明日はちょっと一人で色々回ってくるよ。
大丈夫、最後の日は貴央君といるから。


自宅の最寄り駅に着くころには日はとっぷりと暮れていて、別れ際に閻魔はそう言い、貴央を残して宵闇に消えていった。
最後の日。
閻魔が残酷なほど柔らかな声音で何気なく言ったその言葉に、貴央の胸の奥は静かに緊張を始めた。
恐らく、自分の思い出の地や人々に別れを告げに行くのだろう。彼は一人で着々と準備を進めている。
ああ本当に最後なんだ。
ぼんやりとした実感が芽生え始め、回らない頭を抱えたまま夜を越え、貴央は日曜の朝を迎えた。


例によって母親は仕事だった。人の気配を気にしながら考え事をするのは嫌だったので、家の中に一人なのはかえって都合がよかった。
ベッドにもたれかかりながら床に座り込んで、貴央はただひたすら黙って思考を巡らせていた。しかし、あまり正常に働いてくれない。頭に酸素が足りていないような気さえしてきた。
うつろな目で虚空を見上げていると、たくさんの感情と言葉が生まれては消えて交差していく。けれど処理はまるで追いつかない。

最後だと分かっていても、貴央はどうしても閻魔の消滅を想像することが出来ずにいた。
全てが嘘のようで、でも確かに真実で、閻魔は貴央の前に現れる。そして、去っていく。
貴央は、どうするのが一番上手な別れ方なのかを必死に考えていた。
泣いて縋るか、無理矢理笑って手を振るか、期待外れなほど素っ気なく見送るか。
捻り出したモノクロの光景が浮かんでは消えていく。考え出すと止まらない。そしてだんだんと何も分からなくなっていく。
それはどうでもよくなること、つまり思考の拒否に相当する。

忘れる準備をしておかなくてはならない。
もしくは楽しかったことだけを覚えておく。
そして、どんなにぶっきらぼうで感じが悪くなっても構わないから、「ありがとう」と「さよなら」を言う。
頭の中ではいとも容易くそれが出来ている。脳内の自分はとても物分かりがよく、潔く、綺麗に見えた。

貴央は膝を抱えてそこに額を押し付けた。
出来るわけがない。貴央は胸の中で重々しく呟いた。
忘れられないということは思い出にすることが出来ないということである。
そうなると、閻魔は永遠に過去にならず、貴央は永遠に過去を生き続けるというパラドクスが出来上がる。
誰かが引っ越すだとか、留学するだとか、そういう次元の問題ではない。
いくら努力しようと絶対に会えない場所へ、彼は行こうとしている。
すなわち貴央が忘れてしまえば、彼は本当の意味で消えてしまう。
彼の墓石を探すことも考えたが、そもそもどこの誰だかわからないのでは自力で探すのは困難である。
ならば彼に聞けばいい。最後くらい質問に答えてもらおう。貴央は頷いた。
すると、次から次へと質問が浮かび上がった。聞きたくても聞けなかったことから、うんざりするくらいくだらないことまで。ついでに、山ほど積み上がっている文句も一緒に。

貴央は肩を震わせて首を振る。
きっと上手く話せない。言いたいことなど何一つ言えずに終わってしまう。
彼が「じゃあね」と言って手を振る姿を呆然と見上げているだろう。
先程の正しい光景よりも、もっとずっと簡単にそれは映し出された。夕暮れの色や彼の笑顔、ひやりとした空気と切なげな金木犀の匂いまで、腹が立つほど鮮明に。
部屋は今、驚くほど静かである。


貴央は短く息を吸い込み、膝をきつく抱いた。数秒後に、くぐもった嗚咽が漏れる。
瞼を強く膝に押し付けても、大粒の涙が生み出され、破裂し、ぐしゃぐしゃになって足を伝う。そうしていくつもの弱々しい水の跡を作っていく。胸に連動して気管が締まっていくような気がして、熱を持ったそこは呼吸を妨げる。
貴央は、底なしの闇に取り残されたような、あるいは何か大きな脅威が後ろに迫ってきているような怖さを感じていた。

明日など来なければいい。
「嘘だよ」と言っていつものようにからかってほしい。
幽霊など見えなければよかった。
どうしてアンタは死んでしまっているんだろう。
触れられないことが、別れが永遠であることが、こんなにも辛い。

涙と嗚咽と共に、頭の中でいくつもの叫びや問いが溢れて流れ出す。
力のこもった指先に掴まれた膝に赤い跡が残っている。鼻水で鼻が詰まり、呼吸がままならず口を開けば、酷い嗚咽で咳き込む始末。
滑稽なほど喉は間抜けな悲鳴を上げ、秋も深まるというのに体はじっとりと熱を持ち、汗ばんだ肌にTシャツが張り付いている。
空気は流れを止め、時計の音だけが時間の存在を主張していた。


貴央は完全に気付いてしまった。

ずっと錯覚だと思っていた。
仲良くなった友達が転校してしまうようなものだろうと。
彼は霊で、そもそも男で、そんな感情はありえないものだと思っていた。
幽霊にここまで執着するなんて、馬鹿げている。
しかし彼のことを考えるたびに胸が張り裂けそうになると、これが単なる友人に対しての気持ちだと思い込むのが困難になってきた。
彼の言葉や笑顔はあまりにも優しく、貴央を暗い場所から掬い上げ、ためこんでいた言葉や感情を引き出してきた。
彼と過ごした一日一日に美しく色が付き、貴央の体の一部となっていった。それはとても強固で、鎧にも剣にも成り得るだろうと思えた。
他でもない自分自身を、もうこれ以上ごまかせない。
彼のことを考えると息が詰まる。全てがどうでもよくなる。
彼しか視界に入らなくなる。

もう疑いようがなかった。
狂おしいほど、彼が好きだと。


貴央は膝を抱えていた腕を解き、床に手を突き声無き絶叫を上げて泣き崩れた。涙がばたばたと音を立ててフローリングを打つ。汗の滲む額や頭皮で、くすんだ金色の短い髪が乱れていた。
窓の外はいつの間にか夕暮れで、太陽が夜の手を引いてきているところだった。


「はなれたくない」

誰に向けてでもなく、貴央は死んでしまいそうな声で呟いた。






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