僕だけの歌姫


歌声が聞こえる。


執務室にて一人仕事を片付けていた鬼男は、天井の向こうから聞こえてくる微かな歌声に気づいて顔を上げた。
澄んでいて芯のある、女の高い声。
彼女は一月に一度ほどの頻度でここに歌いに来る。
どこの誰だか知れない。そもそもどこで歌っているのかすらわからない。閻魔庁の構造は極めて難解なのである。
よって、彼女の姿を見た者は誰一人としていない。
勿論鬼男は閻魔に尋ねた。しかし閻魔は悪戯っぽく笑って「俺の秘蔵っ子」としか答えなかった。

神秘性があるものはとかく持て囃されるものである。
冥界中に響き渡るその歌声に、老若男女問わず多くの者が焦がれた。
姿形はわからない。しかし確かに聞こえてくる、心を洗うかのような奇跡の歌声。それを聞いた者は皆足を止め、手を休め、うっとりと耳を傾ける。
鬼男もその例に漏れず、手を動かすのをやめた。

別に熱狂的な信者というわけでは全くないのだが、以前一度だけ閻魔庁の中を探したことがあった。 仕事が滞るという理由から、閻魔庁職員はこの『歌姫』の捜索が一切禁止されているのだが、仕事を放り出してどこかへ行ってしまった閻魔の捕獲のついでで、出来心だった。
しかし、いくら声のする方に進んでも一向に近づくことが出来なかった。
閻魔が閻魔庁内の時空を操っているのは周知の事実である。よって歌姫のいる部屋を隠しているのではないか、という疑惑が以前から職員の間に流れている。
隠されているとわかり始めると、噂はどんどん肥大化する。歌姫は絶世の美女で大王の妾なのだとか、実は大王の隠し子だとか。今のところ前者が有力だ。
ここまで話が膨らんだのは、歌姫が現れると必ず閻魔が姿を消すせいだ。そうなれば秘密裏に二人で会っていると考えるのは当然である。

単純に謎めいているからという理由もあるが、鬼男は妾という単語をどうしても聞き流すことが出来なかった。
一般的なそれとは性質は違えど、彼は王である。本来なら妾が何十人単位でいてもおかしくない身分だ。
しかし、彼が女を侍らせているところを誰も見たことがない。「俺菩薩だから基本的に色欲ないんだよね」などと言っていたが、本当のところは定かではない。

ただの秘書に過ぎない鬼男が閻魔の女性問題について口を出す権利は少しもないが、妾がいるのなら自分は彼にとって何なのだろうという疑念は消えない。 やきもちとも言えるが、そう単純なものでもない、と主張したい気もあった。
そういうわけで、鬼男はその噂を複雑な思いで受け止めていた。

今回は深夜だが、うるさいと迷惑がる者は誰もいない。眠る者には安眠を、起きている者には癒しを送る彼女の歌を、誰もが待ち望んでいたのだ。
ふと窓の方へ顔を向けると、自分の二つの紅い瞳が映りこんでいるのが見えた。
それは自分の血なのだと、かつて閻魔は鬼男に告げた。それを不意に思い出した鬼男は、目頭から目尻にかけてを指でなぞる。

『俺と君は血で繋がっている』

ならば、今こうしている間も?

鬼男はおもむろに席を立ち、やりかけの書類を置いて執務室を出た。廊下はしんと静まり返っており、誰もいない。
鬼男は深呼吸をすると、目を閉じ、体中の意識を全て目に集中させた。自身の血液と瞳の中の血に熱を発生させるようなイメージを作る。
じわりと熱を持ち始めた瞳の中の血を感じ、鬼男は右へ進んだ。
確信があるわけではない。微かな血の気配を頼りにさ迷い歩くしかないのだから。
でも何となく、たどり着いた先にいるような気が、鬼男にはしていた。
にもかかわらず今まで実行してこなかったのは、隠しているということは、見られるのが嫌だからだと思っていたからである。 気になりはするが、秘密を知ることで閻魔が嫌な思いをすることの方が耐え難かった。

夜のひやりとした空気の中、冴え渡る神経。何故だか今なら会える気がした。
歌姫が見たいから、秘密が寂しいから、そしてほんの少しの焼きもち。今はそんなものなどどうでもよく、ただ自分の血を試してみたかった。
彼と自分の間の磁力を。


導かれるままに廊下を曲がっていったせいで、自分がどの道を通ってきたのかわからなくなった。
帰るときは案内をさせよう。鬼男は一人頷いて立ち止まり、目の前の扉を見上げた。
肌の周りにまとわり付く空気が時々うねっている。これがもし時空の疼きだとすると、あながち見当外れでもないということになる。 歌声は依然遠くで鳴っているように聞こえるが、それくらいの処理はおそらくどこにでもしているはずだ。
一度自分の足元に目線を落として目を閉じた後、顔を上げて両手で扉を押し開けた。
思ったより重い。重心を前に持ってきて幾分強引に入ると、少し灰色がかった白い大理石で造られた美しい一室がそこにあった。 家具はあまり無い。 たくさんの植物、それも葉が緑、青、赤、紫、と絵の具をこぼしたように様々な色で瑞々しく彩られているものが壁際に乱立している。 しかし決して熱帯林の極彩色を髣髴とさせる色彩ではなく、不思議と夜にもなじんでいた。よく見るとそれらは床から直接根を張っている。
さすが閻魔大王の隠し部屋、めちゃくちゃである。しかし文句なしに美しい。鬼男は嘆息して正面を見た。
奥は広いバルコニーになっている。もともと快適に過ごすための部屋ではないようなので、バルコニーと部屋とを仕切るものは何も無い。

その先に、人影があった。
黒く少しうねりのある長い髪が緩い風に吹かれている。藍色のたっぷりした、足を全て覆い隠す長さの着物を纏い、手すりに細く白い手を乗せ、 軽く身を乗り出すようにして宵闇に向かって歌っていた。
先程まで遠くで聞こえていた歌声がいきなりクリアになったのだ、疑いようが無い。女の細い後姿を目の前にし、鬼男の心臓がずく、と熱くなった。
歌の言葉は聞いたことの無いものだった。しかし、時々掠れたり篭ったり鼻に抜けたりという不思議な発音が耳に心地よい。 きっと救いの詩なのだろう。
きちんと呼吸の乗った芯のある声。歌声自体の存在感はすさまじいものなのに、何故か華奢な印象を受ける音色は人の胸に静かに染み込んでいくようだった。 喉や口先でなく、全身から発生する声が頭のてっぺんから放射線状に眼下へと降り注いでいっているように見える。
決して大声を張り上げているわけではないのに、周囲の空気が一斉に微弱に振動して広範囲に響き渡っているかのようによく聞こえてくる。 冥界中に聞こえているという事実も、どこまでが術による拡大なのかわからなくなってきた。
視界にきちんと大理石は見えているのに、深い森の中か、はたまた湖のほとりか、自分がどこか別の場所にいるような気さえしてくる。
楽器の伴奏もなく、複数の声の重なりも無く、たった一人の歌声だけでここまで人を魅了する音楽があったということを、鬼男は知らなかった。

歌姫の間近の肉声に衝撃を受けたことで、上司のことをすっかり失念していたことに鬼男は気づいた。そう、当の上司の姿が見当たらないのである。
まさかどこかに隠れているのではないか。隠れられそうな場所はなさそうだが、あの男にそんなものが必要あるわけが無い。
歌に気を取られながらも一応きょろきょろと左右を見回していると、女の一際高い声が天に伸び、霧散していくように小さくなっていった。一区切りついたらしい。
鬼男は弾かれたように正面を見た。背を見せていた女がゆっくりと体を中へと向け、上品な、かつ艶やかな微笑を浮かべて鬼男を見つめてきた。

「悪い子」

高音で奏でていたわりに、地の声は落ち着いたメゾソプラノだった。 竪琴を爪弾いたかのように華奢な、しかし確かに空気を震わせている声が、赤い唇からこぼれる。聴いた瞬間、鬼男の耳は歓喜した。
長い睫の下にある瞳はアメジスト。高貴さを匂わす紫を見ていると吸い込まれそうになる。
「大王様に叱られてしまうわ」
からかうように言われたが、鬼男は注意深く歩を進めた。
おかしい、血の気配はあるのに。どんな術で隠れているというのだろうか。しかしそれにしたってこの歌姫一人を残していくのは妙だ。
頭の中を必死に活動させつつも、表情には冷静さを浮かべる。
「その大王はどこです」
「さあ。私が歌っている間にどこかへ行ってしまったようね」
小首を傾げて嘯く女を、鬼男は見下ろす。表情の上手く読み取れない不思議な微笑を浮かべた、極めて造りの美しいその顔を見つめながら、 今は見えない閻魔の顔と重ねていた。
「本当はここに来てはいけないけれど、大王様がいない今なら、きっと大丈夫」
女は緩やかに目を細めて笑って見せた。夜の濃い闇の中の白い微笑みはまるで月下美人のようである。
「あなたのために、一曲だけ歌うわ。だからここで私を見たことは、秘密にしてほしいの」
言葉を区切って朗読するようにゆっくりと滑らかに紡がれる歌姫の言葉に、疑念に満ちていた鬼男の胸は揺り動かされる。細い指が鬼男の手を取り、 手すりの傍まで導く。女は鬼男の手を握ったまま、何にしようかと悩んでいる。
その間に、鬼男の頭に唐突にある考えが浮かんだ。
不意に鬼男に指を握り返され、女は後ろを振り返った。

「大王」

見上げた先の唇がこぼした言葉に、女は目を丸くした。
「大王なんでしょう?」
女は答えない。開きそうになっている唇がどうにか繋がっている。鬼男は尚も続けた。
「歌姫とは、貴方のことだったんですね」
女は一度鬼男から目をそらして俯くと、釈然としない顔で再度鬼男を見上げた。
「どうして?」
「手を握ったときに、血が反応したので」
そう言われ、女は握っていた指を解き、その指先をまじまじと見つめる。そして困ったように笑って見つめ返した。
「この契約、そんなに強力だったとはね。ここがばれちゃったのもそのせいか」
鬼男はようやく安堵して息をつき、少し呆れた顔をして見せた。
「歌姫が現れるとあなたも一緒に消えるのは、こういうわけだったんですね」
「さぼってるみたいに言わないでちょうだいよ、れっきとした仕事なんだから」
正体を見破られても、閻魔はしとやかな言葉遣いをやめない。鬼男が疑念に眉を寄せる。
「仕事?」
「定期的に鎮魂歌を歌って死者の魂を鎮めているの。そうすることで、冥界の調和が保たれるのよ。そしてそれは閻魔大王の声でなければならない」
そんなことは初耳だった。自分より長くここにいる者でさえ誰も知らなかったと言うのに。
「そんなこと誰も」
「当たり前よ、誰にも言ってないもの。閻魔様のトップシークレット」
ふふふ、といたずらっ子のように笑って人差し指を立てている。
「閻魔大王としてありがたがられたって大して面白くないわ。どうせ暇なんだもの、うんと綺麗な歌姫に変身して演じる方が楽しいに決まってる。それに、男の歌声より、繊細で高い女の声の方が鎮魂歌には合うじゃない」
ね?と同意を求められ、鬼男は肩をすくめた。そんなことのために色んな噂に振り回されていた自分が、途端に阿呆らしく思えてきた。 気を揉んでいた対象二人が同一人物だったなんて、滑稽な落ちである。しかもかき乱した当の本人は乗りに乗ってこの状況を楽しんでいる。 とても損をした気になってしまった鬼男だった。

「終わったんならもう戻りましょう、仕事がまだ残ってるんですから。僕もやりかけで来ちゃいましたし」
「秘密の歌姫に会えたっていうのに感動がないのね」
閻魔がつまらなさそうに形のいい唇を尖らせる。
「だって中身があなただって知った以上……ねぇ」
「どういう意味かしらそれ」
「そのままの意味ですよ」
ますます不服顔になった美女は、再度鬼男の手をとってずい、と近づいた。
「今の私は冥界の歌姫よ、そういう扱いをして欲しいわ。それにさっき言ったこと、本気よ」
「さっき?」
思い出せずに問い返すと、細い腕が腰に巻きついてきた。ぎょっとして鬼男がその肩を押し返す。
「その体でそういうことしないでくださいよ!」
「照れてるの?可愛い子」
「ち、調子に乗るな!だからさっき言ったことって何なんだ!」
「鬼男君のために歌うって話」
おっかなびっくりな抵抗をやめ、鬼男はきょとんとして閻魔を見つめる。
「そうしょっちゅう来られたら他の人に知れてしまうから駄目だけど、たまになら構わないわ。仕事の歌が終わったら、あなただけの歌姫になってあげる」
魂を奪われそうな笑みの中に閻魔大王を見つけ、鬼男の心臓がぞくりと鳴った。しかししばらく逡巡した後、鬼男は静かに首を横に振る。 閻魔が眉を寄せた。
「何?」
「遠慮しておきます」
「どうしてよ」
「……では一つリクエストしていいですか」
「そうこなくちゃ」
「鎮魂歌をもう一度」
閻魔は耳を疑った。わけがわからずぽかんと鬼男を見上げる。
「だって、仕事としてはもう」
「是非」

そう言われてはどうしようもなく、閻魔は渋々腕の拘束を解いてやると、外に体を向けた。鬼男はそのバルコニーから冥界が一望できることに今頃気がついた。
再び歌い始めた歌姫の横顔を見ながら、鬼男はほう、と湿った溜息をついた。
何もかもが細い造りの体、豊かな胸や長い髪、紫の瞳。全てが変わってしまっているが、その中にいるのは確かに閻魔大王なのである。


ただ見てみたかったのだ。
彼が、自らの裁いた魂を自らの歌声で鎮め、癒し、救う姿を。
誰も知らない、その秘め事を。
どうしても、今ここで目に焼き付けたかった。

鎮魂の言霊は鈴のような音色に乗せられ、月光のように大地に降り注ぎ、染み渡っていく。
その夜、秘められた美しい歌姫は、たった一人の男のために、その世界の全てを癒していった。



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