ポガティヴィズム


やらかした。
僕は書類だらけの机の上に突っ伏して深い溜め息をついた。
どうしてこんなでかいミスに気付かずに放置してしまったのか、全くわからない。
書類のチェックの厳しさには定評があるくらいだったのに、一体どうしたことだろうか。
始末書を書き終えて脱力しながら、僕は再度溜め息をついた。

僕が自分の仕事に細心の注意を払うのは、僕の失敗がそのまま大王の信用に響くからだ。
当初大王付きの秘書という重要ポストは、上からの入念な審査による選出で決まることになっていた。当然と言えば当然だ。技量のない者、いい加減な者に任せていい仕事ではない。
しかし僕は特例中の特例で、大王による直々の指名なのだ。
よって僕がくだらない失敗をすれば、大王の人選が疑われる。そんなものを傍に置いている神経すらも。
自分が信用をなくしたり陰で悪く言われるのも気分が悪いが、大王に響くのはもっと耐え難かった。

「くそ……」

掠れた声でそう呟いた。
何を気に入ったのかは知らないが、彼は僕を選び、教え、導き、期待した。
彼は僕が慣れるにつれて仕事中にふざけるようになった。仕事が滞るので叱りはしたが、それがそのまま僕の成長度になっている気がして、不謹慎だと思いつつも大王のおふざけを嬉しく感じていたりした。
無責任なところもあるし、腑抜けだし、考えが突飛で振り回されることも多々あるが、僕は彼に応えたかった。
やる時にはこちらが跪きたくなるほどの威厳を見せることを、この目で見て知っていたからだ。

何もやる気が起きなかった。消え失せてしまいたい。
世界中から否定されているような気になっているのだから、僕は相当メンタルが弱い。
目の前がぼうっと霞んで、このまま眠ってしまいそうになった。全身が重い。
彼ががっかりした顔で僕を見る様を想像し、頭痛がした。


執務室の扉が開く音が聞こえた。僕の肩が露骨にびくりと震える。
誰が来たかなどわかりきっている。けれど僕はどうしても顔を上げることができなかった。
かつん、かつん、という靴音が、ゆっくりと近づいてくる。それに呼応するように僕の肩は強張る。
彼のことだから、恐らく僕を責めるようなことは言わないだろう。「余所で散々叱られたんだから、俺が追い打ち掛けるのは無しでしょう」とでも思っているに違いない。
「君のせいじゃない」「気にするな」「元気出して」
そんな安っぽいことを言いやがったら、冷めた目で見てやる。意気消沈した顔の下で、こっそりと。髪を撫でたり、肩を叩いたりしたら、その中途半端に優しい指先を呪ってやる。
閻魔大王のくせに、無駄に長く生きているくせに、その程度のことしか言えないのか、出来ないのか。
今欲しいのはそんなものじゃないんだ、考えろよ。

ああ、もう。

僕はなんて性格が悪いのだろう!




そうして待ち構えていると、少しの振動が机越しに伝わり、コンという陶器の音がした。
伏せたままの顔ではそれを見ることは出来なかったが、机に置かれたものがカップであることが何となくわかった。

「明日もよろしく」


僕は目を見開いた。
再び靴音が聞こえ、大王は元来た道を引き返し、執務室を出て行った。
廊下の靴音が完全に聞こえなくなってから、僕はぎしぎしと軋む首の骨を起こして顔を上げた。黒く艶のあるどっしりとしたマグカップからは、白い湯気が淡々と立ち上っている。
手を伸ばしてそれを手に取ると、手にぴりりとくる熱さを発した。しかし僕は手を離すことができなかった。カカオの匂いがする。

明日もよろしく

僕は彼の言葉を反芻した。
そこにそれ以上の意味もそれ以下の意味もない。
しかし僕は今、呆然としながらも確実に手にしている。
明日も、彼の隣に立つ許しを。

僕は苦笑した。
「これ好きなのはアンタだろうが」
僕は甘いものが苦手なのに。とっさに自分の好物を入れてしまうあたりが可愛げがある。
そっと縁に口を付けて傾けると、僕は驚いて目を見張った。
砂糖が入っていない。
感じるのは少しほろ苦い、ココアの深い味。僕が好んで飲むコーヒーよりか、どこか優しさを与えている牛乳の味。
僕は目を閉じた。


「勝てねぇな」

僕はまた違った意味で苦笑しながら、それを一口一口ゆっくりと、最後の一滴まで丁寧に味わうことにした。ああ、掌が温かい。
カップが空になるころ、僕はきっと背筋を伸ばして仕事を再開しているだろう。


こちらこそ、明日もよろしく


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