桜前線に沿って走る


ニュースキャスターがテレビの中で晴れやかに笑って、今日は桜の開花日だと伝えた。
淡色で揃えた春の装いをしているキャスターの背後で揺れている桜が、ひどく遠いところのもののように、彼には思えた。
土曜だというのに午前中だけ授業がある今日。すやすやと眠っている小学生の弟を恨めしげに眺めてから、ケンジは家を出た。外に出ると、春の空気がいっぺんに肺に入ってきた。


「今日、桜開花だって」
朝、いつもの待ち合わせ場所。Y字路、カーブミラーの下で待っていた藤田は、おはようも言わずにそう言った。
「ああ、ニュースで聞いた」
「何だよ、感動ないな」
淡々と返したケンジの態度にいくらか不満を抱きながらも、彼の口元は浮き立っている。高校生にもなって桜ごときにそんなに喜ぶのか、と少し呆れ気味に横目で見るが、ケンジの視線に本人はまるで気付いていない。

「ばあちゃんと見に行ってたんだよ、毎年」
藤田は懐かしそうに空を見上げながらそう言った。
「今年は?」
ケンジが問うと、藤田は少しだけ困ったような顔をして口ごもった。
「一昨年に死んじゃってさ。だから、去年は行く気になれなくて、見に行かなかった」
「ばあちゃん子」
「うるさいな」
ばあちゃん子なんて藤田らしい、と不謹慎にも微笑んでしまいそうになり、ケンジは努めて口の端に力を込める。
一方の藤田は少しの間感慨に浸ると、ちらりと遠慮がちにケンジの方を見た。
「今日さ、学校終わったら、行かない?」
ケンジが藤田を見ると、彼は何故か少し照れて顔を背けた。ケンジはその様子の意味がいまいち分からず首を捻った。
「いいけど、今日開花なんだろ?しかも土曜だし、混むんじゃねーの」
そう言うと、藤田が楽しげに笑った。
「穴場知ってんだ」
つられてケンジも笑ってしまう。
「ばあちゃんとの秘密の場所か」
「やめろよそういう言い方」
むくれてしまったものの、彼は今の会話を心底楽しんでいて、授業が早く終わることを切望することになる。
少し風はあるが、おかげで雲ひとつない抜けるようなライトブルーの空は、花見にはおあつらえ向きだった。



ショートホームルームが終わるや否や藤田が教室まで迎えに来たので、ケンジは苦笑に近い笑いをこぼしてしまった。
引っ張られるように案内されると、小さな神社にたどりついた。鬱蒼とした木々に囲まれたそこに人の気配はなく、その代わり一面薄桃色で染まっていた。
どっしりとした幹から伸びる枝に被さるようにして咲いている桜の花の群れが、視界いっぱいに広がる。少し風が出てきた。ちらちらと舞う花びらの中、ケンジは嘆息する。

「すげぇな」
「だろ」
「お前のばあちゃんがな」
誇らしげに笑うのをケンジがからかうと、藤田がむくれてそっぽを向いた。
しかしそこに一陣の風が吹き、二人は同時に息を飲んで言葉を忘れ、目の前の光景に目を奪われた。
神社を囲う桜の大木が一斉に風に揺るがされ、その中心にいる二人を桜の吹雪に巻き込む。読んで字の如く、季節外れの雪のようにそれらは宙を舞い、風の雄雄しい声、枝が擦れ合うざわめきが幻想的な風景を一層引き立てる。
二人はしばらくの間その光景に釘づけになっていた。彼らの他には誰もいない。今この景色は、確実に彼ら二人だけのものだった。
藤田が呆然と桜を眺めていると、ケンジが小さく唸って目を擦った。

「痛っ」
「どうした」
「目にゴミ入った」
「えっ」
さらに擦ろうとするケンジの手首を藤田が取り、そのままケンジを傍のベンチまで引っ張っていく。
「藤田、引っ張るな。何なんだよ」
文句を言うケンジを無視し、ベンチに座らせてケンジの頬を両手で包んだ。
「擦っちゃ駄目だ。俺が取るから、お前はじっとしてろ」
「はぁ?」
逃げようにも顔をがっちり捕まえられているため、近づいてくる藤田の顔から目がそらせない。ゴミの入った目から涙がぱらぱらと落ちて、ケンジは自分の滑稽さに少し呆れていた。
真剣な表情で瞼を押さえ、入ったゴミを探す藤田を呆然と見上げていたが、思い立って、ケンジは不意に吹き出してみせた。
「お前さぁ、考えが古い」
「何だよいきなり」
「目のゴミ取るって……キスしたいならそう言えよ」
予想と寸分も違わぬ真っ赤な顔で、藤田は盛大に後ずさった。ケンジは依然涙を流しながら腹を抱えて笑った。泡を食ったように口をぱくぱくとさせている藤田を、指をさしながらなお笑う。
「あのな、普通目のゴミなんて手じゃ取れねぇんだよ。それを、あんな、大真面目に」
ケンジは我慢できない、という風に、またげらげらと笑いだした。怒りなのか羞恥なのか判断しにくい顔の赤さのまま俯いていた藤田は、こちらももう我慢ならんといった具合にケンジに掴みかかった。
「お前ほんっとムカつく!」
「いて、馬鹿、首締まる」
学ランの中のワイシャツを掴み上げて揺さぶる藤田の手首を懸命に抑えながら、ケンジの笑いはようやく収まってきた。そして試すような、ちょっとだけ意地の悪い薄い笑みを浮かべた。
「したいならしろよ。今なら誰もいないし」
藤田のはっと息を飲む音がやけに大きく響く。こんな時に限って風が一斉に鳴りを潜め、辺りは少し肌に痛い静寂に包まれた。取り囲む桜から視線のようなものを感じて、気まずい空気をを味わわされる。
冗談ではなさそうなケンジの静かな瞳を、震える目で凝視しながら、藤田は立ち尽くしていた。静けさが不安を掻き立てる。逃げ出したくなったが、足は根を張ったようにぴくりとも動かない。
吹いてよ、風。藤田は情けなくも泣き出しそうになってしまった。






親友だと思っていた。
出会ったのは高校からだったけれど、十年来の友人のようだと、自他共に認めている。
入学していきなりつるむようになり、周りからは「同じ中学出身なのかと思った」と言われたほどだった。俺も藤田も不思議だった。何だかわからないけれど、波長が合ったとしか言いようがない。
交友関係に対して淡白だった俺が、初めて執着した人間だった。家が近く、行き帰りが一緒というのも大きかったと思う。屈託なく笑う藤田は、見ていて気持ちが良かった。
だって、驚きだ。二年になってクラスが別れても、全く疎遠にならないなんて。新しいクラスになって互いに別の友達ができたけれど、やはり俺達は互いに別格な意識を持っていた。
親友だなんて今時流行らない言葉を恥ずかしげもなく言える自分が、彼を人として好きだと思える自分が、嬉しかった。自分を好きになるのにこんな方法があることを知らなかった。

だから、告白という単語を聞いて、正直ぞっとした。
勿論最初に浮かんだのは何かの間違いだろうという言葉だったが、俺はこの関係が壊れることを酷く恐れていた。
結果的にその予想は外れ、それどころか完全に想定範囲外のカミングアウトで、恋愛感情の吐露よりよほど衝撃的な内容だった。当然の如く、半信半疑だったが。これを端っから信じろという方が無茶だ。
大したことではないという風にさらりと狼男であることを告げた藤田の指は、微かに震えていた。顔だけ見れば、冗談を言っているようにすら見えるほど平然としたものだったのに。
自宅で彼の来訪を待つ間、もし俺が彼の立場だったらと考えていた。死んでも告白などしないだろう。近しい存在で、軽蔑、恐怖を向けられたくないような大事な相手なら尚更だ。
そして怖かった。豹変した彼を見て恐怖を露わにしてしまったら、と。暴走した彼に襲われるのではないかという恐怖ではなく、俺が怖がることで彼が傷つくのが恐ろしかった。

しかし実際変身した彼を見たら、それらの危惧は全て杞憂に終わった。姿形は勿論、中身の人格も変わってしまっているのに、俺は案外あっけらかんと構えていた。
だって、中身は藤田なんだろ?
そう本気で思った自分の方が恐ろしく、我ながら太い神経だと思った。
後になって聞かされたが、この大きな秘密を打ち明けたのは、俺が初めてだったらしい。
その時、俺は人生で初めて、死ぬほどの嬉しさというものを味わった。そこまで信用されているのは、少し照れくさかったけれど。
ポーカーフェイスが得意でよかったと、あの時ほど思ったことはない。隠しきれそうにない浮き立った表情を見られるのは恥ずかしかったから。

そしてそれから数日と経たないうちに、本当の告白を受けてしまった。
最初に彼の口から告白という単語を聞かされた時ほど嫌悪は感じなかったが、やはりそれなりに動揺した。しかし不思議なことに、何故か断る理由が思いつかなかった。今思えば、いくらでもあったというのに。
だって付き合ったところで、何をするって言うんだ。奥手の藤田が特別なことをできるとは思えないし、俺からのアクションを要求するような奴じゃない。今と大して変わらないじゃないか、と。
言われるままに承諾した俺だったが、要するに親友の延長と見ているのだと思う。だからこれは、情愛を伴うものではないのかもしれない。

でも藤田は違う。そうでなければ告白なんてわざわざしなかったはずだ。
いずれ藤田は気づくだろう、俺と彼の思いのバランスの違いに。もしくは質、種類の違いに。
そうして藤田が傷つく前に、さっさと関係を打ち切ってしまうのが互いのためだとわかってはいるけれど、出来ない。
彼を傷つけるのが怖いのもあるが、自分が本当にどうしたいのかが分からない。とても中途半端な付き合い方をしてしまっていることは十分承知している。

俺は不誠実だ。






親友だと思っていた。
出会ったのは高校からだったけれど、十年来の友人のようだと、自他共に認めている。
入学していきなりつるむようになり、周りからは「同じ中学出身なのかと思った」と言われたほどだった。俺もケンジも不思議だった。何だかわからないけれど、波長が合ったとしか言いようがない。
狼男のくせに一人でいるのが我慢ならない俺は、傍にいるのが当たり前になっている存在があることをとても嬉しく思っていた。しょっちゅうからかわれるのはむかつくけれど、でも結局は、それすらも楽しい。
傍にいるけれど、べたべたしない彼の付き合い方が好ましかった。そして次第に、彼なら自分の正体を打ち明けても大丈夫なのではないかという考えが浮かぶようになった。

ずっと隠してきた。誰にも言わなかった。自分でさえ自分が恐ろしいのだ、他人が恐ろしく思わないわけがない。
でもケンジなら、あっさりと受け入れてくれるような気がした。「それがどうした」と言ってくれるんじゃないかという根拠のない確信があった。
本当はずっと誰かに打ち明けて、理解してもらいたかった。「それでもお前はちゃんと人間だ」と言ってくれる存在が欲しくてたまらなかった。
狼男でいる時の記憶が薄いのが痛いところだが、翌日会った時、彼がいつもと全く変わらない様子で接してきたので、予想通り受け入れてくれたのだと知った。嬉しかったくせに、しかしそれ以上に俺の動揺ぶりは酷く、頭の配線がめちゃくちゃになり、あげく勢いで、かけらも本気ではない絶交を言い渡す始末。
帰宅した後、自室に籠ってぼろぼろと泣いていた。冗談でも言ってはいけない言葉を言ってしまった後悔と、受け入れられたことに対する果てのない嬉しさで、脱水症状でも起こしそうなほど、馬鹿のように泣いた。一生分泣いた気分だった。
満月が再び昇るまでのおよそひと月の間、俺たちは絶交をしていた。クラスは違うからそれほど問題はないように見えた。ただ行き帰りが別になっただけだ。
死にそうだった。あんなに憂鬱だった満月を待ち望む日が来ようとは、夢にも思わなかった。

そして、こいつはまたしてもあっさりと俺を救い出す。
絶交しても親友か。俺の発した言葉に大した意味などなかったというわけだ。
たくさんのものが胸の中でいっぱいになって、これで惚れない方がおかしいだろ、と俺は誰かに主張したい。
程なくして俺は本当の告白をした。伝えることしか頭になく、彼の返事など全く想像していなかった。彼は承諾した。
そこで俺は我に返った。彼が拒絶したら、どうするつもりだったのだろう。もう親友には戻れない。一緒にはいられない。そんなことも想像できなかったのだろうか。我ながらおめでたい奴である。
別段関係が変わるわけではなかった。今まで通り共に行動して、傍にいた。恋人同士特有の何かをする度胸は俺にはない。
でも俺が彼をもうただの親友として見ることができなくなっていたのは事実で、動かしがたかった。

勢いだったのかもしれない。いや実際そうなのだろう。もしくは受け入れてくれるなら誰でも好きになっていたのかもしれない。
急速に冷静になってそんなことを考え始めると、俺は頭を抱えてしまった。それは本当にケンジを好いていると言えるのか?自分の嬉しさと彼の優しさを、恋愛感情だと錯覚しているだけなんじゃないか?
勢いで、しかもその感情は一時のまやかしだったのかもしれないだなんて、ケンジがもし気づいたら。

俺は不誠実だ。






『この恋に、意味が、価値があるのか?』






藤田は力なくケンジの隣に座った。ケンジが特に残念そうでもない、淡白な声で尋ねる。
「しないの?」
「しないよ。誰が来るかわかんないだろ」
仕方も知らないし、と口ごもりながら続けると、ケンジがそっけなく「そうだな」と返した。互いに後ろめたさを感じながら、少しざわつき始めた桜の音を聞く。
せっかく花見に来たのに、ちっともその美しさを堪能していない。隣に座っていながらどことなく距離を置いて沈黙している。そういえば昼飯も腹に入れていない。自分の悩みで精いっぱいで、二人は相手が何故元気を失っているのか疑問に思わなかった。

唐突に、ケンジが俯かせていた顔を上げた。桜が騒いでいる。ざわざわ、さあさあ、しゃらしゃら。色んな音が混ざって、段々耳に心地よくなってきた。
すう、と息を吸い込むと、春の匂いが体に入り込み、生気が満ちる。空は明るい。
ケンジははっとして立ち上がり、藤田の肘を掴み上げた。面食らった藤田が驚いた声を上げる。
「何だよ」
「立て、藤田」
「え?」
ケンジは藤田を見ず、依然として桜の群れから目を離さない。そしてどこか取りつかれたような声で、表情で、言った。

「多分、来る」

腕を掴んだまま藤田を無理やり立たせ、境内のど真ん中まで走った。事態についていけていない藤田の足がもつれそうになる。
どうにか二人で石畳に立つと、ご、という音がして、中心を風が走り抜けた。
一瞬にして現実から切り離され、声を失った。桜が一斉に歌い、髪が後方へ舞い上げられ、幾千もの桜の花弁の洪水に再び取り込まれる。風の通る音だけが聞こえて、他が無音になってしまったように思えた。
足はしっかりと薄い石の上にあるのに、心だけふわふわと浮いているような、しかしそれだって風にあおられている。
幻想の向こう側にあるような、奇跡みたいな光景の渦中で、二人は寄り添いながら、さっき見た桜吹雪とは確実に違って見える景色に呆然としていた。
これは魔法だ。言葉にせずとも、知らず二人は同じ感想を共有していた。
同時に、その魔法のかかった強い風と一緒に、今の今まで考えていたことが、僅かな破片だけを残して吹っ飛んでいた。





難しいことはもういい。
様子を見ながらだっていい。
とりあえず一緒にいてみよう。

本当の恋じゃないかもしれない。
子供の恋かもしれない。

でもさ、「本当」だの「大人」だのって、すごく薄っぺらに聞こえないか。

なぁそう思うだろ、『――――』。

だって、お前と一緒にいないだなんて、考えられない!




彼らは互いに知らんふりをしてこっそりと笑いながら、背中合わせでスタートし、緩やかな全力疾走を始めるだろう

桜前線に沿って





芹井さんとの小説交換の際に捧げたもの

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