無音世界


「ここ数十年、雪降りませんね」

鬼男の呟きに、閻魔が顔を上げた。
「どうしたの急に」
「いえ、寒くはあるのに降らないと思っただけですよ」
常に程よい温度に保たれている執務室の窓ガラスの結露を眺めながら、鬼男は答えた。
閻魔は少しの間黙り込むと、左に立つ鬼男にちらりと視線をやる。

「雪、見たい?」
鬼男は目を丸くした。
「出来るんですか」
「ちょっと奥から引っ張り出さなきゃなんないけど」

席を立って部屋を出ていこうとする閻魔を見て、仕事がまだあると止めようとしたが、机の上の書類はすでに処理済みになっている。
文句も言えず、鬼男は閻魔庁の奥へと消えていく男の姿を呆然と見つめていた。




翌朝、布団から出ると身を刺すような寒さに震えた。
外を見ると、鬼男は思わず小さな歓声を上げた。見事な銀世界が広がり、灰色の空からは粒の大きな雪が静かに降り積もっている。
急いで仕事着に着替え身支度を済ますと、閻魔を起こしに彼の寝室に向かった。

「大王」
いつものように扉越しに声をかけると珍しく返事があり、中に入るよう促された。
そこには窓の外を眺めている、寝間着用の着物を纏った閻魔の背中があった。
「これ、あなたが?」
隣に並んで、鬼男は尋ねた。
「昨日やっといたんだよ。最近全然使ってなかったから、ちょっと忘れてた」
昔を懐かしむ閻魔は、きわめて珍しかった。鬼男が横で不安げに眉を寄せるのをよそに、閻魔は続ける。

「冥界はね、最初はずっと夜のままだったんだ。夜っていうか、空が黒いだけなんだけど。だんだん気が滅入ってきちゃったから、太陽と月と星を作って朝昼夜を作って、ついでだから四季も作った。それに合わせて、天候もそれっぽく変わるように設定した」

話を聞いているうちに、鬼男は心臓を少しずつ絞められるような感覚を覚えた。
そういうことは、普段から考えないようにしてきた。
それでも、

「でも雪だけは作らなかったんだ」

ぽつりとそう言う閻魔の目は、物憂げに揺れていた。
「どうして」
鬼男が尋ねると、再度視線を外の雪にやる。
「寒いし白いし、踏むとぐちゃぐちゃでびしょびしょで見苦しいじゃない」
何だそれは、と笑ってしまおうかと思う前に、閻魔が「それに」と続けた。

「雪が降ると音が無くなるでしょう」

閻魔は目を閉じて両手で耳を包んだ。
「それが、ちょっとだけ怖い」

物語を語るような、柔らかく消え入りそうな声で言うものだから、どうしようもなくなって、気がつくと後ろから閻魔を抱きしめていた。
閻魔が耳から手を外してほんの少し身じろぎする。
「どうしたの。甘えっこ」
返事が出来ず、鬼男は無言のまま腕の力を強めた。
閻魔は穏やかに微笑んで窓に向き直る。

「そういうわけでね、気まぐれにたまに降らすだけにしたんだ。でも最後に降らせた時『やっぱり駄目だ』って思っちゃって、それ以来降らせてなかった」

閻魔がふふ、と笑った。
「閻魔大王にも女々しいとこあるんだよ」
言い終わると、再びしんとする寝室。少し困って閻魔は言った。
「鬼男君、何か喋ってよ」
「じゃあ何で今降らせたんですか」
ちょうど声が重なり、二人はしばし無言になった。やがて閻魔が口を開く。
「だって君が見たそうだったから」
「それだけで?」
背中に顔を押し付けたままのくぐもった声が返ってくる。
「君が喜ぶなら俺は基本的に何だってするよ」
「嘘ばっかり」
「ほんとだよ」

降り続く雪が、熱を音を光を、奪っていく。
冷えた部屋の中で、二人は存在すら吸い込みそうな雪を前に、確かに寄り添ってそこに居た。



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