秋だというのに、体が熱い。

ということは何となく感じているのに、貴央はそれでも起きてはいなかった。
ああ今きっと寝ているんだろうなと思いつつも、瞼は閉じているし体も活動していない。
幽体離脱でもしているのだろうか。ぼんやりと、あまり笑えない想像をしながらまどろんでいた。

『貴央君』

名前を呼ばれて、貴央は自分の体がぴくりと動くのを感じた。自分がプールの底にいて、それを上から手首を引かれるような浮遊感の中にいた。水色の水が、光と泡を含んでいて綺麗。
前にもこうして眠っているところを呼ばれた。そして声もあの時と同じ。
なかなか起きられないのは、きっと彼が貴央にとって夕方の象徴となっているからだろう。起きるという行為はたいてい朝にある。

『貴央君』

また呼ばれた。貴央は自分でもとてもくだらないと思いながらも、言葉にして頭に浮かべた。
ずっと呼べばいい。
文字にしたら一層陳腐になったので、貴央は仕方なしに瞼を開けることにした。


「貴央君」

横たわる貴央の眼前に、閻魔の顔があった。焦点の合っていない目で、貴央は閻魔を視界に映している。閻魔が朝日のような笑顔で言った。
「おはよう」
彼の口から発せられたその一音一音を聞きとると、次の瞬間貴央は寝起きとは思えない勢いで飛び起きて絶叫した。
「何やってんだお前」
「貴央君、声でかい。ここマンションなんだから」
びりびりと振動した空気に驚きながら、閻魔は片耳を塞いでみせた。眠気が一瞬にして吹き飛んだ貴央には、閻魔の忠告も耳に入らなかった。泡を食ったように口をぱくぱくさせながら閻魔を凝視している。
「何でいるんだって聞いてんだよ」
「だって君が起きないから」
「違う。今まで朝っぱらからうちに来たことなんてなかっただろが」
「少しでも一緒にいようかと思って」

にこりと笑って平然と言ってのける閻魔を、貴央は壮絶な勢いで睨みつけたくなった。
その言葉に他意などない。本当にそう思っているのだろう。貴央は密かに奥歯を噛み締める。
気づいてるか。俺がアンタに会えるかどうかは、全てアンタにかかってるってこと。
閻魔に関することがアンフェアなことばかりで、貴央はそろそろうんざりしかけていた。
いとも簡単に、すっかり姿を消すことができる。いないと思っていても、本当はそばにいるのかもしれない。どこかで見ているのかもしれない。
それでもそれを確認する術は、貴央にはない。
全くもって不公平だ。貴央は急に居づらくなって、飛び起きた勢いで握りしめた布団を放して脇へ追いやった。

「お母さんは随分早くに行っちゃったんだね。ところで時間大丈夫?」
閻魔が指先を掛け時計に向けたので、貴央はその先を辿り、絶句する。
「……携帯でアラームセットしてあるのに」
「止めて寝ちゃってたよ」
「その時起こせよ馬鹿野郎」
荒々しい声を上げると、ベッドを飛び出して洗面所に駆け込んだ。いつから寝顔を眺めてたんだ悪趣味め、と悪態をつきながら。
冷たい水で叩くように顔を洗いながら、朝から狂わされた自分のリズムを恨めしく思い、寝室で可笑しそうに笑っている閻魔を憎らしく思った。

しかし、朝起きて最初に見た顔が彼のものだったことに、貴央は悲しくなるほどの嬉しさを感じてしまっていた。
寝起きのはっきりしない頭だというのに、彼の肌の白と髪の黒の対比をしっかりと察知してしていた、疎ましい自分。
何故その手はこの肩を揺すり起こせないのだろうというくだらない願望が、さっきから後頭部の辺りをくるくる回っている。
彼にあれこれ望もうとする自分の浅ましさに、貴央は今度こそ本当にうんざりした。


大急ぎで身支度を済ませ、マンションを飛び出した。弁当を用意する暇などなかったため、今日は学食で決定である。結構な俊足で走る貴央を閻魔が悠々と追う。右斜め上に浮く閻魔を、貴央は細めた目で睨み上げた。
「今日一日ずっと張り付くつもりかよ」
「そうだねぇ、そうしてみようか」
「マジでノイローゼになりそう」
走りながらぐったりした表情で唸る貴央に、閻魔が苦笑する。
「だから夕方しか出てこなかったんだよ」

貴央は思わず足を止めた。手を後ろに組んで少し目をそらしている閻魔を、まじまじと見上げる。沈黙が苦しかったのか、閻魔は付け加えた。
「四六時中くっつかれたら嫌になるだろうと思って、あの坂で、夕方だけって決めてたんだよ」
貴央が何も言えずにいると、閻魔が確かめるように尋ねた。
「ずっとこれが聞きたかったんでしょう?」

肝心なのが抜けてるだろ。貴央は咄嗟に出そうになったその台詞を喉に押し込んで、一応頷いてみせた。

人間に気を遣う霊がどこにいるんだよ。
何故そうまでして俺に会いたいの。


彼の全ては、やはり自分に似た誰かに注がれているのか。
貴央はそう思って胸が締まり、振り切るようにわざとらしく腕時計を見て、アスファルトを蹴り始めた。



閻魔は本当に学校まで付いてきた。
授業中は、邪魔にならないようにと教室の一番後ろに陣取って興味深そうに黒板を見ている。たまに気になって貴央が振り返ると、腕を組んで胡坐をかいたまま浮かび、神妙な顔つきで、教師のちっとも面白くない現代文の音読を聞いていた。
目が合うと閻魔が笑みを浮かべて手を振るので、貴央は視線を黒板に戻す。
休み時間に友人が席まで押し掛けてくる時も、閻魔は傍でその様子を面白そうに眺めていた。おかげで友人との談笑にちっとも集中できず、上の空なのを何度も指摘される羽目になった。
トイレに行って手を洗っている時、ふと目の前の鏡を見ると、自分の頭から二本の透けた人差し指が生えていることに気づいた。振りかえると、閻魔が指で鬼の角を作って遊んでいた。その憎たらしい笑い顔を鬼の形相で睨むと、貴央は大股でトイレを出て行った。偶然貴央の振り向いた先に立っていた生徒が、状況が飲み込めずに縮み上がっていた。




放課後になる頃には、もともと怪しかった雲行きが悪化して雨が降っていた。教室の窓に張り付いて空を見上げていた閻魔は貴央を振り返る。
「傘持ってる?」
貴央はロッカーから濃紺の折り畳み傘を出してきて、ちょっと振って見せた。閻魔は微笑んで、教室を出ていく貴央の背中を追った。
外に出て傘を差すと、空を飛んでいた閻魔がすぐ傍まで降りてきた。
「入れて入れて」
子供のようにいたずらっぽく言うと、やたらと嬉しそうにして傘下に入り込んだ。貴央はというと、もう勝手にしてくれとばかりに肩をすくめている。
「今日は夕飯の買い物ないの?」
「久しぶりに食べに行こう、だってさ」
「そいつは素敵だ」
自分のことのように喜ぶ閻魔を、貴央はぼんやりと見ていた。雨が傘を打つリズムを聞きながら、彼に実体はないのに何故だか窮屈さを感じて俯く。
閻魔がふふ、と笑うので、貴央は気味悪がって眉を寄せた。
「何」
「ごめん。傘の下、楽しくてさ」
濡れやしないのに、狭苦しい傘から体がはみ出さないようにぴたりとくっついている。
その様を見て、今ごく普通に微笑んで、ふざけあって、純粋にこの状況を楽しめたらどんなにいいかと、貴央は思った。
だんだんとはっきりしてきた自身の気持ちが厭わしい。そして、もう誤魔化すのが面倒になってきていることに気づいていた。
音もなく膨れ上がる感情が、破裂を待ってくすぶっている。なのにそれを信じたくないと拒絶する自分が、最近どんどん輪郭を薄くしている。

気づいているか。アンタは俺にいつでも会えるが、俺はアンタに会えないってこと。
すぐ傍にいて欲しい時に、それが叶わないってことに。



坂を上がりきると、閻魔は傘の下から抜けた。灰色の背景に溶け込むその体を、雨は打たない。雨と彼の組み合わせは最悪だ。危うさと儚さを増幅させる。それが不安で、戻って来いと手招きしそうになった手をポケットに突っ込んだ。
「どうしたの」
「親子水入らずの食事を邪魔するほど野暮じゃないよ」
貴央がああ、と気のない返事をするので、閻魔は眉を寄せて尋ねた。
「君こそどうしたの。携帯だって出さないし。まあ、今はたまたま人がいないけど」
貴央は疲れた顔で目を閉じた。今、自分が相当感じが悪いことを自覚しているけれど、それでも携帯を出す気になれなかった。
「面倒くさい」
じゃあな、と言い捨てて、貴央は閻魔を坂に置いてさっさと歩きだした。閻魔が何か言おうとして小さく声を上げたのが背後から聞こえたが、聞こえないふりでどんどん歩く。
そうして歩いて歩いて、もうさすがに見えないだろうというところまで来た時、貴央は坂の方を振り返った。もちろん閻魔の姿はなかった。

途端に、どっと寂しさが押し寄せる。
雨に濡れたアスファルトの籠った匂いが鼻をつき、無表情な雨音がやけに大きく聞こえ始め、厚手の学ランに包まれた腕が寒気に小さな悲鳴を上げる。制服のズボンの裾が濡れやしないかと、急に心配になる。
そして、世界から色が引いていく。
雨というのは孤独を増長させる。一人になった途端に、誰でもいいから会いたくなる。しかしこれから母親と出かけるので、それは解消される。いつもなら。
今会いたい人物がこの世でたった一人だともうわかっていて、貴央は気が遠くなっていくのを感じた。どうしたらいいのか、本当にわからないのだ。
熱を出したあの日、やはり雨がざあざあと降っていた。あの時は、雨がちっとも恐ろしくなかったのに、今は、少しずつ存在を掻き消されていくような気がして途方に暮れていた。


傘など、何の役に立とうか。






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