閻魔はいつもと変わらない様子で、坂の始まりにいた。
今が何時だか彼には分らないが、空の暮れ具合を見る限りまだ貴央はここには来ない。
貴央とは昨日から会っていない。あの様子ではまだ寝込んでいるのだろう。
それでも閻魔は習慣を変えずにそこで待っていた。彼が驚異的な回復力を発揮するかもしれないという、冗談とも本気とも取れない予測を立てていたために。

閻魔は起きぬけのようにぼんやりとした目で、眼下のアスファルトを眺めていた。
何故この坂を選んだのか。
何故夕方を選んだのか。
閻魔は楽しげに答えるだろう。
どこに行くにも、彼はこの坂を通るから。待っていれば、必ず会える。
夕方のオレンジは、彼の髪によく映えるから。きらきらして、とても眩しい。
それでも閻魔は口を閉ざす。口にしてしまえば虚しくなることを知っているからだ。

これら二つは、閻魔自身への枷に過ぎない。

会う場所、時間。それらは制限されるべきものなのである。
際限がなくなれば、貴央の運命も際限なく狂わされる。閻魔の血によってすでに歪められている上に、である。
「害はなさそうな、愉快な霊」くらいには好意的に見られている自信は、かろうじてあった。血の影響もある。存命中に鬼であった時の記憶が戻ることはないが、無意識下で何かしらの影響を及ぼすことは十分予想できる。これ以上一緒にいれば、別れがたくなることは明白だった。

何より、閻魔の足元が危うくなる。

霊体を作り出して、冥界にて本体を、下界にてそれを操ることが困難なのではない。
下界に降りている方の霊体がどんどん人間じみていくことは、閻魔にとって軽く恐怖なのである。
正確に言えば、下界に降りているからではない。
冥界にいる時も、鬼男の存在によって閻魔の足元は揺らぎやすく、脆くなっていた。
基本的に、閻魔大王は「愛しては」ならないのだ。
閻魔大王に選ばれた瞬間からあらゆるものを取り上げられ、人間であったことを否定され、全く違うものに作り替えられた。それが『閻魔大王』なのである。
よって、余計な感情が生まれることで、その強固な枠が歪むことは許されない。
しかしそうなったとしても、誰もそれを咎めることはできない。
何故なら、全てを決定することのできる立場である冥界の頂点にいるのは、閻魔大王自身だからである。

だから閻魔は枷をはめる。
自らが、身勝手で、不平等で、下等で、矮小な物に成り下がらないために。
少しでも手を足を緩めればいくらでも堕ちていけてしまう、孤独で残酷で広大な冥界で、『王』であり続けるために。



彼の人はかつて眉を吊り上げて怒った。


誰だ

貴方をそんな体にしたのは

と。


まるで、自身の不条理な宿命を憂い呪うようだった。





アスファルトを蹴る音が聞こえてきた。
そちらへ振り返ると、携帯を耳に押し付けたまま走ってくる金髪の少年の姿があった。体を絞める詰襟で走りにくそうである。
「貴央君」
閻魔は嬉しそうに言った。久々に発音するその名が口の中で愛しげに踊る。
「オッサン」
貴央もそれに応じて笑顔を見せた。あっという間に傍に駆け寄ると、少し切らした息を弾ませて大きくため息をついた。閻魔が苦笑する。
「病み上がりなんだから、走ったりしたら駄目だよ」
「平気だって」
「それにしたって、もう復活したの?おとついの様子じゃ当分無理かと思ってたんだけど」
じゃあ何で待ってたんだよ。
という問いを、貴央は自身の自惚れと共に抑え込んだ。
「ま、若いからな。誰かさんと違って」
「最後の一言余計だよ」
閻魔がむっとしてしまうと、貴央は弾けるように笑って歩きだした。閻魔はいつものように貴央の右隣へ浮かぶ。貴央はもうそれに関して尋ねたりしない。かわりに閻魔が、無言で静かに貴央に言うのだった。

俺はね、ずっと君の右側にいたんだよ
いや、君が、俺の左側にいたんだよ
つい最近……いや、昔の話なんだけどさ


閻魔が黙ってしまうと、貴央は少し焦ったように落ち着かなくなり、「そういえばさ」と唐突に口を開いた。
「オッサンって、こっちにどんな未練があるの」
「え」
意外な質問をされ、閻魔は一瞬返す言葉が浮かばなかった。
「俺でよかったら協力するよ。何回かやったことあるんだ。人?場所?」
閻魔は今度こそ完全に言葉を失った。しかし脳だけは穏やかに動いていた。
優しい子だ。
そして素晴らしいタイミングだ。
閻魔は無理に微笑んだ。

「俺ね」

ざわざわと木々が騒ぎ出し、風がその間で遊ぶ。空気が、違うものが流れ出す。夕方なのに、朝のような、まだ誰も吸っていない酸素に満たされていくようだった。
そういえば、初めて下界に降り立った時も、感情を制御しきれず動揺が風となって地上に表れてしまったことを思い出した。
以来、何か言おうとすれば風が鳴き出す。地が少し震え、空気が変わってしまう。
このままでは、俺は人間になってしまう。
閻魔は風と共になきだしたいと思いつつ、花のように香って笑いたいとも思った。
微弱な異変に気づいた貴央が怪訝そうな顔をして閻魔を見ている。
大丈夫、これから喋るから。宥めるように、閻魔は胸の中でそう言った。

「ほんとは、いつでも上に行けるんだ」

今度は貴央が返す言葉を失う番だった。それでも、かろうじて口を開き、少し遅れて言葉を発した。
「何それ」
「死んだ時ね、何でだか知らないけど上手く上に行けなくてさ。別に未練とか特になかったんだけど、何となくここにいただけ」
ああどんどん君への嘘が増えていく。
閻魔は言いながら微量の後ろめたさともどかしさを感じていた。貴央の方をふと見ると、口が開きっぱなしでぽかんとしていた。
今のうちだ、さっさと言ってしまおう。閻魔は息を吸い込んだ。冷えた味で、背筋が伸びるようだった。

「だからそろそろ行くよ。……そうだな、七日後。七日後に上に行く」

貴央は微動だにしなかった。しかし手の中の携帯は今にも落ちそうだった。
閻魔は右手の指を開き、左手の人差し指と中指を立て、『7』を作った。いたずらを思いついた子供のように楽しげに、格好をつけて、でもおどけながら。


「『Last Seven Days』、とか言うと、ちょっとカッコよく聞こえない?」

映画みたい、と笑う閻魔をまるで見ていないかのように、貴央の眼は見開かれていた。
走るような速さで沈んでいく太陽にも、冷え込んできた空気に震えて首の後ろに出来た鳥肌にも、気づきはしない。周囲の物が身震いするほど目まぐるしく過ぎて変わっていく錯覚に陥りながら、自分はその中心で取り残されているような気分になっていた。

あまりにも唐突に突きつけられた『7』に、貴央はただただ呆然とするしかなかった。




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