆らえないのだから。 聞きたいこともしたいことも山ほどある。けれど出来はしない。前後不覚の彼にそれを強いる度胸は僕にはない。 試しに僕は言ってみた。 「なら死んでくれますか」 大王は可笑しそうに答えた。 「いいよ。一回だけね」 大王が重心を傾け始めた。このままだと僕が押し倒されてしまう。彼の背に右手を添え、左手で二人分の体重を支える。 僕は何をやっているんだろう。 「俺の死に様は、きっと身震いするほど綺麗だろうよ。君がしばらく立てなくなるほど、美しく死んであげる」 誰かこの酔っぱらいをどうにかしてくれ。言ってることが酔っているせいで支離滅裂としているのか、本気なのかよくわからなくなってきた。 今の彼なら、死ねと言えば本当に死ぬのだろう。勿論、それは世にも優美で華麗な「死んだふり」なのだろうが。字面にすると何とも滑稽である。 しかし、そうは言っても、見てみたい。と思ってしまった僕は罪深い。 死を司る男が演ずる、究極の死。駄目だ、僕も案外酔っている。 「好きだよ鬼男君」 そうやって、絶妙なタイミングで僕を乱す。 「君のために死んでみせよう」 そんな陳腐な言葉で口説く彼が心底愛しい。 「こんな安っぽい言葉でも、俺が言うとちょっと高級に聞こえるでしょう」 見透かされてももう動揺できなくなってきてしまった。彼を抱きしめているだけで酔いが移りそうである。 突然、大王が僕の腕からこぼれ落ちた。面食らってしまい、彼の体を咄嗟に抱えることを忘れた。僕の腿から膝にかけてを占拠し、彼は安らかに寝息を立てて眠ってしまった。 しばらくの間呆然とその様を見ていたが、うつ伏せでその体勢はあまり快適ではなかろうと思い、とりあえず縁側に仰向けに寝かせた。何の脈絡もなしに眠ってしまったから、本当に死んでしまったかと思った。 僕は少し戸惑ってしまったが、思い立って、眠ったばかりの彼に覆いかぶさり、顔を近づけてみた。 「白々しいですよ。狸寝入りのくせに」 返事はない。それでも僕は疑ったままだった。この人が僕の前できちんと眠っているところを見たことがない。だいたいいつも寝たふりを決め込んでいて、僕が油断したところでひっくり返されるのがいつものパターンだ。 眠れないのだ、この人は。僕はちょっとだけ悲しくなる。 彼の喉元に指先を置き、唇を近付けた。噛み砕くのは容易だ。 「本当に、好きにしちゃいますよ」 返ってくるのは規則正しい寝息だけ。僕はそこに口づけた。唇で脈を探す。思ったより滑らかな感触に、背筋が唸る。ひどく不道徳な行為をしているようで、かえって興奮がかきたてられてしまった。王の首筋を貪る配下。最低だ。僕は可笑しくて笑いそうだった。 「鬼男君」 身じろぎしながら湿った声でそう言われ、僕は飛びのいた。大王は目を閉じたまま眠たげに続ける。 「少し寒いから連れてって。歩くのが億劫だ」 飛び出しそうな心臓を鎮めたい一心で胸を押さえていると、彼は再び口を閉ざして寝息を立て始めた。 着物の合わせが乱れ、気分良さそうにくたりと横たわる彼を見て、ちょっとだけ途方に暮れ、しかししばしの逡巡の後に、彼の背と膝の裏に腕を滑り込ませた。 鬼の腕力なら、男一人の体など軽々と持ち上げられる。抱き上げた彼の顔をちら、と見ると、穏やかで気持ち良さそうな表情だった。眠るとこんなにもあどけない顔になるものなのか、と意外に思いつつ、彼のその表情は好ましく映った。 彼の寝室に辿り着き、寝台に寝かせ、乱れた合わせを直してやり、毛布をかけた。酔いも眠気もいっぺんに覚めてしまったので、この後どうしたらいいかわからず、しばらく彼の傍にいた。 暗い寝台の中で、大王はまた身じろいだ。目は依然として開かない。何かを探すように手がシーツの上を這い、僕の腕を探し当てて、確かめるようにそれに触れた。 「鬼男君」 掠れた声でそう言って、また動かなくなった。どこからが起きていて、どこからが寝言なのか最早わからない。さっきからこの人は何度も僕の名を呼んでいる。このまま部屋から去るのが正解なのか否かわからず、甘やかな困惑に浸った。 結局僕は寝台の横に座り、布団の端にうつ伏せて眠ることにした。布団に潜り込むなどという無礼な行為は、彼は許すだろうが僕は我慢ならなかった。 それにあんな強い酒を飲んだのだ。朝になって気分が悪くなっていたら、ここにいればすぐに世話ができる。 まあ、この人は『好きで』酔ったのだろうけれど。 僕は眠った。 傍で聞こえる彼の寝息が、こんなにも僕の鼓動を鎮めることを知らなかった。 明日の朝起きたら、思いきりからかってやろうと思う。 くだらないことを口走りながら、だらだらと甘えてきたことを。 そうして、「強い酒は大概にしよう」と思ってもらわなくては。 |