カントの出した答え


放課後の誰もいなくなった教室。
僅かな薄闇の中にいる彼女を見つけた。
思えば僕はいつもこの時間に彼女に会う気がした。

窓際の席。椅子を出して窓のすぐ傍まで寄せ、細い足を組んで本を読んでいる。
夕陽の朱が彼女の白い肌に色を与える。
僕の存在には気づいているだろうが、今のところ一度も顔を上げていない。

帰宅部である彼女は勉強をしていくわけでもなく、ただ放課後の少しの時間を使って教室で本を読むのだ。
数ページ読んで気が済むと、荷物をまとめて教室を出て行く。
何故僕はこんなことを知っているのだろう。


「何読んでるの」

いつもなら質問などしないのに、今日は何故だかどうしても気になっておずおずと尋ねてみた。
邪魔だと思えば返事をしないだろう。それでもよかった。
「カント」
予想に反して返事は返ってきた。いや、僕はもうすでにそれを期待していて、彼女は答えてくれるに違いないと勝手に思っていた。
彼女は僕をあまり好きではないだろうけど、存在や行動を無視することは、一度もなかった。
「かんと?」
「哲学者。いつか倫理でやる」
倫理は三年から始まる科目だったはずだ。相変わらずの聡明さに、僕は舌を巻く。
「……純粋理性批判、すごいタイトル。こんなのわかるなんて、やっぱうさみちゃんはすごいな」
「わかんないわよ」
「わかんないの?!」
至極当然という顔であっさりと言った彼女に驚いて頓狂な声を上げると、彼女がクスクスと擦るような声で小さく笑った。
「世界で最も難解な本の一つよ。私なんかにわかるわけないじゃない」
「いや、そんなこと僕にわかるわけないじゃん……」
「そうね」

会話が止む。
ガラス越しに聞こえてくる、野球部の遠い掛け声。カラスはまだ鳴かない。
この沈黙は心地良いけれど、同時に不安ももたらした。
「じゃあざっくりでいいから、どんな話?」
彼女は僕の顔を見て少し黙ると、おもむろに口を開いた。
「例えば、あなたは私を見てる」
そう言われて僕は弾かれたように彼女を真正面に見た。彼女も僕を見ている。
「あなたは『私が今ここにいるから』私の姿が見えていると思ってる。……そうよね?」
「そりゃ……そうだよ」
「でも本当はそうじゃないとしたら?」

僕は不可解さに眉根を寄せた。僕のまるでわかっていない顔を見て、彼女は少し困ったように首を傾げた。
「ええと……生物でやったでしょう?虫と私たち人間とじゃ見えている色の数が違うって」
「……ああ、赤外線とかの話?」
僕は図説の中のモンシロチョウの写真を思い出した。白いはずのそれは、同属から見れば灰色に見えるらしい。
「そう。彼らにとってはあの色が真実なの。でも私たちには違う色で見えてる。もしかしたら犬や猫は全然違う色で見ているかもしれない。同じ人間同士でさえ、空を青いという人もいれば水色だという人だっている」
でも、と彼女は繋げた。

「本当は空の色は青でも水色でもないかもしれない」

本当の色を誰も知らない。
彼女は何故か、悲痛さすら感じさせるような細い声で僕に言った。
どうしてそんな泣きそうな、怯えたような目で言うのか、僕にはわからない。
「だから、私たちは、空が青いから青く見えてるんじゃなくて、青いと思うから青いって、こと。難しく言うと、対象が認識を構成するんじゃなくて、認識が対象を見出してるってことなの。」
自分でもまだ噛み砕けていないからか、どこか不服そうで納得のいかない顔をしながら、彼女は再び黙った。僕も正直この説明ではよくわからなかった。

でも不意に、聞いてみたいことが出来た。

「じゃあ、うさみちゃんには僕がどう見えてるの」
彼女はハッとして息を吸い込んだ。
しばらくそこに硬直したまま、彼女は沈黙を守っている。酷い動揺が僕の方まで漂ってくる。
困らせるつもりなどなかったけれど、今どうしてもそれを彼女の口から聞きたかった。

「知らない」

少し怒った声を上げ、彼女は教室を早足で出て行った。
知らないって、何だよ。
繋がってない返答に僕は一人笑った。僕はこの返事さえも、予想して期待して、こうなることを勝手に決め付けていた。
廊下を叩く上履きの音が止んだ後、椅子の上に置き去られたベージュの本に目を留めた。


カントの、純粋理性批判。





参考:カント『純粋理性批判』入門 (黒崎政男)

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