たくさんのしがらみの内の一つ


仕事が終わって夜も更けてから、鬼男は閻魔の私室に連れ込まれ、もとい、遊びに来ていた。少しの酒と、貰いものの珍しい肴を楽しみながら、床にラフに座り込んで二人は穏やかに笑い合う。
この二人の仲は、案外良い。


「一度試してみたいことがあるんだ」

不意に閻魔がそう言った。鬼男は胡散臭そうに横目で見返す。
「どうせろくでもないことでしょう」
「そんなことないよ」
鬼男の呆れた声も大して聞こえていないらしく、閻魔は立ち上がって、床に置き捨てられている自身のトランクに手をかけた。取り出したのは、目に眩しい蛍光ピンクのコンパクト。鬼男はどうでもよさそうな目でそれを見た。
「ああ、今度こそライオンになるんですか」
ぞんざいな物言いをすると、閻魔が首をひねって小さく唸る。
「それも捨て難いけど、違うよ」
ぱかんと小気味のいい音を立てて開くと、それをずい、と鬼男の方へ突き出した。不意を突かれた鬼男がきょとんとしてそれを見る。そしてちらりと閻魔を見やると、憎ったらしい満面の笑みを浮かべた顔と目が合った。同時に鬼男の顔が青ざめる。構わず閻魔が楽しげに呪文を唱えた。

「結膜マヤコン、結膜マヤコン、鬼男君が女の子になあれ」

絶叫する間もなく、鬼男の周囲が濃い煙で埋め尽くされた。大きく咳き込むと、体が熱くなってきて、輪郭がぼやけ始める。何が何だかわからなくなっているうちに、頭がぼうっとして数秒間意識が飛んだ。
煙が晴れてきた。恐る恐る目を開けると、三白眼をさらに見開いて、間抜けに口を開けた閻魔の姿があった。ぼうっとする頭をどうにかして現実に引き戻すと、鬼男は慌てて自分の体を見た。そして大して見ないうちに目を覆う。しかし目にはしっかり焼きついてしまった。 それに、目を覆っていたって体の感覚はどうしようもない。明らかに服は大きすぎて体に合わなくなっているし、何やら胸の辺りにいつもならない重みもある。目を覆う手だって、細いわ小さいわで嫌でも変化を思い知らされた。

「すごいなこれ。他人にも使えるんだ」
感心している閻魔に向かって、鬼男はすかさず腕を伸ばして爪を顔面に突き刺した。衝撃で閻魔の上体が後ろに倒れ、後頭部が床に激突する音がした。鬼男は依然目を覆ったまま低く唸るように言った。
「ここまで変態だと思わなかった。今すぐ元に戻せ」
低く、と言っても出てきた声は女のそれだった。艶のあるアルトで美しいのに、地鳴りのように閻魔を呪うので台無しである。閻魔が上体を起こし、微笑しながら立ち上がり、うずくまる鬼男に近づいた。
「どうして」
「いや、どうしても何もないだろ。それともあれか、やっぱり抱くなら女の体がいいって言うんですか」
「君の望みを叶えたのに」

「はあ?」
閻魔の言葉の意味がわからず、鬼男は覆っていた手を下ろして責めるように問い返した。服の肩口が合わず鎖骨が露わになり、立っている閻魔の位置から彼、いや彼女の胸の谷間が見えてしまう。それを見て、閻魔が弱く笑った。
「だって、ずっとその体が欲しかったんでしょう?」
鬼男は閻魔の言葉を噛みしめ、必死に頭で処理をしようとしたが、やはり全く意図が分からない。異常に酒に強いこの男は、あんな少量のアルコールでは酔わない。よってさっきのも今の発言も、素面だ。鬼男は頭を抱えそうになった。
「意味不明です。はっきり言ってください」
「『この体が女だったなら、何の苦悩もなくあの人を愛せるのに』」

鬼男の顔が蒼白になった。しかしすぐに奥歯をぎりりと噛みしめて、本場の鬼の形相で閻魔を睨み上げる。
「盗み聞きかよ」
「内緒話はもっと隠れてしなきゃ」
閻魔がいたずらっぽく笑って人差し指を唇に持っていくと、鬼男の怒りはさらに煽られた。爪で刺す気にもなれないらしい。さして悪びれもせず、閻魔は続けた。
「ちゃんと理解のある友人がいるんだね。良いことだ」
「それ以上言うなよ。もう少しで完全に愛想を尽かしそうだ」
女の顔になっても、凄みは寸分も落ちていない。憤怒で歪んだ表情を隠そうともせず、その視線は依然として閻魔を射抜いたままだ。閻魔はそこに若干の憐みを含んだ視線を落とし、一つ息をついて、独り言を言うように尋ねた。

「死後の世界であるこの冥界で、男だの女だのっていうのはそんなに重要かい?」

鬼男は唇を噛んで俯いた。落ちそうな肩口を押さえる手は微かに震えている。何もかもを拒絶するように膝を深く折っている、その足の華奢さは残酷にすら見えた。閻魔はその様を見て柔らかく笑む。
「俺は、君と出会ったのがここでよかったと思っている」
鬼男は黙ったままだった。少し間を置いてから、閻魔が言葉を繋ぐ。
「生殖活動もいらないし、くだらない教えや慣習に従う必要もない」
項垂れたままの鬼男の金色のつむじをくすぐる。鬼男がわずかに身じろぎした。
「だから、そんな悲しい顔しないで」
鬼男は唇を食いちぎりそうになり、やめた。のろのろと顔を上げて閻魔を見上げる。
骨を溶かすほどの優しい声に、全てを許すその顔はずるい。鬼男は眩しそうに閻魔を見ていた。閻魔は少し乱れてしまった自身の着物の合わせを正し、腰をかがめてゆっくりと手を差し伸べた。

「月並みな言葉だけれど、ありのままの貴方が、私は好きだ」

鬼男は頬に集中する熱を止められなかった。数秒呆然としていたが、すぐに不機嫌そうに眉を寄せて、しかし伸びてきた手はしっかり取って立ち上がった。
「やめてください、『貴方』だなんて」
拗ねたような声を聞き、閻魔がにこりと笑う。
「だって今は女の人だから、それ相応に扱わないと」
「……やっぱりちょっと楽しんでるだろ」
「少し」
鬼男はその発言を聞くと、握っている閻魔の手を無言でねじり上げた。閻魔は悲鳴を上げながらも笑っていた。そこに小さな悲しみを忍ばせながら。



俺が男でも女でもない、『得体の知れないもの』だったら、君は一体どうするの




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