浮遊する夢


夢を見た。
ひどく長い夢だった。
全ての動きや進行がコマ送りのようにスロウで、思考さえそれに同調していた。



一点の光もなかった。
しかし不思議と自分の足元だけは見えた。
そろりと視線をそこに移せば、爪先と踵は一本の細い麻縄の上にあった。
私の体重で下方に軋み、そのさらに下には底無しの闇だけがあった。

その光景を見ても、足元が危うくなったり、腰の重心が乱れたりすることはなかった。手の平に汗をかくことも。
私に「恐怖」は与えられていなかった。
故にその言葉や意味は知っていたが、体感したことがないので、それは私のものではない。
そして実際私は、落ちないのだ。


前方にほのかに明かりが差した。縄が反対側の足場の柱にくくりつけてあることが、それでわかった。
人がいた。
白い大振りの着物に薄緑の袴をはいて、鬼の面を着けていた。面についているのだろうか、人毛ではなさそうな、長く白い髪を垂らしている。
背格好からして、少年だろう。そんなところで何をしているのだろうとぼんやり考えていたら、少年が縄に一歩足を踏み出した。鬼面のせいで表情は読み取れないが、その足取りはとても用心深く、慎重だった。
ぎし、という縄の軋む音がする。少しだけ胸が鳴った。この縄は二人分の体重に耐えられるのだろうか。そんなことを思って。
少年は大きく両腕を広げてバランスを取り、一歩一歩ゆっくりと歩を進めてくる。広げた腕から下がる着物の袖が美しい。
しかし、動きにくそうな着物、重い髪のついた面、なんと不必要なものばかり持ち合わせている子だろうか。落ちたら大変だ。
しかし彼は落ちなかった。引き換えに速度は酷く遅かったが、落ちなかった。

恐ろしくはないのだろうか。
暗闇の縄をあんな格好で、下がどうなっているのかもわからず、しかも縄の途中には私が立ちはだかっている。
可哀想に。きっと本当は怖いのだ。
同情を寄せていると、少年はいつの間にか私の前まで来ていた。
どうするというのだろう。私はここを動くつもりはない。突き落として先へ進むのだろうか。
しかし、何となく悟った。彼はそうはしない。
そんなにも愚かならば、きっとここを渡れなかった。
大した根拠はなかったが、そう思った。

彼の出方を待っていると、少年は舞の一つのような所作で右手を差し出した。手の中には何もない。意図が分からず少年の面を見つめた。
白粉を塗ったような奇妙に蒼白な肌、眉間に深く刻まれた皺、爛々と光る赤い目、頬まで裂けた口、金色の牙。面の禍々しい表情は、いっそ美しくさえ見えた。そしてその下の素顔に対する興味が一層強くなるのだった。
面の下の首の色は褐色だった。なめし革のような、綺麗な色。
少年は依然として差し出した手を引っ込めない。もしかして、と思い、その手を取ってみた。少年は降ってきた私の手を緩く握った。
私は驚いた。まさか本当にそのつもりで手を出してきたとは思わなかったから。
握った手には勿論体温があり、微かに汗が滲んでいた。
ああやはり怖かったのだ、と安堵して、彼の手を握り返した。私より一回り小さな、少年の手。

しかし、そのままである。
彼は私の手を引いてどこかへ行こうとはしない。手は離さないまま、じっと私の顔を見ている。
少し気味が悪くなった私は、試しに一歩彼の方へ踏み出してみた。すると彼が元来た方へ一歩踏み出した。
もう一歩踏み出すと、彼は体を反転させて、先ほどまで立っていた足場の方へ向いて、また一歩踏み出した。手は繋いだまま。
私はなんだか楽しくなって、今度は狭い歩幅で歩いてみた。すると彼も私が歩いている間、一緒にそちらへ進んでくれる。私が止まると、彼も止まる。
嬉しくなって、もう少し速く歩いてみた。思ったとおり、彼の速度も速くなる。しかし、足が少し震え、私の手を握る力が強くなった。
私のせいで怖がらせているとわかっていたが、歩けることが嬉しくて、どんどん速足になってしまった。だって、どんなに速くしても、彼が手を引いてくれる。


そうしているうちに、足が一瞬もつれて危うく落ちそうになった。背筋に一気に汗が走り、歩みを止めた。息も飲んでしまった。
少年が、気遣うようにこちらを振り返っている。心配ない、と伝えるように、私は笑顔を作ってみせた。それを見た少年は、また元のように前を向いた。
何故だろう。彼に確かに手を取ってもらっているのに、言いようのない不安で胸が乱れている。なのに、握っている私の手は安心しきっている。両極端な状態が体の中で同時に起こり、酷く気持ちが悪かった。
進むにつれて、私は何度も足を滑らせるようになった。次第に足の下の闇に意識がいくようになる。

このまま行けば落ちる。私は唐突にそう悟った。

湿って乱れた自分の吐息が聞こえてきて、私は自分が呼吸をしていることに気づいた。
そして恐れている。進むことを、落ちることを、この少年を。
彼は誰だ。何故ここはこんなに暗いのだ。何故縄の上を歩かなければならないのだ。いつになったら足場につくのだ。さっきから視界には入っているのに。
さっきまではなかった疑問が次々浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。思考が目まぐるしく働いている。
暗い暗い、明かりを頂戴。揺るがない場所に座って休みたい。眠りたい。そしてあなたはだあれ?

私は体が歓喜しているのを感じた。
ああ今私は鮮やかだ。
不安定で不確かな今この時に、生を感じている。

私は立ち止まった。一緒に止まろうとした少年の手を自分の方へ引いてみる。少年が「あっ」と声を上げた。初めて声を聞いた。
私は違和感に襲われた。ただのデジャビュだろうか。どこかでこの声を聞いた気がする。からりとした夏の真昼のような声。
引き寄せた彼の体の匂いが微かに鼻腔に入ると、不意に頭にある名前が浮かび、確かめるようにその名を口にしていた。


「鬼男君」


彼の面の白い髪が、しゃんと鳴った。呆然と私を見上げ、何も言わずに立ち尽くしている。私はその名を唱えてどうしてだか酷く安心していた。よく舌に馴染んでいる、丸い音。
急に寒気がした。足首と胸元。そう、ここは寒いのだ。私はまた嬉しくなった。この体は生活している。
私は彼の手を大事そうに握り直して言った。

「少し寒いから連れてって。歩くのが億劫だ」

ちょっと微笑んでみせると、彼はどこか照れたように俯いて自分からは動こうとしない私の手を引き、歩きだした。小さな彼に手を引かれている中、私は何とも言い難い幸福を味わっていた。縄の軋む音はさっきより大きく聞こえているが、気にならなかった。


私たちは延々と歩いていた。
時々私は「鬼男君」と呟いて彼の手を握り直した。そうするととても安心する。
私たちの足取りはくらくらと危なっかしかったが、それでも歩き続けた。だって進むにつれて、だんだんと暖かくなっていったから。
ああこのまま進めば、きっともっと足元がぐらぐらして、しまいにゃ落ちてしまうな、と思ったが、そうなったらどうしよう、と考えるのさえ楽しかった。
そうか私の思考は死んでいたのだな。感心して一人頷いた。彼はそんな私に気づかずそろそろと進んでいる。もう一度握り直すと、今度は彼が握り返してきた。私はまた嬉しくなってしまう。
耳を澄ますと彼の呼吸が聞こえてきた。私は満足げに笑う。試しに目を閉じてみると、面の髪と着物の白が瞼の裏に残った。





目を覚ますと俺は布団の中にちゃんと収まっていた。カーテンの合間から差す朝日に目を細めながら緩慢な動きで上体を起こすと、寝台の端で、酒に弱い秘書が眠っていた。
俺は寝転がったままにじり寄り、彼の顔のすぐ横まで顔を寄せると、彼の呼吸と匂いを味わい、「あ」と間抜けな声を上げた。

「君か」

瞼の裏に張り付いたままの白を、今ふと思い出したのだった。




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