且座喫茶


「大王、差し入れが届いてました」
執務室に入ると、今日の分の仕事を終えて机の上に伸びている大王に声をかけた。
大王が突っ伏したまま手を持ち上げてぷらぷらと振ったので、その滑稽さには目をつぶり、上質な和紙に包まれた箱を差し出した。
それを手に取ると、彼は緩慢な動きで上体を起こす。眠たげな目のまま、包装紙に押された金の印を確かめる。
するとすぐにああ、と合点のいった声を上げた。

「新作か」
「え?」
聞き返すと、包装を丁寧に開きながら大王は答えた。

「いや、贔屓にしてる和菓子屋が上にあってね。自信作が出来るとたまにこうして寄越してくれるんだよ」
「へぇ……」
納得した僕は頷いた。普段僕に情けない姿をさらしてばかりの彼だが、そういえば冥界の頂点に君臨する人物であった。
彼が贔屓にすれば、王室御用達のようなものでその店に箔がつくのだろう。機嫌伺に差し入れを寄越すのは当然といえば当然である。

「店主と仲が良くてね、機嫌伺とかそういうんじゃなくて、会心の出来だと『どうだ』と言わんばかりに送ってくるんだよ。それで俺が気に入って同じもの食べに行くと、してやったり顔で店主自ら出してくる。面白いでしょ」
先ほどの自分の思考を見事に砕かれ、何だか申し訳なくなった。
大王はまだ包装を解いている。恐ろしく器用であるはずだが、意図的にゆっくりと、丁寧に解いているようだ。微笑しながら彼は続ける。

「いい人だよ。俺相手に全然物怖じしないし、別嬪さんだし」
「女性なんですか」
「見た目六十過ぎだよ?さすがに守備範囲外だから安心して」
「誰がそんなこと言った」
この男は、と苦々しくため息をつくと、大王がようやく箱を開けた。
中には清楚な白菊をかたどった饅頭が入っていた。大王がほう、と感嘆の息を漏らす。

「薯蕷饅頭ね。一級品だ」
純白のきめ細やかな花弁に、差し色の山吹色の小花が一層白さを引き立て、ひそりと光を放っている。素人の僕でも作者の技巧の高さが見て取れた。
大王が一緒に入っていた茶筒のようなものを取り出す。

「おや、ご丁寧に薄茶まで。点てろってか」
くっくと喉で笑って、これまた洒落た意匠の茶筒を手で回して見ている。
何のことを言っているのかはわからなかったが、その”守備範囲外”の店主を思い浮かべているのだろうと思うと微かな疎外感を感じて、どうしたものか、と所在無く突っ立っている。

「鬼男君、点ててくれない?」
唐突に水を向けられ、僕はきょとんとしてしまった。
「何を、立てろと?」
大王が怪訝そうな顔をした。
「んん、ちょっと待て、何か勘違いしてない?」
「目的語なしじゃわかりませんよ」
「お茶を点ててって言ったんだよ」
「お茶?お茶の話だったんですか?」
まどろっこしい物言いに不機嫌そうな声を出してみれば、大王は目を見張って僕をまじまじと見ている。
「茶道の心得は?」
「お茶って茶道のことですか……あるわけないでしょう」
「俺の秘書なのに?」
「何なんですかその理屈は」
大王は深くため息をつくと額を押さえて首を横に振った。
「嘆かわしい。閻魔大王の秘書ともあろう者が茶道の嗜みもないとは……」
「旧家の令嬢じゃあるまいし……そもそもそんなもん嗜む暇もなく貴方の下で働いてきたので」
わざと嫌味ったらしく言ってやるも、大王はこちらの様子など全く注意を払っておらず、真面目な顔で僕を睨んだ。
「君、泣く子も黙る閻魔様の側近なんだよ?それだけで下の者の羨望の的なのに、作法の一つや二つ体得してなくてどうすんの。これくらいの教養、あって当然ですよねとか上から目線で言われたら腹立つでしょうが。いかん、いかんよ。これは由々しき事態だ」
言っていることは至って大真面目だが、無駄な身振り手振りと芝居がかった語調のせいで彼が半分面白がっていることは明らかだ。
面倒なことになりそうなのがもう目に見えている。予想通り、彼はすっくと立ち上がった。

「おいで。俺が手本を見せる」
目をきらりと光らせて促してきたが、僕はにべもなく首を横に振る。
「僕は残務処理が残ってるんで」
「んなもん後でも出来る。閻魔様命令だよ」
さっきから自分のことを閻魔様閻魔様と、腹の立つ男である。いや実際「様」と敬称されるほど偉いのだが、自ら言っているのを聞くほど癪に障ることはない。
大体誰のための残務処理だと思っているんだ。職権乱用常習犯め。
言いたいことは山ほどあったが、僕も疲れていた。大王が引くとも思えないし、単に茶に誘われていると思えばこちらとしてみれば願ったり叶ったりである。 茶道はよくわからないが和菓子は好きだ。僕は肩をすくめてみせた。

「わかりましたよ」
「よろしい」

満足げに頷き、大王は僕に背を向け歩き出す。背中が無言で「ついて来い」と言っていた。
僕は有能な側近らしく、静かな足取りでその背を追った。

執務室を抜け、大王に従い廊下を幾度か曲がると、もう自分がどこにいるのかわからなくなる。恐らく大王が意図的にそういう風に作っているのだろう。
しかしさすが本人はきちんと把握しているようで、その足捌きに澱みはない。
閻魔庁に来てから長いが、まだまだここは未知の世界である。所詮僕は鬼、知らされることは少ないということか。それとも知らない方がよいということか。
嬉々として僕に作法の手ほどきをしようという大王には悪いが、後ろを歩いている僕はそれとは全く関係のないことに思考を巡らせていた。

大王の足が止まると、目の前の扉を開けた。奥にもう一枚襖があり、それを両手で大事そうにずらした。
四畳半の鶯の畳が整然と佇む見事な茶室だった。仄かに檜の香りもする。
靴を脱いで中に入ると、しばし座って待つように言われた。確か色々と道具が必要だった気がする。
大王がいなくなった茶室の中、僕は一人物珍しげに辺りを見回していた。

まず目に留まったのが床の間の掛け軸。
少し黄色がかった和紙の上に踊る少し細めの筆跡。何と書いてあるのかさっぱりわからない。かろうじて「月」と「天」があるのはわかったが、漢字だけの、何かありがたい言葉なのであろうそれは、書道の心得も生憎持ち合わせていない僕からしてみれば、原形を留めぬ適当な毛筆にしか見えなかった。
なるほど、教養がないということはそれだけ価値の視野も狭くなるということか。急に場違いな気分になってきた僕は早くも面倒くささが表情に出始めていた。

そのまま視線を下に落とすと、陶磁器らしき花入に生けられた花が目に入った。
薄紅の花弁の中央に黄色の雌しべがよく映えている。少し下を向いたその姿が、秋らしい慎ましさを感じさせて好感を持てた。
一度空気を吸い込み、吐き出す。畳のすっとした草の匂いが鼻腔を満たした。
この『静』に浸された空間は美しく大層素晴らしいのだろうが、どうにも居心地が悪かった。
早く戻ってこないだろうか。文字通り留守番をする子供のように、僕は口を引き結んで俯いた。



足音がして、僕は顔を上げた。
襖が再びするりと開くと、普段の仕事着とは異なる少しくすんだ松葉色の着物を身に着けた大王が現れた。
目を見張って口を開けて見上げていると、大王が訝しげな視線を落とす。

「どうかした?」
僕は慌てて首を横に振った。取り繕うように言葉を発する。

「まさか、そこまで気合入れてくると思わなかったんで」
「何をおっしゃる。仕事着で茶室に入れないよ」
「僕思いっきり仕事着ですが」
「仕方ないよ、初心者だし。あ、じゃあ今度仕立てに行こうか」
「いいですってば」
何色がいいかね、と一人でうきうきと思考を巡らせている大王の全身を、僕は依然まじまじと見上げている。
くすんだ緑色の着物は下手に身に着ければ年寄りくさくなってしまうものなのに、この人が着ると見た目の若さを保ったまま落ち着きを纏っているように見える。
凝った意匠はないが、細身でするりと上から下に流れるようで優雅で、かえってその素朴さが本人の魅力を引き立てる。
何よりこの人の体によく合っていた。おそらく贔屓の呉服屋に一から採寸させて特上のものを作らせたのであろう。

僕ははっと我に返った。人の体をじろじろ見て褒めちぎっている自分を気色悪く感じ、露骨に顔をそらしてしまった。
それを目ざとく見つけた大王がにぃと笑う。

「似合う?」
口の端が引きつった。ぎこちない動きで首を動かしちらりと大王を見上げると、不本意そうな声で「はい」と言ってしまった。大王が吹き出した。
「何なんですかちょっと」
どんどん不機嫌になる僕の前で、大王は喉を鳴らして可笑しそうに笑っている。
「いや、悪かったよ。そんな素直に『はい』と言われるとは思わなくて」
笑いを収めて茶道具を出そうと戸棚に手を伸ばした大王に、僕は苛立ちを抑えてさっき抱いた疑問を投げかけた。

「あの、この掛け軸、何て書いてあるんですか」
床の間の掛け軸に顔を向けると、大王が「ああこれ?」と言って答えた。
「月落不離天(月落ちて天を離れず)。これは『水流元入海(水流れて元海に入り)』という句の続きでね。水はいつか海に戻るが、蒸発して雨となり、再び地に戻る。月は東より上り西に沈むが、落ちてなくなるわけではなく常に中天にかかっている。水も月も形を変えるだけで、本質は決して変わらない」
詩の朗読でもしているかのように、澱みなく彼は説いた。
「本来は『誰にでも仏性がありますよ』っていうたとえの句なんだけど、俺はその辺あんまり考えないで書いちゃったな」
「これ、大王が?」
軽く頷かれ、僕はため息をついた。
「書道まで……本当に何でもやるんですね。そんなに退屈でしたか」
「……君それ褒め言葉になってないよ」
何とでも言え、僕は内心の動揺を抑えながら胸の内で呟いた。大王が書いたものだと知った途端に、さっきまで価値がさっぱりわからなかったその 掛け軸が突然高貴さを放ち始めた気がして、自分の現金さに僕は酷く動揺しているのであった。

「そんなに肩に力入れなくていいよ。せっかくいいお菓子と抹茶頂いたんだし、ちょっと格好つけて食べた方が美味しいと思っただけだから。 作法はやりながら教えてあげるよ。叩き込むのはまた今度ね」
「だから、僕はいいですって」
「ダメ。さぁまずは正座だ」
正座にも型があるのかと僕は眉根を寄せて首を傾げた。何も考えず普通に膝を折って座っていたが、そういえばそろそろ足が痺れてきた。
普段立ち仕事ばかりの僕の足は慣れない体勢に早くも悲鳴を上げ始めている。大王が僕の隣に来て指導を始めた。

「ちょっと膝寄せすぎかな、もう少し開き気味で大丈夫。手は重ねて、そう」
言われるままに順々に直していく。子ども扱いしているような口調が気になり、なんとなく面白くなかった。
「で、背筋は伸ばす」
「ひっ!」
緩んでいた背骨を撫で上げられ、反射的にひっくり返った声を上げてしまった。それを見た大王がいたずらっ子のような目をして笑う。
「失敬、くすぐったがりなの忘れてた。さすが全身性感た」
「刺すぞ」
射抜くような鋭い睨みを見舞うと、大王は苦笑しながら黙った。次に僕のかかとからつま先にかけてに目を落とし、しゃがんだ。
「あー、そんな上から座ったら持たないよ。もっとかかと広げてその間に腰乗せてごらん」
「……こうです、か?」
出来ているんだか出来ていないんだがよくわからないままかかとをにじり寄せると、大王は軽く頷いて見せた。
そのまますっと立ち上がるかと思いきや、大王はしゃがんだ体勢のまま右足を少し前に出し、姿勢を保ったまま、反動もつけず流れるように真っ直ぐ立ち上がった。
立ち上がるというたったそれだけの一瞬の動作なのに、凛とした、という表現が相応しい。
この時点から立ち居振る舞いは『茶道』なのだと僕は思い知らされる。
依然と姿勢を保ちながら、畳の上を一歩一歩進んでいく。僕の向かいに再び座ると、一度僕を真っ直ぐに見据えた。
張り詰めた弦のように伸びた背筋。静かな瞳。広い肩。動揺した自分の表情が情けなく崩れるのがわかった。
普段のだらしのなさが欠片も見つからず、僕の知らない『閻魔大王』を見た気がして落ち着かなかった。
大王は僕のそんな素振りも気にせずようやく口を開く。

「俺に続いて」

静かにそう言うと、両手を膝の前に下ろし、上体を前に落とした。もちろん姿勢は元のまま。
十分堅苦しいじゃないかと文句を垂れる前に、その厳かで神聖さすら感じる所作に目を奪われた。我に返って慌てて僕もそれに倣う。
駄目だ、普段の彼と一向に結びつかない。
僕は目の前の『閻魔大王』の存在に密かに動揺し、混乱していた。
一呼吸置いてから、大王が上体をゆっくりと起こした。それに気づいて僕も顔を上げる。大王の緩い笑みがそこにあった。

「始まりの合図だからね、ちょっと堅めに」
何と返したらいいかわからず、僕は視線を僅かにずらす。改まってお辞儀なんかされてしまっては、調子が狂って仕方がない。
それ以前に、相手は自分の上司であり主である人物である。茶など点てさせてよいものなのだろうか。
僕が彼と気安い関係でいられるのは、ひとえに大王の意向である。


ああ僕はこの人に生かされているのだ


僕は頭を抱えそうになった。 何でこんなときにこんなことを考えているんだろう。それこそ失礼甚だしい。
僕は全神経を集中させるべく、背筋を再度伸ばした。
ふと前を見ると、膝の前に先ほどの和菓子が盛られた菓子器が置かれていた。本当に白菊が咲き誇っているような見事な白に、僕はしばし見惚れた。
続いて取り箸と菓子楊枝と懐紙を勧められる。

「……先に食べてしまうんですか?」
「そ。お茶はその後。それで取って、懐紙の上に乗せてね」
僕の前にあるのと同じものが大王の脇にもあるが、一緒に食べる様子はない。戸棚から出した茶器の準備をしている。
「え、僕だけですか?」
不思議に思って再度問うと大王が頷く。
「客が主菓子を食べている間に亭主は茶を点てるんだよ」
へぇ、という納得したのかしていないのかよくわからない声を上げて、僕は言われた通り、取り箸で饅頭を一つ取り、恐る恐る懐紙の上に乗せた。
この一連の動作にも何か作法があったのだろうか。大王は何も言わないが僕は気が気でしょうがない。
正直、こういったような作法作法でがちがちとしたものは苦手なのである。鬼とは元来そういうものなのだから、咎められてもどうしようもない。

いちいち行動一つ一つに悩んでいても仕方ないので、覚悟を決めて楊枝を饅頭に差し入れて二つに割った。
中からきめ細やかな漉し餡がのぞく。努めて丁寧にそれを口に運ぶと、なるほど、安物には決して出せない上品で高貴な味わいが口内に広がった。
強すぎない、程よい甘さと、舌の上を滑って溶けていくような餡の滑らかな触感が心地いい。
一口食べただけで「もう一度味わいたい」と思えるような味だった。

ふと顔を上げて茶道具を用意する大王を眺めた。
柄杓で釜から湯を汲み、道具を一つ一つ清めている。柄杓の置き方一つ取っても、ゆっくりと順序立てた動きを見せる。
釜の口に斜めに立てられた柄杓、恐らく決められた配置を持っているのであろう清められた道具達。息を持たぬそれらの佇まいは芸術にすら見えた。
大王は一度居住まいを正すと、先ほどの茶筒を開け、茶杓で二杓ほどすくって茶碗に入れた。
一連の動作を終えると、それらを元の位置に寸分も違えず置いた。再度釜から湯を汲み茶碗の中に静かに注ぎ入れ、左手を茶碗に添えて茶筅を小刻みに揺すり、茶を点て始めた。
ようやくそれが終わると、左手に茶碗を乗せて時計回りに二度回した後、正面をこちらに向け、僕の前の畳に置いた。
伏せられていた大王の目が不意に僕を見つめてきて薄く笑った。

「面倒くさそう、って顔してる」
図星をつかれて僕は口を結んだ。先ほどの厳粛な空気を解すかのように、大王はにこやかに笑って見せた。
「いらいらする?」
「……そこまで短気じゃありません」
いらつきはしないが、まどろっこしいとは思う。いちいち動きがスローなのだ。儀式めいた所作が多いのも気になる。
どんな必要性があって決められた作法なのかわからず、大王の動作一つ一つを見ながら僕はどうにも腑に落ちない思いを胸にくすぶらせていた。
という感想を一言で言い当てられ、僕はなんとも言えない気持ちになった。一度もこっちの表情など伺わなかったくせに。


「何故、一見無駄としか思えない厳しい作法をするのかわかる?」

唐突に問われ、僕は弾かれたように顔を上げた。きょとんとして答えられずにいると、大王は僕から目線を外し、虚空を見た。
「生活の中に非現実空間を作り出すためだよ」
僕は目をしばたたかせた。思わず繰り返す。
「非、現実……?」
「茶道が大成された当時、美は非現実の中に存在するものだった。この四畳半という狭い空間の中では、現実の秩序や掟を持ち込むことは許されない。 彼らは徹底的な非現実世界の中に美を見出すことによって、現実の世界を律していた」

彼の視線は茶室の壁を越え、本当にどこか遠くを見ていた。
かつて彼によって裁かれた茶聖の面影を思い出しているかのような、そんな表情で。


しばしの沈黙の中、僕は自分の浅はかな考えを恥じていたが、大王が悟りきったような表情を解いて口の端を緩めた。
「なんてね。ここには現実も非現実も、あってないようなもんなんだけどさ」
そう言って大王はもう一つの茶碗に手を伸ばした。先程と同じ手順でもう一つをこしらえていく。
何もかもが全くさっきまでの再現だったが、僕の目には少しずつ違う光景が見え始めていた。
再びしんとした茶室の中で、茶筅が椀の中で湯と抹茶を混ぜる小気味の良い音だけが響き渡る。水音と竹の擦れ合う音が趣き深い。
そして抹茶特有の、渋みと爽やかさを感じさせる豊かな香り。
不思議と嬉しさがこみ上げた。五感できちんと感じ取っていることが、点前に集中できている何よりの証拠だから。

そして視線を少しだけ上げ、大王の全身を目に映す。
一点の乱れもない整った背筋。無駄を削ぎ落とし、洗練された手捌き。少し伏せられた静かな瞳。あらゆる知識と経験を含んでいる脳。
障子越しに畳に光を落とす午後の緩やかな日差しが、彼の白い頬を照らしている。
まるで僕などこの場にいないかのように、ただ目の前の茶を点てることに意識を注いでいる。
そうしてここは非現実空間に塗り替えられていくのだ。

僕は目を閉じたかった。
しかし目がそれを許してくれない。
取りこぼしたくない、焼き付けたい、と騒いでいるかのようだ。



ああ 僕は好きだ

この人の作る世界ごと 好きだ






「いただこう」

大王の声で引き戻され、僕は我に返った。そして、口の中に残っているはずの白菊の味がもう思い出せなくなっていることに気づいた。
「茶碗を膝の前に置いて、一礼して」
「は、はい」
僕は少しだけ慌てて、言われたとおりにし、手を前に揃えて軽く上体を落とした。頭上で大王がくすりと笑う。
「お辞儀の仕方も仕込まないといけないな。ぎこちない」
「……すみませんね」
危うく子供っぽく口を尖らせそうになるのを抑え込み、僕は顔を上げた。大王が茶碗を左手のひらに乗せたので、僕もそれに倣う。
「時計回りに、二度回す」
呟きのような声を聞き取り、手のひらの重みを噛み締めながらゆっくりとそれを回した。
それを見届けた後、大王が椀を口に運んだので、僕も続いて椀の縁に口をつけ、緩く傾けた。
滑らかな舌触りと共に抹茶が口内を満たす。想像していたような強い苦味はない。ほろ苦く、存外あっさりとした爽やかな口当たりだった。
しかし正直なところ、どんな味なのか何故かわからない。たった今味わっているというのに。
そしてこの妙な居心地の悪さは何なのだろう。ここに入ってすぐの、大王の帰りを待っていた時の所在無さとは明らかに違う。
茶碗から唇を離した大王は、ふうと息を一つついた。

「今回は君が混乱しないように手順入れ替えたり省いたりしたけど、次からみっちり教え込むから頑張って覚えてね」
「……無理ですよ。そんな暇も気力もありません」
「何言ってんの、俺の秘書なんだからこれくらい出来てもらわなきゃ。……まぁ、単純にお茶の相手が欲しいってのもあるけどさ。 皆忙しいし、俺が点てるって言うと皆恐縮して逃げちゃうから」
「当たり前ですよ。大体僕だって十分忙しいんですけど」
「君の場合、俺がどうとでも出来るじゃない」
どうとでもしたら仕事が滞るだろ、という反論を飲み込み、僕は肩を落とした。

「ところで」

言い直した大王の声がいやに頭に響く。手の中の茶碗に目を落としたまま大王は呟くように言った。僕は嫌な予感がして大王から目をそらす。


「顔が赤いけど大丈夫?赤鬼になりそうだよ」
「なりません」





参考:
入江宗敬「はじめての茶の湯」
主婦の友社「茶の湯はじめて便利帳」
高階秀爾「日本近代の美意識」より「彼岸の美」
Supecial Thanks:ユメジさん


お誕生日祝いとして蔵鳥さんに捧げたもの
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