水の中でたゆたう少女


全く音のしない部屋の外で、鬼男は一人息を潜めて立っている。
気味が悪いほどの静けさだ。しかし肌の表面がざわざわと異変を訴えているので、部屋の中の事態の程は体感できる。
鬼男は悔しそうに奥歯を噛みしめた。

ここ数日、閻魔は裁きの間に姿を見せていない。
正しくは、見せることが出来ないのだ。
稀に起こる精神の乱れによって体の輪郭が定まらなくなり、『閻魔大王』という型を保っていられなくなることがある。
時に老人になり、時に子供になり、獅子の形をした何かになったり、それは本当に色々なのだそうだ。
決して部屋の中を見てはいけないと言われているため、鬼男はそれを閻魔の口から伝え聞いているだけなので、実際のところは全く分からない。
好奇心に負けて中を見てしまうなどという人間じみた行為はしない。
そうすることで破滅するのは間違いなく自分であると、鬼男は十分に理解しているからである。
だから、彼が自身の目茶苦茶な体を持て余しているのを、扉の外で控えてじっと待っていることしか出来ない。

不規則なリズムにより、変化が治まる時がある。
その時に、今のうちとばかりにまとめて審判をする。それはもう、普段の彼からは考えられないほどのスピードと真面目さで。
そして時間切れが近づくと大人しく席を立って、結界を何重にも何重にも張ったとても居心地の悪い部屋に閉じこもるのである。
体が変化している最中でも、正気を保っていられる時にその場で審判し、術により結果を裁きの間へ送り、後は泰山任せ。

鬼男は驚いた。
完全無欠だと思っていた閻魔大王にそんな不安定な状態になる時があるとは夢にも思っていなかったからである。
『閻魔大王』という存在はあまりに大きすぎて、そして極めて抽象的で、本来これという形がない。
よってどんな姿にもなれるし、どんな姿であってもそれは紛れもなく『閻魔大王』である。
しかし常人にはそれが理解できない。そのため、決まった形で人前に出なくてはならない。
その強固な枠も、中身が乱れてしまえばいつかはぶれる。その乱れは精神的なものではなく、予測不可能な周期によるもので、回避が出来ない。

難儀なものだ、『閻魔大王』とは。
鬼男は扉の奥の男を思ってため息をつく。



唐突に扉が開いた。
扉にもたれて立っていた鬼男は面喰って前につんのめってしまった。
その拍子に扉にぶつけた後頭部をさすっていると、背後から声がした。

「どうしよう鬼男君」

聞いたことのない声を不審に思い、鬼男は素早くそちらを振り返った。
そこには、

「さっきから戻らないんだ」

黒髪の白い肌をした少女が、閻魔大王の黒い着物に着られて立っていた。



「だい……おう?」
「そうだよ」

我が目を疑いしばらく硬直していた鬼男がようやく問うと、少女は控え目なハスキーヴォイスで淡々と答えた。いつものオールバックスタイルではなく、前髪が額を隠していて、一瞬原型がわからなくなる。
「変化がこのまま止まっちゃってさ、参ったよ」
閉じこもってからやたらと長かったのはそのせいか。鬼男はどうにか納得したが、目はぎりぎりまで見開かれたままである。
十二歳くらいのその背は鬼男の肩すら越さない。顔立ちなどの面影は若干残るものの、つむじからつま先までどこからどう見てもあどけない少女そのものである。
「大丈夫なんですか?」
「何が」
「その、気分が悪かったり」
「体は安定してるから仕事は出来ると思う。でもさすがに人前には出られない」
当たり前だ。いくら死者達が閻魔大王を初見だとしても、こんな吹けば飛びそうな少女だとは納得してもらえないだろう。
彼が形を変えるものだと頭では理解していても、目の前の光景をいまだに鬼男は飲み込めていなかった。

「とりあえず着替えましょう」

信じられないほど細くなっている彼の肩からずり落ちそうになった着物の合わせを掴み、首まで寄せ上げると、鬼男は肩を落としてそう言った。


「それしかなかったの?」
閻魔は開口一番そう言った。彼は着物が来るのを想定していたのだった。
白の軽いワンピースを持ってきた鬼男は、複雑な表情で答えた。
「事情を説明できないので、適当に手配したらこうなりました」
「いや、別に嫌なわけじゃないんだけどさ。着られれば何でもいいし。ただ」
渋い声を出しながら腰の帯の結びを解くと、合わせがはだけ、少女の白い体が上から下まで露わになった。
突然目に飛び込んできた幼い乳房や脚の付け根の線に、鬼男は危うく絶叫しかけて背を向けた。
「いきなり解くな!」
「え?ああ、ごめん。……でも別にいいじゃない、これ俺だよ?」
「中身が例えアンタだって、僕が女の子の裸を見るわけにはいかないでしょうが!」
「へいへいすんませんでしたっと」
適当に謝りながら渡されたワンピースを身に着ける。鬼男が僅かにぎこちなく首を動かした。
「……いいですか?」
「どうぞ。……ただね」
ゆっくりと振り返ってその光景を見た鬼男は、いたたまれなさに目を覆いたくなった。
閻魔もまた何とも言い難い表情で両端の裾を摘みあげてみせた。白く、何の意匠もないそれは、細い体を一層華奢に見せる。存在すらどこか希薄に。

「なぁんかいかがわしく見えるよね、これ」
「犯罪ですよ最早」
「だから着物がよかったのに」
「今から手配しましょうか」
「いいよ。さっきも言ったけど、着られれれば何でもいい。人前に出られないわけだし」

さあてお仕事お仕事、とおよそその体に似つかわしくない台詞を吐いて、閻魔は人払いした執務室に向かった。
しばらく呆けていた鬼男は、小さくなってしまった上司の背中を慌てて追った。


「よかったよ、とりあえずしばらくは安定状態みたい」
「わかるんですか」
「なんとなく」
筆を取りながら、足をぶらぶらとさせて閻魔は言った。椅子の高さが足りず、クッションを重ねて机に向かっている。その姿は、事情を知る者から見れば実にシュールだ。
「貴重です。あなたがこんなに自分から率先して、しかもそれなりの早さで仕事をするなんて」
「酷い言われようだ」
閻魔が苦笑すると、鬼男が「事実でしょうが」と鼻を鳴らした。

わざとらしくしょぼくれながらも手を動かす閻魔を、鬼男は眺めている。
病的な白い肌は、それが細いと余計に印象を危うくさせる。きっと自分が少し力を込めればその手首は折れるだろうし、激痛に高い絶叫を上げるような気がしてしまう。今も変わらず痛覚はないだろうから、実際そんなことにはならないのだろうが。
清潔なワンピースから伸びる白い足。これまた細くて折れそうである。こじんまりとした裸足の爪先を見ていると、何だか見てはいけないものを見てしまったかのような気持ちになった。
少女の姿になってから顔全体に対する割合を増した瞳のせいで、その紅さが自身の主張を強くするようになっていた。大きなガーネットをそのまま二つはめ込んだような、控えめながらも煌びやかな輝き。

鬼男は先ほどから計り知れない違和感を抱いていた。
外見はまるで変わってしまっている。いくら面影を残しているとはいえ、性別と年齢が変わっただけだとはとてもじゃないけれど思えない。
違和感の根源はそこかと思ったが、鬼男はすぐに小さく首を振った。
外見はおかしなことになっているが、それでも中身はきちんと閻魔大王であるとなまじわかってしまうため、そのちぐはぐさに酷く違和感を抱くのだと悟った。
そしてそれは鬼男をむやみに不安にさせるのだった。

「ごめんね」

閻魔が唐突に謝った。驚いて、鬼男はわけがわからず疑念に眉を寄せた。
「落ち着かないでしょう」
見透かされたようで、鬼男は背筋が強張るのを感じた。ごまかすように慌てて首を振る。
「いえ、僕は別にいいんですけど……早く戻れればいいですね」
相槌も何も返ってこないので、鬼男は閻魔に視線を戻した。不自然に硬直した指から、筆が滑り落ちていくのが見えた。
「大王」
声をかけると、俯いた閻魔の頬から涙がぱたぱたと二つばかり落ちていった。鬼男は仰天して閻魔の肩に手を添える。
「どうしたんですか」
「乱れてる」
表情のない顔で嗚咽も何もなしに、ただひたすらたくさんの涙をこぼしている。体は安定していても、中身は発作的にブレを発生させることがあるらしい。それは情緒不安定にも似ていた。

「参ったね、止まらないよ」
「どうすればいいんですか」
「さあ……放っとけばいいんじゃないかな」
鬼男は唇を噛みしめた。閻魔の独り言は、鬼男を無力にしていく。問いでも救いを求めるものでもなく、自己完結に過ぎないその独り言。
そうやって鬼男は独りにされる。閻魔もまた独りになる。
こんなに近くにいるのに。


「あなたはいつも僕に助けを求めませんね」

言ってしまってから、なんと安っぽい言葉を吐いてしまったのだろうと後悔したが、もう遅かった。
「そりゃあ、役には立ちませんけど、言うだけ言ったらどうですか」
閻魔は驚いたようでも困ったようでもない顔をして鬼男を見つめていた。その感情のない顔は、鬼男を不安の海に突き落とす。そしてそれを振り払うように衝動的に、強めた語調で言うのだった。
「僕はあなたの許しがなければ干渉できないんです」
閻魔はしばらく黙ったまま、依然涙は流しっぱなしで聞いていた。ちょっと考えているように眉を寄せて口元に手をやると、ちらりと鬼男を見てこう言った。


「じゃあ、助けて」


言われるや否や、鬼男は閻魔の両脇に手を差し入れて抱え上げて椅子から下ろし、その場に座り込んで抱きすくめた。小さなその体を拘束するのは容易だ。
こうすると、肌の柔らかな弾力でその体の華奢さがはっきりとわかり、鼻腔を満たすほのかに甘い肌の匂いで、本当に少女であるということを思い知らされる。
普通の少女の体だったなら、抱き締める腕の強さに小さく悲鳴を上げただろうが、生憎と中身は元のままなのでそうはならない。
それどころか、閻魔は涙を止めて鬼男の首にしがみついて微笑んだ。

「すごい」

その場に不似合いな台詞に、鬼男は眉を寄せた。
「何がですか」
鬼男の問いに、閻魔は心底嬉しそうに返した。
「君ね、抱き方が一緒」
意味が分からず返す言葉を失っていると、閻魔がくすりと笑って付け加えた。
「普段と今と、抱き方が変わらないね、ってこと」
「……すみません、痛かったですか」
力の加減が出来なかったのかと思い慌てて腕の力を緩めたが、閻魔はゆるりと首を振って鬼男の背に手を回し、自身の頬をその胸に押しつけた。生命を宿した体温がじわりと伝わる。
「違うよ、嬉しいんだ」
満たされた表情で自分の腕の中に収まっている閻魔を見下ろしながら、鬼男は少しずつその言葉の意味を理解し始めていた。

「君はいつだって俺の本質を抱くんだから」

閻魔はその小さな桜色の唇を鬼男のそれに重ねた。鬼男も閻魔の頬に手を添え、それに応える。
「キスも一緒」
ふふ、と閻魔が笑う。
「君は、中身が俺なら外側は何でもいいんだね」
「はいはいそうですよ」
「適当」



執務室の床に座りこんで、という奇妙な状態でのじゃれ合いを、二人はいつまでも続けていた。そうしていれば、そのうち元に戻るだろうとお互いに確信しながら。
事実、閻魔の精神は、今とても穏やかである。



あなたがあなたであるならば

あとはどうでもいい



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