空が軋む音が聞こえて、少年はぎくりと心臓を震わせ頭上を仰いだ。
秋の高い空。白い雲の散乱するその澄んだ青さに眩暈がしそうになる。しかし、いたってそこは平和であった。
けれど確かに感じた。自分の体がぐらついたのではない。錯覚などではない。間違いなく「空」が軋んだ。
十七年間という短い生の中、彼は不可思議なことなら数え切れないほど経験した。だがこんなことは初めてだった。
納得のいかない顔のまま、少年は視線を足元に戻してアスファルトを再び歩き出す。





降り立った先は、久方ぶりに見る薄青の空だった。眼下には無数のビル、道路、そして人。全てが灰色だった。
「狭そう」
特に興味もなさそうな表情のまま、閻魔は簡単に感想を述べた。そして目を閉じる。彼の赤い瞳が瞼の中に収められ、しかしその中で光を発している。正確には彼の中の血が発光しているとでも言うべきか。

あの時、閻魔は契約をあえて抹消しなかった。
転生するということは無に帰ることと大きく異なる。転生して違うものになってしまったとしても、それがそれである限りこの契りは切れることはない。
しかし、本来なら消さねばならない。閻魔大王という存在を唯一絶対にせんが為である。
何かが閻魔大王と繋がりを持つなど、本来ならちっとも好ましくないことである。それが輪廻に戻った後も続くような強固なものであるなら尚のこと。
しかし閻魔はそうしなかった。
ひょっとすると、こういう形で必要になることを予想していたのかもしれない。
単に忘れていたのかもしれない。面倒だったのかもしれない。
自分の色で染められたあの瞳を失いたくなかったのかもしれない。
それは彼のみぞ知る。

目を閉じた暗闇の中に、しばらくしてから一筋の赤い光が見えた。
それと自分の体を接続するイメージを持つと、ひゅんと音がして体が光に吸い込まれる。
目を開けると、そこはさきほどの場所ではなく大きなスクランブル交差点の上だった。思ったより静かな胸を抱えながら、閻魔はゆっくりと下降していく。
頭上を気にするものは誰一人としていない。それ以前に、誰一人の目にもこの体は映らない。それが酷く滑稽だった。
騒がしい人の声。車のエンジン音、タイヤの擦れる音。立ち並ぶ店から零れるBGM。それらの雑音をかきわけ、彼の人の気配を手繰る。

閻魔の赤い目に、短く切られたくすんだ金髪が映りこんだ。

突然の風がアスファルトから空へと発生した。広範囲にわたるその風に人々の服は髪は乱れ舞い上がる。何の前触れもなしの異変に人々は困惑した。
閻魔はハッと我に返る。感情の乱れがもろに地上に影響してしまったのを目の当たりにして、彼は少しだけ動揺した。共鳴した血が驚いたらしく、肌の下でどくりと疼いてしまったらしい。
眼下の少年は黒い詰襟を着ていて、紺に近い青の、少しよれた学生鞄を肩にかけていた。隣では友達らしき同じ制服の少年が楽しそうに話しかけている。
かつては見慣れていた丸い後頭部を見下ろしながら、閻魔はその頭にあの二本の角がないことに予想外の違和感を覚えた。
あのあるんだかないんだかよくわからない、申し訳程度の長さの角。そんなものがないだけで、この少年をひどく「人間」に見せた。
しかし、大勢のその他諸々の人間が集まっている中、閻魔の目には彼の姿だけ鮮やかな色を放っている。そこだけクローズアップして写真を撮ったかのように。
涙が滲まないことなどわかっていたが、笑顔すら湧き上がってこない自分の体が疑問だった。少しくらい再会に胸を躍らせてもいいのに、依然胸は静けさを保ったまま。
彼の姿を目に捉えただけで、全てを満足してしまったような気がする。そんな自分が可笑しくて、閻魔は初めて笑った。
しかしやはりそれだけで済ますつもりはなく、本当なら彼が言葉を発するのを待つつもりだったのに、気がつくと閻魔はその懐かしい名を口にしていた。

『鬼男君』

よく舌に馴染んだその言葉は、隠し切れない愛しさをふっくらと含んで下へ落ちていった。
決して届かない。誰も振り向きはしない。彼の人はもうどこにもいやしない。ちょっと面倒くさそうな顔をして「何ですか」という声はもう二度と聞けない。
そう頭では理解していても、足元の彼にその名を投げかけずにはいられなかった。否、最早それは独り言だった。

少年は弾かれたように頭上を振り返った。

閻魔は思わず目を見開いた。
当てずっぽうに振り返ったわけではない。少年の目はまっすぐに閻魔を射抜いていた。
閻魔は嗚呼と声を零しそうになった。寸分も変わらない褐色の肌。かつてより幾分幼い顔立ち。実際本当に当時より若いのだろう。
少しつった意志の強い瞳。それは、一番惜しいことに、もう紅くはなかったが、せめてもの救いのつもりだろうか、優しい薄さの茶色をしていた。
少し短めに切られた前髪からのぞく額がどうしようもなく愛おしくて、閻魔は少年が自分をはっきりと捉えているという今のこの状況を一瞬忘れた。

少年も少年で、動揺していた。
どうしてあんなところに人がいるのか、何故自分を見下ろしているのか、鮮明に聞こえた『オニオクン』とは何なのか、そもそもそれはこの頭上の男が発した言葉なのか。
頭の中でそれらの疑問はぐるぐると渦を巻いていたが、それでも少年は男から目を離せなかった。
それなのに、その男の姿の情報、例えば服装とか、身長とか、顔立ちとか、そういった類の事柄は全く頭に入ってこない。頭の中で男の存在が再構成されない。映像化されない。
知らない。一度だって見たことがない。なのに、
少しも動けない。


「キオ!」

友人の張り上げた声が前方からして、少年は反射的に前を向いた。
「置いてくぞ!」
キオと呼ばれた少年はごめんと言うのも忘れて、自分の半開きの唇にも気づかず、友人のせっかちな背中を追う。
信号はいつの間にか青緑色を発光していて、車が一斉に息を潜め人々が蟻のように蠢いていた。
少年はもう閻魔を振り返らなかった。小走りで遠ざかっていく黒い背中を少しだけ呆然と眺めながら、閻魔は呟いた。

「キオ」

新鮮で瑞々しいその名前は、柄にもなく泣き出したくなるほど美しい響きを抱えていた。
口元に手を持っていき、知らないうちにふ、と穏やかに笑んでいる自分がいた。
「思ったより若かったなぁ」


時計の針は午後四時。
空はまだ、青い。


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