Lalala, goodbye


「ふぇーい終わったー」

締まりのない声を上げながら、大王は先ほどまで格闘していた書類を机にばさりと投げて椅子の背もたれに勢いよく寄りかかった。
「乱暴に置かないでくださいよ、散らばります」
大王の代わりにその書類を揃えながら軽く睨みつけると、「はぁい」と全くやる気のない声が返ってきた。そしてぷらぷらと手を伸ばしてくる。
「お茶ちょうだい」
「はいはい」
もうそろそろ終わる頃だろうと踏んでいたので、給湯室にお茶の用意は出来ている。僕は面倒くさそうにしながらもさっさと大王に背を向け執務室を出た。 熱い緑茶と茶菓子を持って戻ってくると、大王は心底つまらなさそうな顔をして待っていた。僕は肩をすくめる。
「そんなに辛かったんですか。高々書類チェックで」
「長時間の事務作業が一番苦痛なのよ、俺にとって」
机に置かれた盆から湯のみを取り、そっと口につける。猫舌らしく、「あち」と言って舌を出した。
「しんとした部屋でずーっとおんなじことの繰り返し。あー無理ほんと無理。これだけはほんと慣れない」
「この仕事何年続けてると思ってるんですか」
「刺激なしでこの果てしない俺の人生は乗り切れないよ」
さいですか、と聞いているのか聞いていないのかよくわからない返事をして、僕もお茶を啜った。大王は指先でかりんとうを弄びながらさらに続ける。
「BGMでもあれば多少違うんだけどなぁ。鬼男君、コンポか何か手配してきてよ」
「嫌ですよ。僕無音じゃないと仕事できないんで」
「え、何で君優先なの」
「僕の能率まで下がったら収拾つかなくなるでしょ」
ふん、とふんぞり返って見せると、大王は小さくなって「そうですね」と返事をした。
ばっさりと斬ったものの、大王が音楽を好むとは知らなかった。恐ろしく長い付き合いのわりに、僕はこの人をまだまだよく知らない。 少し気になったので尋ねてみる。
「ちなみに、どんなジャンルを聞くんですか」
「んー?何でも。あ、でも基本的には歌ないやつ聞くかな」
「クラシックとかですか」
「そうだね。民族音楽とかも聞くけど、クラシックは自分で弾けるものが多い分余計に好きかな」
「え、何か弾けるんですか」
意外そうに問い返すと、大王は何てことはないという表情で答えた。
「まぁ多少は。弦楽器なら大体」
「へぇ、すごいですね」
素直に感心して大王を見ていると、それで気を良くした大王は微笑んで立ち上がった。
「よし、仕事もひと段落したことだし、一つ可愛い秘書のために久しぶりにやりますか」
僕がきょとんとして眺めていると大王は執務室を出て行ってしまった。さっきまであんなに疲弊していたのに、 楽器を奏でる元気はあるのか、と僕は変なところで感心していた。


しばらくして再び執務室の扉が開かれた。よいしょと少し重そうな声がして、大王はチェロと共に登場した。僕は目を丸くする。
「チェロだったんですか」
「いや、一応一通り弾けるんだけどこれが一番好きだから。何で?」
「いえ、弦楽器って聞いてヴァイオリンしか想像つかなくて」
大王はアッハッハと笑って「まぁ興味ない人はそうなるよね」と付け加えた。流線型の見事なくびれを持つそれを、大王はどこか愛しげに見つめている。
「ほんと久々だな。最近とんと触ってなかった」

その眼差しと口ぶりに僕は小さな違和感を感じたが、何故だかわからなかったのでそれを無理やり追い出した。

大王は椅子に座り足を開いた。その間にチェロを置き、首の部分を顔の左側に構えた。 ずれないように、本体の先に付いている針のような物の先端を床に固定し、弓を右手に持つ。 左手で弦の具合を確かめながら、二、三度弓を引く。何の音だかはわからないが、低く深い音が執務室に響き渡った。
調音が済むと、大王はふむ、と口元に手をやって考えている。唐突に僕の方を向いた。
「何がいい?」
僕は首を横に振って肩をすくめる。
「知らないので、何でも構いません」
「そうか、そうだよな」
納得した大王は、少し考えた後、「これにする」とも何も言わずにおもむろに弓を構えた。 すう、と息を吸う音が聞こえる。空気をゆっくりと裂くような動作で弓を弦にぴたりと付けると、丁寧で滑らかな動きでそれは引かれた。
清涼感のある澄んだ音。チェロはもっと低くて、オーケストラの中でもコントラバスと共に脇役に徹しているイメージがあったが、 おそらくソロの曲なのだろう、チェロの深く、胸に響いて揺らすような音がゆったりとしたメロディーに乗って部屋の天井を巡っていく。 無味乾燥だった執務室を一瞬で生気溢れる森へと変えたような、そんな音だった。
ひたすら音に聴き入っていたが、ふと弾いている大王の姿を目の中に捉える。伏せられた目で向けられているチェロへの視線。 ゆったりと開かれていながらもきちんと支えのある足。そして何より雄大さすら感じさせる右腕の自由で豊かな動き。
久しぶりに出してきたとは思えないその手つきと演奏に、僕は不覚にも感嘆の溜め息すら忘れて見惚れていた。


気が付くと曲が終わっていた。そんなに長い曲でもなかったようだ。大王の動きが静かに止まり、僕は我に返って反射的に拍手をした。
「すごいですね。びっくりしました」
「はっはっは見直した?」
素直に感動している僕を見て大王は得意そうに背中を反って見せた。
「クラシック方面全然明るくないんで上手いとか下手とか正直わからないんですけど、よかったです」
自分の稚拙な感想が歯がゆかったが、本当に何と言ったらいいかわからなかったので、仕方がない。
「伊達に長く生きてないからね。これくらいの教養はありますよ」
「威厳がない分そういう要素でカバーですか」
「……今の地味にグサッときたんだけど」
大袈裟に落ち込んでみせ、チェロに体を預けるようにしてうなだれている。調子に乗せるとろくなことがないのでつい辛辣な言葉が出てきてしまった。
大王がチェロに体をもたれさせたまま顔だけ上げた。
「俺の人生、長い上に単調だからね。刺激を求めてありとあらゆる暇つぶしをしてきたら、いつのまにか趣味が増えた」

僕は以前大王が「時間を持て余すのがちょっと怖い」と言っていたのを思い出した。 何にもすることがなくなると、取り残されているという事実を突きつけられる気がして虚しくなるのだと。
この人にとっては全て暇つぶし。教養を身につけるのも学問に没頭するのも、時折弱い振りをして人間のように装ってみせるのも。
彼は何も愚かなことはしていないのに、そのことを意識するたびに僕は憐憫の情を抱かずにはいられなかった。


「調子に乗ってもう一曲だけいっとこうか」
「お願いします」
しかし、褒められてどことなく嬉しそうな大王を見るのは気分が良かった。 初めて直に触れるチェロの音色もなかなか気に入ったので、僕は素直にアンコールした。
大王が再び弓を構える。部屋が再び静寂を取り戻してから、弦を擦って弓が引かれた。
先ほどの曲とは打って変わって、物悲しげな旋律が執務室を彷徨う。時折かかるビブラートがむせび泣きの様にさえ聞こえる。
しかし、どうということはないという風にいかにも軽く弓をさばいている様に見えるが、音色と表現力がその実力の高さを物語っている。 和装のまま弦楽器という一見ミスマッチな組み合わせなのに、様になっているのだから不思議だ。 人前で弾いているのに、このふてぶてしいほどの余裕さはどうだ。 それどころか僕の存在など認識していないのではないかと思わせるような自由で豊かな目が少し憎らしい。

ふと、彼の手の中のチェロに目が行った。

開かれた足の間に納まっているダークブラウンのずしりとした重量を持つそれは、そこにあるのが当たり前であると静かに主張してるかのように見える。
弦を押さえる彼の指はそれに吸い付くようでよく馴染んでいる。 弓を扱う手つきは、一見ぞんざいに見えてその実おそろしく丁寧だ。手の延長なのではと思ってしまうほどである。
無生物であるが故だろうか、大王はそれに対して信用を寄せていなければ、疑いも警戒もない。 まあ演奏をする上で信じるのは楽器ではなく自分の腕なのだろうが。
それでも彼のそれに対する目はどこか愛しげで、互いに呼応しているように見えた。 ああ二人で一つのものを作り出しているのだなと思えた。それは紡がれる美しい旋律が全てを物語っている。
彼は今僕など見ていない。かといって音に没頭しているわけでもない。
しかし間違いなく、彼のチェロはそこに存在する許しを得ているのだ。


僕は胸の奥から漂ってくる焦げ臭い匂いに顔をしかめた。
自分で自分が信じられない。
冗談だろう?相手は楽器じゃないか!生きることも死ぬこともないただの器だ。
いや、生きも死にもしないことに関しては僕も同じだ。それは僕のみならず冥界に住む誰もが等しくそれに当てはまる。 ここには生も死もない。あるのは果てしない時間と、輪廻の輪だけ。

別に今自分を見てくれていないことに腹を立てているのではない。そんなことに腹を立てるような女々しい精神ならとうに破壊している。 大体彼はわざわざ僕に聴かせるために弾いているのだ。そのことを素直に喜ぶべきなのに。
無条件でそこにいる権利を与えられているその器が、どうしても癇に障ってしまう。
何も僕が彼に拒まれているわけではない。むしろ逆で、傍にいることを必要とされていることも知っている。

でも、違う。そういうことではない。
共に在る権利を持っているのと、そこに在ることが自然であるということは違うのだ。
そしてどう頑張っても僕は後者にはなれない。
一緒にいることを求められているだけで十分だったのに、それよりも次元の高い(この場合もはや次元が違うのかもしれないが)存在が現れると、 途端に妬ましく思う自分が浅ましくて嫌になる。

彼といると自分がどんどん汚く、矮小で、下等なものになっていく。
恋をすると綺麗になるなんて適当なこと、誰が言ったんだ。醜くなるばかりだ。
この人の前では、何よりも美しくありたいのに。


また、いつの間にか音が止んでいた。
しかし今度は曲が終わったわけではなく、途中でやめてしまったようだ。僕は再び我に返って顔を上げた。
少し困ったような顔をした大王がそこにいた。途端に罪悪感で胸がいっぱいになり、僕は俯いた。

「鬼男君」
びくりと肩が鳴る。
この人は異常に勘がいい。心が読めているのではないかと疑うほどである。仕草、目線、呼吸、あらゆるもので相手の心理状況を判断する。
お願いだ、今ばかりはやめてくれ。
切なる願いは天に届いたのか否か。それは僕にはわからない。
「酷い顔してる」
チェロを座っていた椅子に立てかけ、大王が歩み寄ってきた。近づくにつれて、僕は身を縮ませる。気管がねじれて締まるような感覚がする。
ずい、と大王の顔が近づいてきた。目の前に大王の鼻先がある。思わず息を止めてしまった。
「どうしたの」
僕は押し黙る。互いにしばし沈黙した後、大王がふうと息を漏らし、椅子に座ったままの僕の前にしゃがみこんだ。 俯いた顔を下から見上げられ、慌てて顔を横にずらす。
「今の曲、そんなに気に入らなかった?」
僕は首を横に振る。
「何か別のこと思い出しちゃった?」
俯いたまま、僕はぎしぎしと軋む自分の肘の音を聞きながら、大王の肩を弱々しく押し返した。
「聞かないでもらえますか」
あまりにもみすぼらしい自分の声音を聞き、言葉を発してしまったことを後悔した。
再び沈黙。手に汗が滲んできた。今すぐにでも逃げ出したい。
などとぼんやり考えていたところ、大王が不意に下から腕を伸ばし、僕のだらしなく垂れ下がった手首を引っ張った。 完全に虚を突かれた僕は目を白黒させながら、声も上げられないまま大王の腕の中に崩れ落ちる。片方の手で腰を抱かれ、片方の手で頭を抱かれた。 何もかもが一瞬のことに思えた。
衣擦れの音と彼の着物の香の匂いが限りなく近くにある。気が遠くなりそうだった。

「チェロじゃ君の心は掴めないんだねぇ」
耳に染み込んできた彼の言葉に、僕の肩が露骨にびくついた。動揺を隠したくて仕方が無く、無理やり声を出す。
「寒いこと言わないでください、気持ち悪い」
大王がくすくすと笑う。耳元で笑うなこそばゆい。しかしこの抱擁に自動的に満足するこの体が憎たらしい。
「知ってる?弦楽器の音って人の声に一番近いんだって」
まあ俺は人じゃないけどさ、と付け加えた。それがどうしたとばかりに僕は無反応を決め込んだ。
「俺じゃ足元にも及ばないけど、これならどう?」
そう問われ、数度の軽い咳払いを聞いた後、流れ込んできたハミングに僕の目は開かされた。
先程の二曲とはまた違う、速度の極端に遅い曲。さっきまで部屋を満たしていた弦の音と聞き間違いそうになるほど伸びやかで品のある声。なるほど確かによく似ている。
不安にかき乱された胸を無条件で静め、暖め、潤いをもたらすような、何だっただろうか、こういう歌のことを。
ああそんなことはどうでもいい。この低くきめの細かい音色。音程など当然外さない。水が土に染み込んでいくように穏やかに緩やかに、 息のきちんと乗せられた旋律に身が震えそうである。
僕の頭を抱く指先が、メロディに合わせて先程からぱたぱたと動いている。今度はピアノだろうか。思わず口元がほころんでしまう。
彼のハミングもこの曲も、今初めて聞いているのに、どこか懐かしい気がして胸の締まりが緩む。
歌詞も何も存在しないけれど、彼の真意も掴めないままだけれど、僕は今確かに水を注がれ、満たされている。


僕は貴方に許されたい

そして今貴方の声により「許し」を得ている


存在の「許し」を





ふわりと浮かんできた記憶に、僕は目を閉じた。

これは、ララバイだ。



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