首の後ろの辺りが重いまま、貴央は目を覚ました。
遮光カーテンの隙間から差してくる朝日が、部屋の中に線を一本引いていた。
のろのろとリビングに出ると、台所から物音がした。母親が珍しく弁当を作っている。
壁に掛かっているカレンダーにふと目をやる。火曜日。
一日目。
その事実は、貴央の背に重くのしかかる。

「おはよう、ねぼすけ」
台所から油の弾ける音と共に、母江梨子の明るい声がした。貴央はぼんやりした表情のままそちらへ向かう。
「いいよ、俺やるから」
「お弁当ぐらいあたしだって作れるわよ」
「冷凍食品オンパレードのくせに」
「卵焼きは作った!」
憤慨して菜箸を貴央に向ける。貴央が視線を落とすと、スクランブルエッグ一歩手前のそれが目に入った。貴央がため息をつく。
「まあ、食えりゃ一緒か」
「最低」
一層機嫌を損ねた江梨子は少し乱暴にレンジを開けた。母とのやり取りで少し気が紛れたが、会話が途切れると途端に襲ってくる黒い霧。
いつも機械的に登校していたのに、今日はそれがとても煩わしく感じた。



何かしたかった。

体質のこと。父親のこと。どちらも今まで誰にも言えなかった。言ってはならないことだったから。
閻魔が幽霊だからという気安さも十分手伝っていただろうが、それにしたって、この短期間だ。貴央自身も驚くほど自然に本音を吐露し、そして閻魔の態度や言葉はことごとく貴央を深い場所から掬い上げた。
そして、風邪を引いたあの日。彼は本当に一晩中いた。たまに目を覚ましてこっそりとそちらを見ると、必ずそこに背中はあった。江梨子が帰ってきて血相変えて起こされた時には、もういなかった。
熱のせいで感情が高ぶっていたのだろうと何度も自分に言い聞かせていたが、閻魔の背中を確認するたびに目頭が熱くなったのは事実なのである。
溺れそうなほどの安心感を抱きながら、どうしてその手に感触はないのだろうと、彼と自分に境界があることを心から恨めしく思った。

見ず知らずの、ちょっとばかり仲良くなっただけの貴央に、これだけのものを与える彼が不思議だった。
もしかしたら貴央の先祖に借りがあるのかもしれないし、貴央が閻魔にとっての大切な誰かに似ているのかもしれない。自分に対する優しさがダイレクトなものではないと自覚していたが、それでもその好意で事実貴央は救われている。
彼が何も語らないのは悔しいが、この際誰かの代わりでも構わない。何かしらの恩返しがしたい。貴央はそう思うようになっていた。
しかし、そこまで考えて、貴央は自分が閻魔に何か施してやることが出来ないことに気づいた。本来存在の許されていないあの体に、自分は何一つ影響することは出来ない。
でも貴央は今こうして現代に生きている。そして閻魔もまた、霊体といえど現世に存在している。どんな小さなことでも、ゼロではない。彼の望むこととは何だろう。貴央は考えた。

霊の望むこと。
そんなもの、一つしかないじゃないか。

行き着いた考えに貴央は一人満足げに頷いて、彼の待つ坂へと向かったのだった。
その時、信じられないことに、彼は気づいていなかったのだ。
閻魔の願いを叶えたら、未練を取り除いたら、その後どうなってしまうかという、至極簡単なことに。
ただ喜ばせたかった。感謝をされたかった。安らかな笑顔が見たかった。
それしか頭になかったのだ。

それが本来の形なのだ。彼はもう死んでいるのだから、ここに残っていることは不自然で、間違っていて、正しくさせなければならない。
しかし人間というのは、一度突き落されると全てにおいて考え方がネガティブになり、他人を責め、自分を責め、過去を恨む。
自分が余計な事を言わなければ、彼が上に行くなどと言い出すことはなかったのではないか。
何もいきなり、しかも七日間という短い期間に設定することはないんじゃないか。
そうも簡単に離別を言い渡せるのは、自分がやはり閻魔の大切な人の「代わり」、もしくは「似ている人」に過ぎないからではないのか。
それとも、

いつ言い出そうか、ずっと機会を伺っていて、迷っていたのか?


涙が出そうになり、貴央は俯いて口を押さえた。隣にいた友人が「どうした」と問う。貴央は何も言わずに首を横に振った。
もうすぐ今日の授業が終わり、放課後に入る。薬局に寄って安くなっているはずのティッシュを買い、いつものようにあの坂を歩く予定だ。
今日入れて残りの七日間、少しでも長く閻魔といたい。確かにそう思っているのに、帰る足が鈍る。彼の隣にいて普通に接する自信が、貴央にはなかった。
「貴央、何か食って帰らねぇ?」
友人が軽い調子で誘った。貴央は力ない表情で、また首を振る。
「今日はいいや」
「何だよ、まだ調子悪ぃの?」
「そうかも」
ぞんざいな返事でお茶を濁すと、貴央は一人学校を出た。

そろそろ日が短くなり始めた。外に出るともう空が夕焼けに姿を変えようとしている。もうじき、世界が薄紅に染まるのだ。
一歩足を踏み出すたびに胸のあたりがじわじわと熱を持ち、喉元を痺れさせる。腹の方まで緊張が走る。
七日間と彼は言ったが、会えるのは夕方のこの時間帯だけではないか。
今こうして歩いているだけでも、それどころか一日を正しく過ごすだけでも、ひどく時間を無駄にしているような気がしてならなかった。
時限爆弾を抱えさせられているような切迫感に胸が潰れそうになる。振り切るように、貴央は歩く速度を上げた。




閻魔は変わらずそこにいた。いつも、ブロック塀に寄りかかるようにして待っている。
安堵と胸の締め付けが同時に襲ってきて、貴央は学ランの第二ボタンを握りしめた。貴央に気づいた閻魔が苦笑する。

「そんな顔しないでよ」

貴央は「え?」と素っ頓狂な声を上げて頬を押さえた。笑ったまま閻魔がすう、と近づいてきた。
「おばあさんが歩いてるよ。ほら携帯出さなきゃ」
指摘されて前方を見ると、腰の曲がった老婦人がカートと一緒にのろのろ歩いていた。貴央は慌ててポケットから携帯を抜き出す。
「そんな顔って何だよ」
「七日後に俺が行っちゃうの、そんなにショックだった?」
どきりとして貴央は頬を引きつらせた。悟られないために、わざと眉間に深い皺を刻む。
「何だよそれ」
「だってしょんぼりした顔で歩いてきて、俺の顔見た途端泣きそうになってたよ」
「嘘言うな」
「バレた?へへへ、ちょっと誇張してみた」
いたずらっ子のように歯を見せて笑い、少し高く飛んでいる。貴央はそれを見上げている。こんなに近くにいるのに、とても遠くを飛んでいるような、もしくは薄いフィルター越しに彼を見ているような気がしていた。
「それなぁに?」
閻魔が薬局のビニル袋を指さすと、貴央がそっけなく「ティッシュ」と返した。思ったより冷たく出てきた自分の言葉に驚いて、慌てて「今日特売だったから」と付け加えた。不貞腐れた子供のようで恥ずかしかった。
「主婦だなぁ」
閻魔がからかうようにくっくと喉で笑った。軽口すらも上手く叩けなくなっている自分が、貴央は情けなかった。
そんな貴央をよそに、閻魔が背中で指を組んで気を遣った微笑を見せる。
「最後なんだから、楽しく過ごそうよ。貴央君がお望みなら一日中傍にいてあげてもいいよ」
後半の言葉の時には顔がやたらとにやついていて、普段なら心底癇に障る表情に見えていただろう。
しかし、貴央自身信じられなかったが、危うくこっくりと頷いてしまうところだった。

誰だこれは。本当に俺なのか?

貴央は昨日からずっと動揺している。

「貴央君?」
不自然に黙っている貴央の顔を、閻魔が覗き込む。こんなに近くに顔があるのに、匂いも分からない。触れない。呼吸の音も、聞こえない。
貴央が力なく、しかし無理やり笑う。つられて閻魔も少しぎこちない笑みを浮かべた。
閻魔は、貴央が笑うと必ず一緒に笑う。
貴央は笑みを浮かべながら、その奥で奥歯を噛みしめていた。


行ってしまうなんて、本当は嘘なんだろう?


閻魔の姿を、笑みを見た瞬間から、何度も何度もその問いが生まれては霧散していった。





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