Kanashi Loop いつだったか もうあまり覚えてはいない 閻魔大王になったばかりの時だった あの時確かに私は『人』だった 『人』であったが故に人を愛し、人を裁くことを恐れ、嫌い、憎み、世界の全てに抗っていた 私は完全なる閻魔大王になるために全てを捨てた 否、捨てさせられた 剥ぎ取られたと言うべきか 私は『人』ではなくなった その時からだった 裁いた瞬間にその死者の顔を忘れるようになったのは 「お疲れ様でした」 ことり、と穏やかな音を立てて机に置かれる陶器の音。湯気と共に立ち上るのは甘味を含んだカカオの香り。 褐色の指がそのとってからするりと抜けていくのを見届けてから、閻魔はありがとうと短く礼を言い、それに口をつけた。 身震いするほどの優しい味だった。どうリアクションしたらいいか分からなくなるほどに。 「美味しいよ、ココア」 「それはよかった」 閻魔が褒めると、鬼男は微笑した。閻魔は眩しそうにそれを見ている。しかしすぐに眉を寄せた。 恐らく鬼男自身もこの先一生言うことはないだろうし、閻魔もまたそれを指摘するのは是ではないと理解していた。 しかし、口元は好奇心に勝てなかった。元来閻魔は自身の乏しい好奇心には常に従うようにしている。常にとても退屈だから。 「君、俺のこと好きでしょう」 夜更けの執務室だった。 閻魔は何の脈絡もなく自身の秘書にそう言った。それは問いではなく確認だった。 鬼男は不自然に顔を背けて、機嫌の悪そうな声を出した。 「突然何を言い出すかと思えば」 閻魔は無感動な表情で即座に返す。 「しらばっくれるのはよしなさい。君はポーカーフェイスがあんまり上手じゃないから」 鬼男は動揺を隠しきれない面持ちで閻魔をちらりと見た。 「何を根拠に」 「色々なものをを総合して」 平然と言ってのける男を焦りを必死に隠した表情で見つめ、それをごまかすように鬼男は深くため息をついた。 「だったらどうだって言うんですか」 閻魔は悠然と構えて頬杖をついた。 「別に構わないよ」 「え?」 鬼男が聞き返すと、閻魔は表情を少しも変えずに言った。 「だって君がここにいるの、たかだか数百年でしょう?そのくらいなら付き合ってあげるよ」 爪ではなく、拳が飛んできた。 しかしそれは閻魔の頬のすぐ傍で止まった。閻魔の顔は依然として能面のように色がなかった。口だけがからくり人形のように動く。 「殴らないの?」 鬼男は酷く青ざめて、しかし下等な何かでも見るような目で呟いた。 「貴方に痛覚がないことを思い出したので」 振り上げた腕を静かに下ろし、ごく自然な所作で背を向け、執務室を出ていった。 「可哀想に」 閻魔大王は独り言を言う。 「俺を好いている暇があれば、自分を愛してあげればいいのに」 私は常に私を外から見ている 空中で胡坐をかいて、あるいは尊大に足を組んで 自分がいかに下等で矮小であるかを自覚させられながらも、自分自身を高貴で尊い存在に仕立てあげていく 『閻魔大王』を維持するには、他者への干渉の一切を排除し、自らを最優先するほかない 要するに、考えているのは自分のことだけ 「君は稀な存在だ」 閻魔は鬼男に囁く。 「優しさって愛されたいがためにあるもんだと思ってたのに、君は違うんだもの。見返りを欠片も求めていない。それは俺が『閻魔大王』だから?」 喋らせようとして尋ねても、鬼男は固く口を閉ざして答えない。閻魔は情け容赦なく続けた。 「相手に求めない『好き』は恋情ではない、単なる崇拝だ。崇拝もある意味では浅ましい見返りの切望を含んでいるけれど、まあこの場合考えないことにしよう」 最後に閻魔は付け加えた。死者裁判最終判決のように。 「君は俺を愛してはいないよ」 鬼男は唇を噛んで俯いている。閻魔は短くため息をついて独り言のように言った。 「ごめんね、俺自分が一番可愛くて、大事で、大好きだからさ。仮に君が本当に俺を好きでも、俺は君を好きになることはないよ」 失望を誘うためでなく、単なる事実である残酷な言葉の羅列の後、付き合ってあげることは出来るけど、と付け加え、鬼男の表情を伺った。少しの変化も見られず、閻魔はつまらなさそうに目をそらす。 君が悲しい 閻魔は、報われない想いを抱いている鬼男を心から憐れんだ。 「貴方は嘘をついている」 しばしの沈黙の後の鬼男の不意の呟きに、閻魔は顔を上げた。 「自分を好きだなんて嘘だ」 一言紡ぐたびに、鋭く長い針が体を貫くようだった。 「大切なものなんて、何一つないくせに」 鬼男はそう叫んで部屋を出て行った。 嘘をついたら、閻魔様に舌を抜かれてしまうよ その張本人が『嘘つき』呼ばわりをされるとは。閻魔は間抜けに開いた自身の口に気づかなかった。 自分のことなど好きではなかった 私に大切なものなどなかった そうなの? 取るに足らないはずの彼の一言に、閻魔は酷く、しかし静かに動揺していた。 閻魔は急に、自信という自信全てを失った。 同時に鬼男に対する質問が山となって積み上がったが、実際に言葉にすることは出来ずにいた。 心の奥底ではもう少しましな言葉が出来上がるのに、長い道を辿って口から出ていく頃には驚くほど薄く嘘くさいものに変わっているのではないかと恐ろしかった。 心は常に言葉の後ろに隠れて口を閉ざす。お前には不可能だと嘲笑うかのように。 私は、実は上手く喋れないのではなかろうか 閻魔はますます不安になった。急に足場が消えて落下するときの浮遊感の中に置かれているような気持ちになった。 やめて 君は私を乱すよ さほど大きくないはずの彼の紅い瞳がとても強く主張し、私に訴えかける 私が言葉を紡ぐたびに、その目から涙が零れ落ちるような幻覚を見る そして悲鳴のような言葉が、声が、私を やめて 閻魔は髪を掻きむしった。呼吸が乱れる。巨大な不安の泡の内側に閉じ込められる。 助けて。閻魔は叫んだ。しかしそれは音として空気中に出ていくことはなかった。 何故誰も助けに来ないのかまるでわからなかった。 悲しい、悲しい。早く誰か。 濁流のように溢れ出す言葉に吐き気がして、閻魔は口元を強く押さえる。 「じゃあ君は自分が好きなの?」 唐突な問いに鬼男は面食らったが、閻魔の青ざめた顔に気づいて、少しだけ間を置いてから答えた。 「はい」 閻魔はすかさず、責め立てるように問い返す。 「どうして?どうやって好きになればいい?」 閻魔は自身の稚拙な言葉に舌打ちをしそうになった。 ふざけるな 私は閻魔大王だ こんな小僧に 彼の頭の中は、既に滅茶苦茶だった。 「貴方を好きな自分が好きです」 とても不本意ですが、と鬼男は付け加えた。しかし噛みしめるように、一音一音丁寧に発していた。 閻魔は怒りながらも泣きそうになって問い詰めた。何故自分が怒っているのか、わからないまま。 「どうして俺が好きなの」 少し自棄になっているのか、鬼男もまた語気を強めて反論した。 「知りませんそんなの。僕だって困ってるんだ。あそこまで言われてどうしてまだ貴方が好きなのか、さっぱりわからないんです」 鬼男が苦々しげに言うと、閻魔は彼の襟首を掴み上げて怒鳴った。 「そんなの許さない。理由がないものなど、俺は認めない」 鬼男は閻魔の乱暴に驚いていたが、不意にぷっと吹き出した。閻魔は目を見開いて地鳴りのような声で言った。 「何が可笑しい」 「だって、恋を知らない人が崇拝と恋情がどうのだなんて語るの、馬鹿みたいだ」 閻魔は何も言い返せなかった。鬼男の言葉がどうのというのではなく、彼の笑った顔に怯んだ。その時瞬間的に胸に走った灼熱に酷く驚く。 同時に色んな事がどうでもよくなり、少しずつ感情やら言葉やらが削ぎ落とされ、最後に残った小さな問いを口にしてみた。 その時、一緒に心ごと零れ落ちていったような気がした。 「じゃあ君を好きになれば、俺も俺を好きになれるかな」 思ったより頼りない声が出てしまい、閻魔は自身を恥じた。鬼男はその言葉と姿に目を見張ったが、少し大袈裟に眉を寄せた。 「だから、知りませんって。何も僕じゃなくたっていいんじゃないんですか」 閻魔は首を横に振った。涙が出そうなのに、不思議とそれは流れなかった。 「君が好きだ」 閻魔はその腕で鬼男をかき抱いた。自分より少しだけ小さな若い体を。触れた時に腕の中の体がびくりと軋んだのが分かったが、拒絶ではないことが何となくわかり、閻魔は安堵した。 心地よい体温に肩が震える。もっともっと欲しくて、皮膚がぴたりとつくほど強く抱いた。溢れる幸福感でかえって不安になりそうだった。 「大丈夫ですか」 その声に少しの湿り気も、熱も、震えもなかったのにもかかわらず、閻魔は鬼男が泣いていることを悟った。閻魔は掠れた声で「うん」と言った。鬼男は満足げに微笑んだ。 いつか私も、君のために流す涙を得る日が来るだろうか 永遠とも思える時間の中で、閻魔は目を閉じる。 君が愛しい ・参考 「愛し」(RADWIMPS) えなさんにお誕生日祝いに捧げたもの |