金曜日。 閻魔はいつものように坂の下で待っていた。今日はいつもより来るのが遅い。 厚めの雲間から差しこむ僅かな夕日を眺めながら、空中に足を投げ出してふよふよと浮かぶ。 もうすぐこれもおしまい。閻魔は一人、弱く微笑んだ。 しばらくそうしていると、見慣れた金髪が道に姿を現した。クリーム色のエコバッグを手から提げて。 そんな姿を見ただけで、閻魔は嬉しくなって笑顔になってしまう。 貴央は特に感情のない、しかし穏やかな表情で閻魔に近づいてきた。あまりにも澱みなく向かってくるので、閻魔はきょとんとして彼の足取りを見ていた。 「なぁに?」 目の前で静かに立ち止まった貴央を見て、閻魔が問う。 貴央はすぐには答えず、少し迷っているかのように振舞いながら、閉ざされた口を開いた。バッグの持ち手を握りしめる手にちょっとだけ力がこもり、中のものがかさりと音を立てる。 「うちに来てくれないかな」 閻魔は目を見開いた。ついでに口も開いていた。腕組みしている腕が、どうしていいものかわからず少しだけ浮いている。 そんな閻魔を見て、貴央はぎこちなく口角を上げた。 「手伝って欲しいことがあるんだ」 雲の切れ目が閉じ、夕陽を拒む。 もうすぐ夜が降りてくる。 マンションに着いて玄関を抜け、台所に入ると、貴央はバッグの中身を並べ始めた。牛肉、生クリーム、ローリエ、赤ワイン。 閻魔はそれらの食材を物珍しそうに見ていたが、少し困ったように笑って手持無沙汰のまま浮かんでいた。 手伝って欲しいとは言われたが、何しろ自分は透けてしまう。実体化しようと思えばできるのだが、そんなことは出来ない。一体自分に何をさせたいのか分からず、閻魔は貴央が何か言うのをひたすら待った。 まず始めに米をとぎ始めた。こなれた手つきで、ジャッジャッという小気味のいい音がシンクに響く。 「親父がさ、ロシア好きだったんだ」 ようやく口を開いたかと思えば、それは閻魔の期待した答えではなく、関連性のわからない突飛なものだった。閻魔は思わず聞き返す。 「へ?」 「普通の会社員だったけど、大学のころはロシアのことばっかり研究してて、母さんも連れてかれたことがあるんだって」 「ふーん」 なんと返事をしたらいいか分からず、閻魔は曖昧に言葉を返す。しかし父親を懐かしむ貴央の横顔はあどけなく穏やかで、見ていて気分がよかった。 「母さんが家事出来ないから、飯作ったりとかは全部親父の仕事だったんだ。だから、ボルシチとかピロシキとか、あと名前はよく知らないけど、ロシアの料理よく作ってた」 美味かったよ、と貴央は愛しげに零す。 とぎ汁を切って水を注ぎ、炊飯器にセットする。閻魔に背を向けたまま、タイマーをいじりながら貴央は呟いた。 「ビーフストロガノフは、特別な時だけ出る、ご馳走みたいなもんだったんだ」 食器棚の下の開きを開けて、中から料理の雑誌を取り出した。 「『怪獣みたいな名前』って俺が喜ぶもんだから、親父、いつも張り切っててさ」 貴央はそれを開いてぱらぱらとめくる。そして角が控えめに折られたページを探し当てた。白い皿に乗った、クリーム色のスープに浸る肉料理の写真。 「でも、親父が死んで、それから食べてない」 雑誌の背を支える左手に力がこもる。右手の指が見出しの言葉をなぞり、歯がゆそうにずるずると滑り落ちていった。 「何度も作ろうとしたんだけど、どうしたって同じ味は作れないから」 貴央は俯いた。閻魔は何も言わなかった。ただ彼の全身をその紅い瞳に映していた。 「そんなの食べさせても、あいつが悲しむだけだし」 独り言のようにぽつりと言うと、はっと我に返って顔を上げ、慌てて弁解した。 「違う、ほんと、マザコンとかじゃないから。いや、そう聞こえるかもしれないけど」 「貴央君」 閻魔に遮られ、貴央は口を閉ざす。閻魔が目を細めて笑む。 「俺がそう思うって、ほんとに思ってる?」 そう言われると、貴央は照れたように目線をそらして「ごめん」と返した。 少しの間だけ無言になったが、やがて貴央が雑誌を台所のタイルに立てかけた。 「でも、今日は作ってみようと思う」 雑誌を睨んだまま、貴央は決然として言った。それは天で待つ彼の人に向けての宣言のようだった。 閻魔は「どうして」と聞かなかった。それがとても心強くて心地よくて、貴央の口角は知らず上がる。そして閻魔の方を向いて、さっきのようなぎこちない笑みを浮かべた。 「だからオッサン、レシピ読んでくれないかな」 閻魔は花のように微笑んだ。 貴央が牛肉を細切りにしている横で、閻魔が雑誌を覗き込んでいる。 「次塩コショウして、小麦粉まぶして」 「はい」 真面目くさって返事をすると、可笑しくて二人して笑ってしまい、真剣な空気は台無しになった。 しかし包丁を操る手つきに澱みはない。指先にまで神経が通っている。閻魔は素直に感心して、視線をレシピに戻した。 「マッシュルームと玉葱は薄切りね」 貴央は今度は返事をせず、黙々と言われた通りにこなした。 具の準備が終わると、スープに取りかかる。固形スープをお湯で溶き、赤ワインとローリエを加えた。 フライパンにオリーブオイルを落として熱した後、切った具を炒め始めた。 油の弾ける音、調理器具のぶつかり合う音、時々発される閻魔のナビゲイト。それらだけが、しんとした台所の中で響いていた。 何となく落ち着かないのに、それでもずっとこうしていたい気がして、貴央も閻魔も不思議な空気の渦中にいた。 時の流れが目に見えるようだった。漂うように周囲を取り巻き、気ままに過ぎていく。 「そろそろいいんじゃない。スープ入れたら、十分くらい煮詰めて」 確かに、肉にはもう火が通っていそうだった。指示どおりにスープを流し入れて弱火にかける。 その十分の間、二人は一言も言葉を発しなかった。閻魔は意図して無言だったが、貴央には物を言う余裕がなかった。目まぐるしい自己の思考の処理に忙しくて。 閻魔に会わなければ、きっとこれを作ろうとは思わなかっただろう。 レシピなど、他人に読み上げてもらわなくとも料理は作れる。そんなことはわかりきったことである。 それなのに、これを作ろうと決めた時からそれはもう決定事項だった。 彼の声に乗ったレシピで、父の愛した料理を作り、母に食べさせようと。 貴央は少しだけ震えた自身の右腕をそっと押さえた。彼が傍にいるなら何でも出来てしまいそうな自分が少しだけ恐ろしくて。 そのことに気づきたくなかった。 貴央は閻魔に悟られないよう、密かに唇を噛む。 閻魔は目だけ動かして彼の唇を見たが、何も言わなかった。 「最後、生クリーム」 閻魔の静かな声を聞き、計った生クリームの入った容器に手を伸ばした。火を止めてそれを流し込み、塩コショウで味を調える。 「出来上がり」 閻魔が宣言してしばらく二人してそれを眺めた後、閻魔がほがらに微笑み、貴央もつられて笑った。 「ありがとな」 「作ったの貴央君じゃん」 閻魔が肩をすくめると、貴央は曖昧に笑みをこぼす。閻魔はそれに気づかないふりをしてビーフストロガノフに視線を戻した。 「お母さんは?」 「多分もうすぐ帰ってくる」 「そっか。じゃあちょうどいいね」 自分のことのように閻魔が嬉しがるので、貴央は少し逡巡した後、おずおずと口を開いた。 「俺の体、使いなよ」 閻魔は一瞬何を言われたのか分からず、ぽかんとして貴央を凝視した。 「味見、アンタにしてもらいたいんだ」 ようやく合点のいった閻魔は、困ったように眉を寄せる。 「貴央君」 「だって、俺の手料理食べたいって言ってたじゃん、前。それにアンタだったら、俺に取りついても消えない気がするし」 貴央の内側で渦巻く力は強すぎて、不用意に取りついた霊は逆に身を滅ぼすことになる。実際に閻魔が消えることはないが、それを知る由が貴央にあるはずもなく。 普段の冷静な貴央であったなら、そもそもこんなことは言いださなかったであろう。 彼を突き動かしているのは、何でもいいから返したいというひたむきな思いだった。 「だめ」 閻魔が首を振った。芯の通ったその二文字に、貴央が叱られたように俯いた。 「例え君が許しても、俺が本当に入れたとしても、駄目なんだ」 しゅんとしてしまっている貴央を、閻魔は静かに見下ろしている。そして諭すように続けた。 「君の体を、他の誰かの自由にさせてはいけないよ」 貴央ははっとして閻魔を見上げた。そして慌てて「ごめん」と告げる。閻魔が緩く首を振って笑って見せた。 「謝らないでよ。嬉しかった」 そして、貴央に味見を促した。小皿に少しだけ取って、肉を口に入れてスープを味わう。生クリームのまろやかさが舌を滑る、こっくりとしたスープ。玉葱は甘く、肉も程よい柔らかさ。 それは父の味ではなかったが、優しい味だった。 きっと母は食べるだろう。貴央は確信した。閻魔も信じ切っていた。 「おいしい?」 閻魔が尋ねると、貴央は無言で頷いた。閻魔が満面の笑みで頷く。 「早く帰ってこないかな」 そう言って閻魔は玄関を見に行った。一人台所に残された貴央は、肉を飲みこんだ後、崩れそうになった膝を叱咤して必死にその場に立っていた。 ああやっぱりどうにかして食べさせたかった、という後悔の海に浸かりながら。 大声で泣き出さなかったのが奇跡だと思った。 約束の日まで、後三日。 |