貴央は露骨にがっかりしていた。 帰りのあの坂道に閻魔がいなかった。動揺して、しばらく固まり、うろうろして、何度も辺りを振り返ったが、彼は現れなかった。 今日は木曜日。期日は来週の月曜日。 まだ時間はあるはずなのに、と貴央は急に不安に取り囲まれ、ひどく焦った。 そしてふと思う。何も、いつも坂で自分を待っていてくれるわけではないんじゃないかと。彼にとっても最後の七日間であるわけだし、色んなところへふらりと出掛けているのかもしれない。 しかし、学校からの帰り道で彼に会えないと、言い表しようのない動揺に襲われてしまう。習慣というのは恐ろしい。それをいつも通り行うならば安心を得られるが、破られればその分だけ落ち着かなくなる。 もしかしたら、自分の意志で上に行けるだなんていうのは彼の思い込みに過ぎず、突然上に連れていかれてしまったんじゃなかろうか。 夕焼けの橙の中で一人立ち尽くす。そんな悪い予感を抱えながら、貴央は早足で家を目指した。 自宅に荷物を置いて財布だけポケットに捻じ込むと、駐輪場に行って自転車に跨った。 先ほどの坂を下ろうとしたところに空中に浮かぶ白黒の男を発見し、貴央は急ブレーキをかけた。慣性の法則に従い、前につんのめりそうになる。 「大丈夫?」 閻魔が急停止した貴央を心配そうに見ている。貴央は失態を見られて恥ずかしそうに俯きながらも頷いた。 「自転車だ」 閻魔は物珍しそうにシルバーの自転車を眺めた。 「どこ行くの」 「スーパー」 「君の出かけ先はいつもスーパーだ」 閻魔がくすくすと控えめに笑うと、貴央がむくれて「悪かったな」と言った。後ろから車の音がして、慌てて口をつぐんで自転車を端に寄せる。 白の軽自動車が行ってしまうと、閻魔がにっこりと笑って言った。 「ついてっていい?」 途端に貴央はすっかり緊張が緩み、安心しきった顔で頷いた。 「結構たくさん買ったね」 前カゴいっぱいの白いビニル袋を見て閻魔がそうコメントした。人通りの少ない歩道で、貴央は自転車を走らせている。 「うん、だからチャリで来た。ちょっと距離あるし」 段差を越えるたびに、前カゴの中身ががたごとと音を立てる。醤油、ミネラルウォーター、トイレットペーパーなどなど、確かに重量があってかさばるものばかりだった。 貴央は、右隣を飛ぶ閻魔が依然として自転車を眺めていることに気づいた。 「そんな珍しい?」 「そうだねぇ。乗ったことないから」 貴央は眉を寄せて首を傾げた。 「チャリ乗ったことないって、どんだけお坊ちゃまだったんだよ。……あ、でもオッサン日本人じゃないんだよな。チャリない国もあるか」 閻魔はそれには答えずただ苦笑している。貴央はしばらく黙ったまま車輪の転がる音を聞いていたが、ふと思い立ってブレーキをかけた。 「乗ってみる?後ろ」 貴央に見上げられ、閻魔はぽかんとして返事を忘れた。そしてすぐに冷静になって苦笑し、首を横に振る。 「いや、だって、出来ないよ」 「雰囲気雰囲気」 貴央が手招きして自分の後ろの荷台を指さす。閻魔は肩をすくめたが、貴央は構わず言った。 「座った状態で荷台のすぐ上に浮いてればいいよ」 ほら、と再度手招きされ、閻魔は躊躇いつつもそこに跨る格好になって見せた。貴央が満足げに微笑む。アスファルトを軽く蹴り、後ろの閻魔を気遣ってゆっくりと発進した。 サーモンピンクの歩道に夕日が落ちている。歩道の切れ目がところどころ欠けていて、そこに乗り上げるたびに前カゴの荷物がごとごとと危なっかしく揺れる。 閻魔が我慢できずにふふ、と笑う。 「何でだろう。何だか恥ずかしいよ」 「恥ずかしい?」 貴央が呆れて笑った。笑いが納められず、閻魔はしばらくくすくす笑っていた。首筋に笑い声がかかるような気がして、くすぐったそうに貴央も笑う。 たまに足元に視線を落とすと、ぷらりと垂れた閻魔の透けた足が見えて、貴央は無性に嬉しくなった。 「幽霊って風の感触わかるの?」 「うーんそうだね、何となく」 「じゃあ結構雰囲気味わえるな」 何と返したらいいか分からず曖昧な返事をしてしまったが、貴央は歯を見せて満足げに微笑んだ。 自転車に乗って風を切っていると、自分がたくさんの空気の中に存在していることを思い出す。空気が肌にぶつかり、まとわりつき、そしてすれ違っていく。その感覚が、貴央は好きだった。 だからこそ彼にも知ってほしかった。 自分の好きなものを共有したかった。 そう思えるようになってきた自分にほっとした。 閻魔がおもむろに貴央の腰に手を回す。それを見た貴央が後ろを振り返った。 「何してんの」 「俺に実体があったらこうするだろうなって思って。ほんとなら落っこちちゃうでしょ」 「やめて、俺腹とか脇とか弱いから。肩にして」 「ほんとに触ってるわけじゃないじゃん」 「そうだけど、こそばゆい……」 貴央は言いかけて、口をつぐんだ。正面から自転車が二台来たからだ。後ろの閻魔も黙り込む。何故か息まで止めて、小学生の男の子二人が楽しそうに騒いでいるのとすれ違うのを待った。貴央と閻魔の顔は何かを堪えるように不自然に歪んでいた。 自転車の車輪の音が遠ざかったのを確認すると、貴央は吹き出した。つられて、閻魔も。 「危ねぇ、マジで吹き出しそうだった」 「なんかかくれんぼみたいだね」 狭い場所に二人で隠れて、潜めた声で笑い合い、鬼が近くを通ると息を止めてじっとする。通り過ぎてしまうと、わけもなく可笑しくって、笑ってしまう。 一度もやったことはないが、とてもふさわしい言葉だと思い、閻魔はそう形容した。 貴央の肩に両手を乗せて、閻魔はピンク色の空を仰いだ。ちぎれ雲にもところどころ色が付いていて、どこかで見た水彩画にそっくりで、しかしそれよりも鮮やかだった。 一人分の体重を乗せた、二人乗り自転車。 閻魔は、やはり彼の腰に手を回し、頭を背中に預けてみたくなった。そして、実行に移した。貴央はちらりと視線を自分の腹に落としたが、今度は何も言わなかった。 聞こえるのは、風が耳の傍を通る音。車輪の転がる音。醤油とミネラルウォーターがぶつかり合う音。カラスが孤独に鳴く声。 「聞いて貴央君」 しばらく沈黙した後、閻魔が不意にそう言った。貴央は何拍かおいて、ぶっきらぼうに返事をする。 「何」 閻魔は目を閉じた。なんと穏やかなのだろうと静かに驚きながら、撫でるような声で言った。 「俺ね、君といると人間になれる」 彼は「出来ない」「無理」と言わなかった 出来る方法を提示した 平然と、水のように自然に促した 無から有を生むわけじゃない 不可能を可能にするわけじゃない それでも君は素晴らしい 心の底から偽りなくそう思ったが、彼はそんな賛美を望まないだろうと思い、胸に留めたままにした。 貴央はしばらく無言になり、口をすぼめて故意に聞き取りにくくさせて呟いた。 「何だよそれ」 胸の底から湧きあがるじわじわとした熱がくすぐったく、少し猫背になる。いつもなら右に曲がる交差点を見過ごし、貴央は直進していた。そのことをかけらも後悔しなかった。 金木犀の並木に差しかかった。甘くかぐわしい匂いに包まれながら、二人は黙りこくっていつまでも自転車に乗っていた。 「ふふ」 紙の擦れる音と筆の滑る音だけがしていた執務室で、閻魔が何の脈絡もなしに笑ったので、泰山が振り返った。 「いかがされましたか」 書類のチェックを中断して尋ねると、閻魔が筆を持ったままゆっくりと顔を上げた。満ち足りた笑みだった。 「泰山、私は今生まれて初めて自転車に乗っているよ」 |