王と童子


王が川の傍で拾ったというそれは、みすぼらしいほど小さな鬼の子供であった。

赤子でさえ意味のない母音を発することが出来るのに、これは喉が潰れているかのように一言も口にせず、泣きも笑いもしなかった。
その細く小さな体に押し込められた底知れぬ孤独だけが、ただひたすら存在を主張しているようだった。


気味が悪い
喋らない、子供のくせに泣きも笑いも怒りもしない
黙ったままじっと見つめられると恐ろしいったら
あんな役に立たないもの、何故大王様は


世話役の女達が、時々声を潜めて噂する。
王が部屋に入ってきたことに気づくと、その声は一斉に止んだ。
「よい。あとは私が」
そう伝えると、女達はそそくさと部屋を後にした。その顔は幾分青ざめているように見えた。空を泳ぐように去っていく女達の黒く長い髪を、王は一瞥する。
足音が消えてしまうと、そっとそれを抱き上げた。褐色の肌の中心の金の瞳がくる、と動く。特に嬉しそうでもないが、嫌がっている風でもない。 無表情のまま王をそっと見上げた。
「稀有な子供だ」
金の柔らかな髪の中から探し当てた申し訳程度の小さな角に触れながら、王が言う。
「俺に抱かれて泣かないなんて」
別段不快そうな様子もなく、依然表情を変えないまま、それはされるがままになっている。
王はその細い顎をなぞり、薄い頬を軽くつまんだ。
「子供は敏感で大人より沢山『もの』が見えるから、『俺』に気付いてしまうんだよ」
髪と同じ金の睫毛が、ぱさ、と動いた。王はそれをしばし眺めた後、自分より何回り小さいかわからない、棒のようなその体を抱きすくめた。 そしてその背中で低く呟く。
「眠ろうか」
鬼の瞼は、もう閉じていた。



日も傾きかけたある日の夕刻。
鬼は一人で目覚めた。
息遣いは荒く体は汗にまみれて、湿った着物が肌に張り付いていた。
部屋は暗い。人の気配はない。
鬼は上体をじりじりと起こし、布団をきつく掴んだまま部屋の四隅を順番に見た。
反射的にひゅっと浅く息を吸い込み、ずっと閉ざされていた口が、大きく開かれた。

すぐに世話役の女の一人が、部屋から聞こえる泣き声に気がついた。
仰天して様子を見に行けば、暗い部屋の中でそれは吠えるように喉をからしながら、流れる涙も拭わず泣き叫んでいた。
驚愕した女が慌ててそれを抱き上げあやそうとしたが、顔やら腕やらを無茶苦茶に引っ掻かれ、徹底的に暴れられてしまった。 比例して、泣き声も絶叫に変わる。
後から駆け付けた女達もあの手この手でそれの機嫌を取ろうとしたが、涙の勢いは増すばかりである。
大した体力もないその体は、散々大騒ぎして暴れたせいで疲れ果てているはずである。その証拠に、呼吸がひどく不規則でよく咳き込んでいる。 それでも一向に泣くのをやめようとしない。

女達の顔が白くなった。
このまま死ぬのではないか。その場の全員の頭に同じ考えがよぎった。
恐ろしくなったその中の一人が部屋を飛び出し、罰を受けるのを覚悟で裁きの最中の王の元へ走った。

血相を変えて飛び込んで来た女から事情を聞くと、王はいともたやすく裁きを中断して鬼の部屋へ向かった。
近づくにつれて、ひっくり返ってささくれた幼い泣き声が聞こえてくる。思い当たる節がまるでないので、王は眉を寄せた。

襖を開けると、布団の上に座っている世話役に抱かれているそれがいた。
鬼は王に気がつくと、泣くのをぴたりと止めてそちらを見上げた。涙と鼻水と唾液と汗で、顔から首にかけてがどろどろになっている。 世にも汚らしくみじめで無様なその様を、王は無言で見下ろしていた。
部屋の中が奇妙な静寂に包まれた。

かと思いきや、女の腕の中で鬼が再び暴れ出した。驚いて手を緩めると、それはぱっとそこから抜け出し、覚束ない足でじたばたと畳の上を進み出した。 そういえば、これが自分から歩いたところを、この場の一人も見たことがない。
そうして這うように王の元へ寄ると、片方の足にしがみついて顔を押し付け、また激しく泣き始めた。しかし、先程と違い、それはもう叫びではなかった。
王は呆然と眺めていたが、やがて膝を折り、それの両脇に手を差し入れた。死んでも離さぬと思われたその腕の拘束は存外あっさりと解かれた。
抱き上げて背中に手を添えてやると、肩に顔を押し付けてまたしくしくと泣く。細腕はしっかと王の首に巻き付いていた。
女が悲鳴を上げる。
「御召し物が」
鬼を引きはがそうと近づいて来た女を、王は目で制する。女はびくりと肩を震わせ、下を向いてすごすごと引き下がった。
王は蝉のようにしがみつくそれに視線を戻し、しばらくの間その様を見つめていたが、不意に口の端を緩ませた。

「子供に泣かれることは何度もあったが、不在で泣かれたのは初めてだ」

一人ふふふと嬉しげに笑う王の姿を、女達は疲れきった顔で棒立ちのまま眺めていた。
王の肩を濡らし続けていた当の鬼は、いつの間にか静かに寝息を立てていた。



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