贅沢論


「お疲れ様でした。今日の分は全て終了です」

待ちに待ったその言葉に俺の耳は歓喜した。俺が大きく伸びをすると、鬼男君が部屋を出ようとしていた。
「どこ行くの」
「コーヒー持ってきます」
「待った、紅茶にして」
「あー……はい、わかりました」
「ニルギリがいいな。あっさりしたやつ」
「はいはい」
あれこれ注文を受けた後、彼は執務室を出て行った。
彼がお茶を持って戻ってくるのをこうして待つのが、俺は結構好きだ。しんとした大きな部屋にひとりっきりでも、不思議なことにちっとも寂しくない。



しばらくして、白いポットとカップの乗った盆を持った彼が再登場した。おまたせしました、と控えめに言って。
盆を机に乗せ、ポットとカップを注意深く置いていく。金の縁が入ったセンスのいいカップにそっと触れると、きちんと温めてあって、じんわりとぬくもりを感じた。
ポットを数回軽く揺すった後、茶こしをカップに置いてゆっくりとポットを傾けた。湯気を立てながら、真っ白だったカップに濃い目のオレンジ色が広がっていく。軽く息を吸い込めば、すがすがしいニルギリの香りが全身を満たした。
ポットの蓋にちょいと添えられた彼の指を見つめていると、思わず笑みがこぼれてしまった。

「何ですか」
「いや、君って紅茶淹れるのだけは丁寧だよね。料理とかは適当なのに」
「悪かったですね」
むっとした顔を作りながらも、三分の一を淹れ終え、もう一つのカップに茶こしを移して淹れ始めた。複数のカップに注ぐ時は何回かに分けるのが基本であることを、彼はきちんと覚えている。昔俺が教えた、小さな事。
「ゆっくり丁寧に作れば料理だってもっと美味しくなるのに。ていうか、実際出来るんでしょう?」
「アンタが『お腹空いたご飯ご飯』っていつもうるさいから、急いで用意してやってるんじゃないですか」
「わかった、もう急かさないから。だから愛情こめて作ってよ」
「やってますよいつも。スキスキダイスキエンマダイオウアイシテルーって呪文唱えてますから」
「よくもまあスラスラと適当な嘘が言えたもんだね……」
「ノリです」

軽口の叩き合いに一区切りをつけると、ポットを横に置き、茶こしを外して、ソーサーごと俺の目の前にずらし、小さく「どうぞ」と言った。
「君も座りなさい」
俺が促すと、彼は素直に椅子を机の傍に寄せ、腰を下ろした。それを見届けた後、カップの華奢な取っ手を持って静かに傾ける。
渋みが少なくて飲みやすい、しかししっかりとした味わいが舌を、喉を、高い温度で進んでいく。口にするだけで無条件でほっとする味と温かさだ。

「美味しい」
俺が笑顔を向けると、彼はわざと澄ました顔を作って「それはよかった」と言い、カップに口をつけていた。
カップの中の均一なオレンジ色を眺めながら、俺はしみじみと呟いた。
「一番贅沢なことって、何だか知ってる?」
彼はカップを下ろし、しばらく眉を寄せて考えていたが、首を傾げてしまった。その仕草が幼く見えて、俺の口元はほころぶ。
「時間をたっぷりと、有意義に使うこと」
そう言うと、彼は意外そうに目を見張った。
「案外簡単に実現出来そうですね」
「どうかな」
俺がクスリと弱く笑うと、彼は怪訝そうな顔で見つめてきた。気にせず俺は続ける。

「時間を贅沢に使うということにおいては、富や名誉は何の意味もなさない。誰にとっても、それは平等に至福になりえるからね」
彼もまた先ほどの俺と同じように、カップの中の紅茶を眺めている。しかし耳はきちんとこちらに傾けられていることが手に取るようにわかった。俺は安心して紅茶を口にする。
「俺は今、仕事もちゃんと終わらせて、君の傍で、君の淹れたお茶をゆっくり飲んでる。しかも、嘘みたいに美味しい」
俺は背もたれに背を預け、満足げに目を閉じた。

「最高級の贅沢だ」


ふと目を開けて彼の方を見ると、不自然に肩を強張らせて両手でカップを持ったまま固まっていた。俺は吹き出しそうになったのをどうにか堪えて尋ねる。
「どうしたの」
彼はちょっとだけ黙ってから、籠った声で独り言のように言った。
「……ただ、言われるままに、紅茶を淹れただけなのに」
そして世にも聞き取りにくい声で「大袈裟ですよ」と付け加えた。
「思ったまま言っただけだよ」
軽くそう言ってあげたのに、彼はますます縮こまって、亀のように首を引っ込めてしまった。
愛しさが溢れそうだ。俺は目をうっすらと開けて頬を緩ませる。
「鬼男君」
「恥ずかしいから」
勢い余ってはっきりと響いてしまった声に、彼は自分で驚いていた。しかしどうにかして次の言葉をつなぐ。
「もうそれ以上喋らないでください」

消え入りそうなその声に免じて、俺は笑みを浮かべながらも口を閉ざした。
望みどおりにしてあげたのに、彼はしばらくの間、俺にとっての心地よい沈黙の中で居心地悪そうに紅茶をすすっていた。



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