思考する兎


日も傾きかけ、放課後の教室が橙に染まっている。
ショートホームルームはとうに終わり、皆それぞれ帰宅し部活に行き、教室に残っているのは私と友人だけだった。
席について日誌と出席簿のチェックをしている私と向かい合わせになるように、彼女は気だるげに椅子に座っている。
ずいぶん前から黙っているような気がする。シャーペンの走る音だけが響いていて、私は妙な気まずさに纏わりつかれていた。

「聞いて、うさみちゃん」

唐突に沈黙を破られたが、私は顔を上げなかった。
「何」
私の素っ気無い返事に気を悪くする様子もなく、彼女は答えた。
「昨日ね、彼氏にキスされたの」

どうしてそんなことを私に言うの。という台詞が出かかったが、もちろん飲み込んだ。
「久しぶりだから感覚忘れてた」
不自然なほど反応しない私の態度など気にもせず、彼女はぼんやりとした声のまま続ける。
キスをされたことに何の意味もないかのような口ぶりが何だか引っかかった。
生憎彼氏などいたためしがない私はその感覚がどうの、という言葉に何一つ返すことが出来ない。
別にひがむ気持ちなどさらさらないし、彼女自身自慢したくて言ったわけではなさそうである。
ならば何故今こんな話をと思う前に、頼むからこれ以上居心地の悪さを悪化させないでくれ、という私の無言の訴えが辺りを浮遊していた。

「悪いけど気持ち悪かった」
シャーペンが止まりそうになったが、どうにか取り繕った。二限目、数学。内容は、何だったか。黙々と日誌の項目を埋めていく。
「生暖かくて」
まだ言うか。
「変に柔らかくて」
わかった、わかったから。
「水っぽかった」
「水っぽい?」
思わず聞き返してしまい、私は「あ」と小さく間の抜けた声を上げた。
顔を上げて視界に入った彼女は少しだけ驚いた顔をしていたが、やがてすぐにいつものふわりとした笑顔に戻った。
ミステリアスな笑顔。私はそう呼んでいる。

「そうなの、水っぽいの。うさみちゃん、知らない?」
「生憎する相手がいないから」
「そうだっけ」

とぼけちゃって。
少しだけうんざりした私は、書き終わった日誌を閉じようと表紙に手をかけた。
その前にため息をつこうとしたが、その吐息は外気に出て行くことはなかった。

彼女に飲まれたのである。

一瞬何が起こったのかわからず、半開きになっている私の目が数秒後に大きく見開かれた。彼女の柔らかな唇が私のそれに押し当てられている。
これ以上ないというほど彼女の顔が近づいているのにもかかわらず、それは視界に入っていなかった。今、私の目は全く機能していない。
ちゅ、という小さな音がして唇が離れた。呆然として声を失っている私を、彼女は何故か残念そうに眺めている。


「うさみちゃんとするキスなら、好きになれるのに」

あーあ、と言って小さな子供のように足を投げ出した。机の上の彼女の携帯が鈍い音を立てて振動する。
彼女は億劫そうな手つきでそれを取り、通話ボタンを押して耳に押し付けた。
「はぁい……今?教室。……はいはいわかった、今から降りるから。うん、うん、はーい、じゃあね」
随分ぞんざいな調子の会話を終え、彼女はため息を一つついた。それはさっきの私のため息だろうか。そんな頭の悪いことを考えていた。
「彼氏?」
どうして今そんな風に聞けたのか、わからない。よく口が動いたな。私は変なところで感心してしまった。
「うん。ごめんね」
少しだけ申し訳なさそうに眉を下げて、彼女は鞄を肩にかけて教室を出て行った。
廊下を小走りに行く上履きのぱたぱたという甘ったるい音を聞きながら、今の謝罪は何に対してだったのだろう、とぼんやりと考えていた。


一人残された私は、急に思考能力が復活して動揺している。
仲のいい友人だと思っていた少女にいきなり口付けられてショックを受けているのか。
彼氏がいるのに私にこんなことをしていいのか。
同性ならカウントに入らないのか。
脳の中で思考はめまぐるしく働いているが、私を襲っている感情はそれらのどれでもなかった。

酷い罪悪感。今、私の体を苛んでいるもの。
唇が触れた瞬間、自分が先ほどの自分とは違うものになってしまったかのような錯覚に陥った。
別に誰と付き合っているわけでもないのに、何かとんでもない罪を犯してしまった気がする。
ごめんなさい。誰に対してだかわからないけれど、大声で叫びながら謝ってしまいたかった。
体中を刺す原因不明の罪悪感に、私はただただ深く困惑するばかりだった。


帰ろう。
帰ってご飯を食べてお風呂に入って眠ってしまおう。
明日のライティングと古典の予習も毎週見ている推理ドラマも就寝前の読書も何もかも全てすっ飛ばして、必要最低限の行動だけをして無理やり明日に変えてしまおう。
そう思って私は勢いよく立ち上がった、はずだったのに。

開きっぱなしの教室のドアの中にフレームインしてきた人影を見て、私は動くのを忘れた。

「うさみちゃん」
意外そうな目で私を見ながら彼は教室に入ってきた。そのとき私は自分がどんなに酷い顔をしているか想像することすら出来なかった。
「まだ残ってたの?」
「週番だから」
「あ、そっか」
「そっちは?」
機械のような自分の受け答えに、私は泣き出しそうになった。
「ライティング一式置いてきちゃってさ。明日当たるから取りに」
彼の言葉が途切れたので、私は顔を上げた。視界が滲んでいて、彼の茶色がかった髪も少し丸顔な輪郭も、全てがぼやけていた。
一度瞬きをすると、大粒の涙がぼろりと頬を滑り落ちていった。
「だ、大丈夫?」
怯んで後ずさるだろうという私の予想に反して、彼は前進してきた。反射的に私は叫ぶ。

「来ないで」

ああなんて情けない声。掠れて湿った声が弱々しく飛んでいった。彼はびくりと肩を震わせて動きを止めた。
「来ないでよ」
もう一度叫ぶと、彼は弾かれたように教室を飛び出していった。
もつれそうな足音が遠ざかり、完全に消えたのを確認すると、再び大粒の涙が堰を切って溢れ出した。ついでに嗚咽まで漏れる始末。
最悪だ。両手で顔を覆いながら何故自分が泣いているのかわからず、また泣いた。


まさか罪悪感の対象があいつだなんて。

彼が好きなのは今も変わらず私の友人のはずで、その友人に彼氏がいることも知らず、いまだに変態じみた妄想をしながらずっと彼女を思っていることも全て知っている。
何も知らない彼を何度も愚かだと思ったし、憐れみすら感じていた。
なのに気づいてしまった。私は彼に詫びていたのだ。
彼は私のものではないし、私も彼のものではない。友人であるかどうかすら怪しい。
けれど、私の謝罪は確かに彼に対してのものだと、今はっきりと確信してしまった。
なんて傲慢な。
しかし呆れる余裕すら私には残されていなかった。


いくじなし。
いくら「来ないで」と言われたからって、泣いてる女を残して逃げ出す奴があるか。
胸の中で矛盾した悪態をつきながら、私は必死に呼吸を整えた。これ以上自分の嗚咽が空っぽの教室に響き渡るのを聞きたくない。
強く鼻をすすると、鼻水がつまって頭が一瞬ぼうっとした。目もじんじんと疼いている。
どうしよう。私は途方にくれてしまった。
嗚咽と涙はどうにか鳴りを潜めてくれたが、私はその場から動く気になれなかった。今度こそ帰らなくちゃ、と全身が言っているのに。
ああ泣き顔を見られてしまった。死にたいほどの羞恥に襲われていると、忍び足が僅かに聞こえてきた。私ははっと息を飲んで顔を上げた。

目を疑う。
心底困ったといった風な彼の顔が、ドアからのぞいていた。彼の口がおずおずと開かれた。
「もういい?」
唖然としたまま、私はどうにか首を縦に振った。そろりと静かに足を踏み出し、戸惑いがちに私に近づいてきた。
「つ、使う?」
差し出されたのは青いハンカチだった。びっくりしてしばらくそれを眺めてしまったが、おとなしく受け取った。
触るとひやりとした。わざわざ水道で水に濡らして絞ってきたらしい。
頬と目を順番にぬぐい、目を閉じてしばらく瞼に押し付ける。痛いほどの火照りをハンカチの冷たさが穏やかに治めていった。
そんな私を、彼はきまずそうに見つめながら立ち尽くしていた。気が済むまで冷やすと、重い口を開く。

「何で戻ってきたの」

思ったより刺々しくなってしまった自分の言葉に舌打ちをしそうになった。彼はおどおどしながら答えた。
「いや、だって、結局ライティング持たずに出てきちゃったし」
ああそうか、私が追い出したのか。もっともな返事をされて私は急に恥ずかしくなった。自分の尊大な態度がどうしようもなくみっともなく思えた。
「ご、ごめんね。タイミング悪くて」
すっかり小さくなっている彼を眺めながら、私はまた一人で考えていた。
教室を飛び出して、水道まで走っていって、また戻ってきて、私が泣き止むのをドアの裏側でじっと待っていたというのか。
変態という名の紳士、というフレーズが急に頭にのぼってきて、私はたまらず吹き出した。
さっきまで泣いていた人間が今度は唐突に吹き出したので、当然彼は動揺した。
「今度は何?!」
まだ湧き上がってくる笑いを押さえ込みながら、私は首を横に振った。
「違う、何でもない。ただの思い出し笑い」
「えええ今この状況で?うさみちゃんもしかして結構元気?」
そうかも。そう素直に思えたので、私はこくりと頷いた。彼の安堵した表情が目に映る。


私が今さっきキスをされたことを、彼は知らない。
しかもその相手が彼の想い人であるということも、彼は知らない。

この事実がさっきまで私を締め上げていたというのに、今では彼に対して秘密を持っている自分がなんとなく特別に思えた。

「ねえ」
私が声を発すると、彼はいちいちびくついた。泣いている女の子というものは、男にとって相当脅威な存在らしい。女の武器は涙、とはよく言ったものだ。
「一緒に帰らない?」
「えっ」
虚を突かれて彼の目が見開かれた。フリーズしている彼を尻目に私は付け加える。
「こんな顔で外に出たくないのよ。ブラインドが欲しくて」
「僕ブラインド?!」
何だよそれ、とがくりと肩を落としている。その様子を見て私は思わずクスクスと小さく笑った。

彼は一度も私に泣いた理由を聞かなかった。聞けなかっただけかもしれない。けれど私にはその事実だけで十分だった。
私は彼をだいぶ勘違いしていたようだ。彼を知っているようでちっとも知らなかった。
しかし悔しくはなかった。むしろ知らない面があったこと嬉しく思っている自分がいる。

私の申し出に彼は驚きはしたが、嫌そうな表情はかけらも見せなかった。私はそれにひそかに安堵した。
机の中からライティングの教科書とノートを取り出してかばんに突っ込んでいる彼を待ちながら、急に少しだけ照れくさくなって彼から視線を外した。

唇には、彼女のリップクリームの苺の味がかすかに残っている。


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