何もない土曜日だった。
母親は朝から仕事で不在で、天気の良い休日を、貴央は一人きりの自宅のリビングで怠惰に過ごしていた。
遅く起きたため、適当に作ったうどんでブランチを済ませ、フローリングに座り込んでだらだらとテレビを見続けている。
閻魔は現れない。出かけようにも、いつ彼がここに来るかわからない以上、貴央はどこにも行けずにいた。
しかしよくよく考えてみれば、貴央がどこにいようと彼は驚くほど上手く貴央を見つける。
それでもとりあえず、出かけるのは彼が来てからにしようと決めてしまっている自分に、貴央は気づいていた。
休日の午後の騒がしいバラエティ。タレント同士の会話の内容など、ほとんど頭に入ってはこなかったが、足を投げ出した状態で惰性で見続けていた。

ソファの上に置いた携帯が鈍い音を立てて震える。画面を見ると友人からのメールだとわかった。開いたメールには「暇なら出てこい」とごく短い一文だけが載っていた。
貴央は悩むこともなく断りのメールを返す。仲間同士でのんきに遊ぶ気には、どうしてもなれなかった。

タイムリミットは目前なのに、頭がまるできちんと回転しない。


「どうしよう」

貴央は蚊の鳴くような声で、無意識に呟いていた。






午後四時。「赤とんぼ」のチャイムが遠くで聞こえた後に、閻魔がベランダから侵入してきた。こそ泥のようにニヤニヤと笑いながら。
「だらだらしてるね」
何が可笑しいのか、顔はにやけたままだ。それを見た貴央は、ぶすっとしてテレビのチャンネルを変えた。閻魔がその隣に座り込む。
「ずっと引きこもってたの?」
「外出るの面倒くさい」
「そういうこと言う人だっけ」
くすくすと笑ってからかうと、テレビの旅番組へ視線をやった。こっちは誰かさんのせいでせっかくの休日を朝から無気力に過ごしているというのに、当の本人はわけもなく楽しそうである。
寂しさを感じているのは自分だけなのではないか、という疑念が濃くなり始め、貴央は口を閉ざす。

年配のタレントの男女が、液晶の中で沖縄を旅している。映し出される一面のエメラルドグリーン。濁った東京湾の記憶しか浮かんでこない貴央は、同じ国の中にこんな色をした海があることが信じられなかった。
潮の香りはわからずとも、さざ波は耳に心地よく響く。異国の風景のようなそれを、貴央はぼんやりと眺めながらも魅了されていた。

「綺麗だね」

閻魔が微笑しながら簡素な感想を述べた。貴央は同意も頷きもしなかった。
その代わり、テレビに視線をやったまま、平らな声で尋ねた。
「海、行ったことある?」
閻魔は少し考えた後、ごく適当に答えた。
「大昔に」
それを聞くと、貴央は無言で立ち上がった。テーブルの上の財布の中身を確認してジーパンのポケットにねじ込むと、携帯で手早くメールを送り、閻魔の方を振り返った。

「行こう、海」

閻魔は口をポカンと開けて貴央を見上げていた。
「今から?もう四時過ぎ……」
「知ってるよそんなの」
「大体、今の季節じゃ泳げないんじゃ」
「だから、知ってるってば」
強まった語調を聞き、閻魔が訝しげに見つめる。貴央は少しだけ後悔して口をつぐんだが、強い視線は閻魔からずれない。閻魔は困ってしまう。
「お母さん、仕事から帰ってくるんでしょう?」
「今日中には帰るって今メールした」
「不良息子め」
閻魔は思わず微笑んでしまった。それを見て貴央が安堵する。
「どうしても今海が見たい。だから、一緒に来てよ」
彼に手を差し伸べても意味がないことをよく知っている貴央は、歯痒そうに拳を握る。
「わかった」
閻魔はふわりと浮かび上がり、強く握りしめられたその拳の上にそっと手を重ねた。


「連れてって」





高台や観覧車から見下ろす遠い海ではなく、足の裏に砂を感じられる近い海を、貴央は望んだ。出来れば、あまり人のいない。
帰宅する人々が目立つ最寄駅に着くと、貴央は少し悩んだ。閻魔はそのすぐ隣に浮かんでいる。顔色を伺えば、少しだけ心配そうに見下ろしてきた。
何故か逆に安心してしまった貴央は、ごく自然な足取りで京葉線に飛び乗った。
どこかくたびれた風な、土曜の夕方の電車の中。椅子には座らずドアにもたれていると、閻魔が頭上から声を降らす。

「行き方わかるの?」

貴央は返事の代わりにこっそりと微笑んで見せた。つられて閻魔も笑う。
そして、「どこへ行くの」と聞かなかった自分に、閻魔は驚いていた。
どこだって構わないのだ。

その電車はたくさんの人間と一人の幽霊を乗せて海へ急いでいる。
夕日が沈んでしまわないように。



電車を降りると、もう既に潮の香りがしていた。
少し寂れた漁村のようなその風景を閻魔がぼうっと見ていると、貴央が閻魔を置いて走り出していた。驚いて、閻魔も慌てて後を追う。
海沿いのアスファルトの車道の脇を、迷いなく走っていく貴央に、閻魔は声を張り上げた。
「ここ、知ってたの?」
車はほとんど通っていない。人はもちろんのこと。感じられるのは潮の香りと海風の音。
閻魔はそこで初めて、貴央の足が速いことを知った。風を含んで膨らむTシャツ、夕日に照らされている金の髪、軽快に飛んでいくスニーカー。
空気抵抗も何も受けないはずなのに、閻魔は貴央の速度についていけなくなりそうな気がした。自分の方がずっと自由に、速く動けるのにもかかわらず。
「貴央君、返事くらいしてよ」
どこか不安そうに自分を呼ぶ声に、貴央は速度を緩めずに顔だけを閻魔の方へ寄こした。期待に満ちた生き生きとした表情で、口元に笑みを浮かべながら貴央は言った。

「もう喋っていいかな」

閻魔は、その声を聞いて急速に締まっていった自身の胸を押さえた。オレンジに染まった彼の浅黒い肌が、嘘みたいに輝いて見えた。
不意に涙が溢れそうになり、閻魔は驚愕する。
今、自分は限りなく人間に近い。閻魔はそう確信した。
無理もない。閻魔は自身に言い聞かせる。
貴央はずっと人の気配を気にしていた。
目に見える範囲に、という程度ではない。声の大きさすら気にせずおおらかに話せる状況を、彼は探していたのだ。

「いいに決まってる」

閻魔は知らず、零していた。
「人、いないでしょ」
必死に貴央の後を追いながら、震える声の処理に閻魔は困っていた。しかし幸いなことに、貴央にはあまりよく聞こえていない。
「貴央君お願い、そんなに急がないでよ」
はしゃぐ子供を諌める父親のような声を出す閻魔の方を、貴央はもう一度振り返った。張り上げた言葉に反して、楽しくて仕方がないという、弾けるような笑顔だった。

「だって、日が沈んじゃう」

思考ごと飛んでいきそうな速度だ。
閻魔はそう思った。




貴央は砂浜に降り立った。足を引っ張られる不安定な感覚に身を委ねながら、段々と速度を落としていく。
遠くにサーファーがちらほら見えるだけで、後は誰もいない。夕暮れの中の寂しい海。クリアに響く波の音を聞きながら、貴央はスニーカーと靴下を脱いだ。
波打ち際に爪先を差し込んでいくと、ぴりっとした冷たさが刺さる。
「つめた」
言いながらも、貴央はどんどん浅瀬を進んでいく。閻魔は思わず手を伸ばした。
「待って」
行かないで、と続けそうになり、閻魔はまたしても驚いた。口をつぐんでいると、貴央が振り返った。
「来いよおっさん。冷たいけど結構……」
言いかけて、貴央は口をぽかんと開けたまま数秒間固まった。閻魔が訝しげに見つめると、貴央は声高に笑った。
「まただ、俺、しょっちゅう忘れるなぁ」
アンタが幽霊だって。貴央は心底可笑しそうに笑って言った。さざ波が走ってきて、貴央の足首を掴んで濡らし、後ずさっていく。

「昔よく来たんだ。夏に、母親と」
ぱちゃぱちゃと軽やかな音を立てながら、目を閉じて、砂と水の中を歩く。足の指の間に砂がずるずると入り込む。
小さい頃は、足を取られる感覚が怖くて、海に入るのをためらっていた。母親に連れられて、ようやく慣れることができた。
今はもう、怖くない。
「いつ来ても人いねぇの、ここ」
苦笑しながら水を蹴り上げる。塩水が一回転して貴央の額を濡らし、「うわ」という間抜けな声が上がった。
閻魔は依然としてその場から動けず、眩しそうに貴央と、その後ろの巨大な夕日を見ている。
「来いってば」
手招きで再度促され、閻魔はおずおずと前へ進んだ。隣に立つと、貴央が満足げに微笑して水平線に目を向けた。
視界いっぱいの太陽が、水底へと沈もうとしている。世界は朱で塗りつぶされ、遠くを飛ぶ白い鳥が少し濁った声を響かせていた。
二人はしばし声を失う。


「きれい」

思わずそう零した閻魔の横顔を見つめながら、貴央は
「だろ?」
と少し得意げに言った。閻魔は呆然としてその大きな赤い空を見上げていた。


「君とこんな所に来るなんて、思わなかった」

貴央は上手く理解が出来ず、眉を寄せて答えた。
「そりゃ、つい数時間前に言いだしたからな」
そんな貴央を見て、閻魔は目を細めて緩く笑った。平らかな笑みだった。
貴央は最後まで、その笑みの意味を分からずにいた。



聞こえるのは海風の通る音と、波が寄せては返す音。
潮の匂いが濃くなり、夜の気配に気付く。湿気を含んだ風が髪を煽る。
眼前に広がる果てしない夕焼け空を見つめながら、彼らは太陽が完全に沈んでしまうまで、黙ってそこに立っていた。






明日は日曜日。
それが終われば、月曜日が来る。





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