海のきれいな日に


曽良君が笑いました。


芭蕉さんはとても驚いて、しばらく何が起きたのかわかりませんでした。
しかし二つの目はきちんと曽良君を見ていました。

芭蕉さんは懐に手を突っ込み、紙と筆を取り出しました。しかし、まるで手が動きません。
曽良君は動かない芭蕉さんを不思議そうに見て言いました。

「何か良い句が浮かんだんですか」
「いいや」

芭蕉さんは困った顔でそう言います。そしてそのまま部屋にこもってしまいました。
曽良君はぽかんとして立ち尽くしていました。



夜になっても、芭蕉さんは部屋から出てきません。
曽良君は見よう見まねの肉じゃがを作って部屋へ持って行きました。
芭蕉さんは胡坐をかいて机に向かっています。
机の上に肉じゃがを置いても、返事はありません。それどころか曽良君を見もしません。白く細長い紙と筆を睨んだまま。
器から立ち上る肉じゃがの白い湯気だけが気ままに息をしています。
曽良君は黙って部屋を出て行きました。



朝になっても、芭蕉さんはそのままでした。
曽良君は一人でした。
散歩に行き、本を読み、気まぐれに句を詠みました。けれど、丸めて捨ててしまいました。
風がぴゅうと吹きます。木々はざわざわ言います。
曽良君はひとりぼっちでした。



また夜が来ました。
芭蕉さんはまだ出てきません。
目を閉じて、耳をようく澄ませましたが、部屋の中からは物音ひとつ聞こえてきません。
目を開けて、障子を見ました。仄かな明かりと、芭蕉さんの背中の影が見えます。少しも動きません。
曽良君は唇をそっと噛んで俯きました。どうしてだかわからないけれど、何かが怖くて、胸の内側がどきどきと乱れています。
曽良君は芭蕉さんのいる部屋の戸の横に腰かけ、眠りました。
虫の声だけが聞こえる、静かな夜でした。



太陽が昇ったばかりのころ、芭蕉さんはようやく部屋から出てきました。
曽良君が眠りこんでいるのを見ると、自分の羽織をその肩に掛けました。

「君の笑った顔を、詠もうとしたんだ」

起きている時よりも幾分幼く見えるその寝顔を見ながら、芭蕉さんはちょっと寂しそうに微笑みました。

「でもね、どうしてもいいのが思いつかなかったよ」

芭蕉さんの、細くてちょっと頼りない肩が落ちます。けれど顔は穏やかに笑っていました。

「残念だけど、仕方ない」

『笑っている曽良君』は、詠むことのできないものでした。
それはとても瞬間的で、流動的で、衝撃的で、囲っておけないものなのだと。
芭蕉さんは二晩かけてそのことに気づき、それでいいと思えるようになったのです。

芭蕉さんは目を細めて、曽良君の黒い髪をそっと撫でました。毛先まで慈しむような、そんな手でした。


「だから、どうかまた笑ってね。きっとだよ」



そこでは波の寄せては返す音が、微かに聞こえます。


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