焔 寒い寒い冬の真昼だった。 その日はしとしとと雨が降っていて、厚い雲が空を覆い尽くし、空気も重たく湿っていたのを覚えている。 私は番傘を手に歩いていた。 特に用事もなくふらふらとしていると、暗い路地で倒れている子供を見つけた。 子どもは薄汚かった。何時間も雨にさらされていたらしく、髪も、申し訳程度の長さの衣服も十分に水を吸っていた。 アスファルトにはうっすらと血が滲んでいた。それはその子供のくすんだ金髪から流れ出ているようだった。 うつ伏せに倒れている子供の背は微かに上下している。私は番傘がやっと通るその路地へ入っていった。下駄がからころと拍子を刻む。 子供の前で屈み傘を差しかけると、子供のつむじがぴくりと動いた。ぐぐぐ、とぎこちない動きで頭を上げる。 私は少しだけ目を見張った。二つの小さな眼球の奥に見えたのは煉獄の炎だった。それをそのまま映したかのように、子供の瞳はぎらぎらとした赤さを放っている。 よく見るとその肌は浅黒く、明らかに私やこの地で生きている者とは異なる人種だということがわかった。 全てを拒絶せんとするその瞳に、私は静かにこう言った。 「生き延びたいか」 そして私はおもむろに手を差し伸べた。子供は躊躇することもなく、噛みつくように私の手首を鷲掴んだ。子供は歯をぎりぎりと噛み締めていた。その様は獣のようだった。 「何故だ」 私は平坦な声で尋ねた。子供は低い声で言った。私よりよほど高く幼いはずのその声は、地鳴りのようだった。 「こんなところで死ぬのはごめんだ」 炎は一層燃え盛っていた。 連れて帰ると、まず風呂に入れて丁寧に洗ってやった。中性的な顔立ちだったため男女の判断がつかなかったが、裸にしたことで子供が少年だということが分かった。 新しい服を与え、温かい食事を食べさせて顔色が戻ると、存外に整った顔であることもわかった。 私はこの子供を利用することを考えた。だがしかしすぐに迷った。 不安要素は、目だった。文句なしに美しい顔、今は痩せすぎているがきちんとした食事を与え続ければしなやかになるであろう身体、底なしのハングリー精神。使うには十分な素質を持ち合わせていたが、その瞳に宿る地獄から持ち帰ったかのような炎は凡人には熱すぎて、恐ろしく見えてしまうだろう。 生きるためには手段を選ばない姿勢だが、決して媚びを売ったりはしない。そうした人間は面白いが、こちらの思い通りに動いてはくれないだろう。 しかし、私は思った。 その炎を綺麗に覆い隠し、かつ凡人の誰もが目を奪われるような最高級作品に仕上げるのも面白いのではないか、と。 彼の炎を知るのは私一人だけでいい。美しく飾った笑みの下に隠された、彼の味わってきたであろう灼熱の地獄を。 彼は私に尋ねた。 「ここはどこだ」 私は廊下への襖をぱんと開けた。 そこを闊歩するのは、白粉の匂いを漂わせた着飾った着物の女達だった。 彼は目をまん丸くしてその光景を見ていた。硬直した小さな肩に手を置き、私は答えるのだった。 「ここは遊郭『華蘭』」 彼が私を見上げる。私は彼を見ずにどこか遠くを見つめて、諦めたような声でこう続けた。 「女の地獄だ」 それを聞いてしばらく押し黙った後、彼は私に再度尋ねた。 「アンタは何なんだ」 「忘八」 「忘八?」 「仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠の八つの徳を忘れた者のことさ。遊郭の店主をそう呼ぶ」 「……ふうん」 彼は特に興味のなさそうな顔で気のない返事をした。 「お前の名は?」 今度は私が尋ねると、彼は先ほどと顔色を寸分も変えずにすぐに答えた。 「無い」 それを聞くと、私は彼の前に跪いて正面からその目を見つめた。 「ならば今日から焔と名乗れ」 「ほむら……?」 「炎という意味だ」 私は立ち上がって彼の手を取った。 「いずれ、知らない言葉など無くなるよ」 拾った異国の少年に焔という大胆な名前を付け、その日から私は彼を徹底的に教育しにかかった。 私の持ち得る学の知識に加え、音楽、茶道、華道、舞踊、花札等などをそれに長けた者達を呼び寄せ、全てを焔に注ぎ込んだ。 焔は聡明だった。最初は言葉の使い方もわからない無知の極みであったが、飲み込みが速く、文句ひとつ口にしなかった。 「こんなことで飯が食えるなら、これほど上手い話はないさ」 言葉を巧みに操れるようになってから、焔はそう言って薄く笑った。彼の執着は常に生にあった。 廓の誰もが怪しんだ。何処の誰とも知れない少年を囲いこみ、単なる遊女ではなく花魁に仕立てあげようというのである。男の花魁など前代未聞なので、不審に思うのも道理だった。 だがしかし私だけは確信していた。この子供はとんでもないものに化けるだろうと。 最初に皆に焔を披露した時のことを、私は忘れない。 幾年もの歳月をかけて丹念に伸ばさせた金色の髪を伊達兵庫にし、とびきり豪奢な簪をいくつも飾った。深紅の菱文に肩から袂にかけて焦げ茶の絞りがあしらわれ、前身ごろには色鮮やかな扇や御所車が散りばめられている。 それらを引き立てる褐色の肌の中心にあるのは、着物と同じ赤い瞳。初めて男や芸者達の前に出た焔の艶姿は、圧倒的な美を誇っていた。 男を誘う高慢な目。異人という物珍しさに惹かれて焔を指名したその男は、一目で見方をがらりと変えたのだった。 かく言う私も同じだった。異人でかつ男という異例だらけの花魁ならば、暇と金と女を持て余した男達が酔狂で抱くのではないかと。とんだ思い違いだった。彼は私の手を離れ、花魁としての美を開花させていた。この廓のどの遊女よりも。 「わっちの髪がそんなに珍しいんでありんすか」 焔はくすくすと笑っている。男は焔の機嫌を取ろうと、困ったように笑って弁解している。恐らく焔の髪に触れているのだろう。襖二つはさんでいても、私には手に取るようにわかる。 「この赤い目や黒い肌が物珍しいから、わっちを呼びだしたのでしょう?そうでなければ男と寝ようなど思んせんでありんしょうから」 変声期を迎えてはいるものの、さほど太くない繊細な声で男をうっすらとなじっていく。男はそんなことはない、お前が美しいからだ、となだめている。恐らく焔の肩を抱いているのだろう。 焔に閨房術を教え込んだのは私だ。初めて彼の体を開いた時、彼はひどく驚いてはいたが拒絶はしなかった。 「面白いものじゃないな」 終わった後に彼が述べた感想はそれだけだった。眉間の皺はこれでもかと刻まれていた。 そんな焔も他の遊女と同じように、手練手管で男を虜にし、抱かれていく。 「少し、疲れた」 ある日彼の着付けをしている時、焔がぽつりと零した。彼は私の前でだけは廓言葉を使わない。 花魁として売れ始めた焔は、元々華蘭にいた花魁達からの強い風当たりを受けていた。 焔は必要以上の指名を良しとしていない。私が満足するだけの稼ぎが出来ればそれでいいのである。よって他の花魁のように、より多くの男にちやほやされることを望み、それをステータスにしようなどとは思わない。 しかし実際に焔に客を取られているのは事実。これが女ならばまだいいが、本来自分たちの客であるはずの男に持っていかれているために神経を逆なでしているのである。 それでも焔は上手く立ち回っていた方だった。女達の機嫌をさりげなく取り、自分の稼ぎを奢らず、控えめな行動を心がけていた。彼はここでも異分子だった。 彼の吐いた、初めての弱音だった。 その翌日、焔の身請けの申し出があった。 以前から焔の元へ通っていた資産家の初老の男で、一切の不自由なく幸せにしてやりたいのだと躊躇なく言ってのけた。 その日の仕事を終えた焔を呼び出してその旨を伝えると、彼は無表情で押し黙った。 基本的に、遊女に身請けの拒否権はない。いつか金持ちの男に身請けされてこんなところとはおさらばするのが遊女の願いなのである。そういうものとされている。 私の「どうした」という幾度かの問いに答えることなく、彼はしばらくの間次第に表情を強張らせて沈黙していた。 ようやく口を開いた焔は、 「どうしても行かなきゃ駄目か」 と小さく言った。私は身請けの拒否権が云々とは述べず、 「ここよりはずっといい」 とだけ言った。彼は何故か苦しそうな顔をしていた。 「あの男が僕を捨てない保証がどこにある」 それを聞き、私は少し笑ってしまった。それは哀れみだった。 「私がお前を捨てない保証こそどこにある」 「あるさ」 彼の返事は意外にも速くきっぱりとしていた。私の言葉に傷つき沈むと思っていたのに。 「アンタは優しくない。だけど、僕に利用価値があるならば絶対に僕を手放さない。なら僕はずっと利用価値のある人間であり続ければいい」 その時、彼は力なくだが、笑っていた。 「恋情とは脆いね、忘八」 焔は目を伏せた。長い長い金色のまつげが焦げ茶の肌に影を落とす。 「いつ消えるかもわからない蝋燭の炎を大事に囲って生きていかねばならないなんて、心臓に悪いじゃないか」 私は返す言葉がとうとう見つからなかった。 数日後、焔を交えての承諾の面談が行われた。焔は最初から苦しそうな顔をしていた。それでも男には気付かれぬよう、精いっぱい取り繕っていた。 男は身請けの代金を告げて焔への入れ込みようをひとしきり述べると、焔の俯いた顔に視線を向けて確認するように微笑んだ。 焔は今にもぐしゃりと泣きそうな顔をしながら「あの」と蚊の鳴くような声で言った。 私はそれを待っていた。それを遮るようにして男へ頭を下げる。 「申し訳ございません。まだ誰にも明かしていないのですが、焔はもうじき任期を終えます。そうしたら里へ返す約束になっているのです。任期が終わってしまえば焔はもう私どもの自由にはなりません。何卒ご容赦くださいませんか」 私は焔の後ろに立っていたが、あの赤い瞳が大きく見開かれるのがわかった。呆然としている焔の背中を、こっそりと軽く叩く。 すると焔は 「わっちには勿体ない素晴らしいお話でありんした。けんどわっちはやはり男。これから女子のそれとは違うものになっていきんす。可愛い御子を生すことも出来んせん。わっちはそれが口惜しい」 などとすらすら述べて微笑むのだった。大した花魁である。 その後、焔は私の部屋に乗り込んでくると、「どういうつもりだ」と詰め寄ってきた。 「この結果が不服か」 私が聞くと、焔は眉を吊り上げて 「言っていることとやっていることがあべこべだ」 と尤もなことを言った。 「任期が終わるだなんて聞いていない。僕はもう用済みか」 彼の赤い目が溢れそうな涙を必死に制していた。 「ああ」 彼の目が再び大きく見開かれた。私はその目をまじまじと見た。 その中に、かつての煉獄の炎はもうなかった。 あるのは捨てられることに怯えた、か弱い子犬のような哀れな瞳。 私は焔を抱きすくめた。 「色を売るお前にもう用はない。これからは私のために生きろ」 焔が息を飲む音が聞こえた。 「どうして」 私は少しだけ沈黙し、ぽつりとつぶやくように告げた。 「初めからこうするつもりだった」 焔はまたしばらく驚いていたが、目を閉じ、涙を流すのがわかった。 「生まれ落ちた時から、死と寄り添って生きてきた。生きられるのなら何でもよかった。辛いことなどとうに味わいつくしたから。傍に置いてくれるなら、恋愛感情なんてむしろない方がいいと思っていたのに」 焔の手が、震える声に合わせて私の背を登る。 「愛されたい人に愛されないことがこんなにも辛いだなんて、知らなかったんだ」 私はしばらく黙った後、静かに焔に尋ねた。 「愛されて抱かれるのは幸せなんだと、私がお前に教えることは出来るだろうか」 彼は私の着物を弱く掴んで 「うん」 と頷いた。私は一層彼を強く抱いた。 「私の元で、幸せになれ」 ―売れっ子の花魁が身請けされる時に行う見納めとしての花魁道中もせず、焔花魁はひっそりと姿を消した。 その消息を誰も知らず、唯一知っているはずの忘八にいくら尋ねても、彼は決して所在を明かさなかったという。 ほんのわずかな間だけ脚光を浴びた美しい男花魁のことを、今では皆忘れてしまっている。 |