僕が転生する時、どうしますか


とても静かな夜に、鬼男は不意に閻魔に尋ねた。
閻魔は少し下がっていた瞼を上げて鬼男の横顔を見やる。自身と同じ赤い目は酷く落ち着いていた。

「どうって」
閻魔が聞き返すと、鬼男は少しの間黙った後、存外澱みのない声で答えた。
「泣きますか。笑って見送りますか。それとも、どうもしませんか」
不自然なほどにフラットな声を聞きながら、閻魔は一度深く目を閉じた。冷えた指を組み直して一呼吸置く。
「いってらっしゃいって言うだけだよ」
鬼男の口元が僅かに動いた。閻魔は沈黙を少し恐れてすぐに口を開く。
「逆に聞くよ。どうしてほしいの」
鬼男はどこか諦めているように眉間にしわを寄せ、ようやく閻魔の方を見て呟くように言った。
「僕が望んでどうなるんですか」
閻魔は何も言えずに、口をつぐむ。

その二日後、鬼男は輪廻へ還っていった。


いってらっしゃいと言うだけ

随分と簡単に言ってしまったなぁ、と、輪廻の門の前に立ちながら閻魔はぼんやりと思う。
けれどその言葉に嘘はない。
何故ならそれは当たり前のことで、仕方のないことだからである。
しかしそれは『何の手も打たない』ということとは違う。


「契約破棄をなさいませんでしたね」
いつの間にか背後にいた泰山の言葉に、閻魔はゆっくりとした動きで振り返った。
静かな葛藤を胸に秘めた表情の泰山を眺めてから、閻魔は世にも稀な、今にも泣き出しそうな壊れかけの笑みを浮かべた。

「ごめんね、一回だけ」






深夜、閻魔は貴央の部屋のフローリングに降り立った。
真っ暗闇の中から聞こえる規則正しい小さな寝息に、閻魔は安堵する。
透けた足を一歩一歩進め、密やかな空気の中で眠る貴央の前に立った。
思ったより穏やかな寝顔を見つけ、閻魔は微笑んだ。しかしその肌には涙の跡が残されている。
閻魔は予想していた。だからこそ昨日一日、彼を一人にした。彼には思い悩み一つの考えに行きつく時間が必要だと、自惚れではなく事実として知っていた。

だらりと下がった閻魔の手が、じわりと色を持ち始める。向こう側の壁が見えていたそこに白い肌が現れると、閻魔はそれを貴央の頬へ持っていった。
指の節でそこを辿り、もし涙が流れていたならばそれを拭うような仕草をしてみた。手から滲み出る慈しみが貴央の肌に浸透していく。
閻魔は目を細めた。夜目のきく彼には、暗闇の中でも貴央の姿がきちんと捉えられている。
顔の横に投げ出された貴央の手に目が留まった。随分前に指摘して機嫌を損ねられた、形のいい指と爪。触れると節が固さを主張し、男のものであることがわかるけれど、それでもやはり美しいと思える造形だった。
閻魔はベッドのすぐ傍に膝をつき、貴央の手を自身の両手で包んだ。体温を確かめるように幾度か触れ直し、掌を軽く撫ぜ、爪に指を滑らせる。閻魔はゆっくりと息を吐いた。

契約である血を辿り、どうしても貴央に会いたかった。
閻魔の望みはただそれだけだった。
それだって上手くいくかわからない不確かな繋がりで、賭けでもあった。自分の血が輪廻の流れにどこまで逆らえるのか、予想がつかなかったからである。何しろこういった事例は初めてだった。
全て精算されてしまうかもしれない。薄れて力が残っていないかもしれない。
そうした数々の可能性を予想しながらも、一縷の望みにかけ、閻魔はひたすら待った。
そして彼らは再会した。貴央も閻魔を見ることが出来るという、最高の形で。
そしてそれは後に最悪の形となる。

失われていく時間を貴央が恨んでいることに、閻魔は気づいていた。迫るタイムリミットに焦り、故に一日一日を大事に過ごそうとしていた貴央の健気さを、閻魔はずっと黙って見ていた。
そして、溢れそうな気持ちが声にならずに貴央自身の中でくすぶっていることもわかっていた。
閻魔に対するその感情の熱さは痛々しく思えるほどにひたむきで、この体が人間であったなら今頃狂うほどの歓喜に見舞われているだろうと閻魔は想像する。
しかしその熱さの片鱗を見るたびに、彼の胸の中心は抉られていった。
貴央のその感情の発生源が、自身の血液による契約にあることを知っていたからである。
貴央の中に鬼男が居るのではない。貴央の中の閻魔の血が、鬼男としての記憶を保持しているだけである。
だからこれは決して鬼男ではない。十分承知しているはずのその事実であるにもかかわらず、閻魔は何度も口にしそうになっては飲み込んでいた。

『君のことを、ずっと昔から知っている』

そして、血の中の記憶だけになってしまってもなお自身を求めてくれる鬼男の心に、実際本当に狂わされているのである。
貴央と鬼男を重ねている自身の罪に苛まれながらも、閻魔もまた気づいてしまった。
貴央という一人の少年に強く惹かれていることに。
きっかけは鬼男であっても、それとはまた独立した感情になってしまったということに。
閻魔を人間にする、命ある者としての強いエネルギーが貴央にはある。
彼が笑うと自分も笑ってしまう。そしてそれがごく自然なことだと思えてしまう。
彼は脅威だった。
人間の子供ごときが、『閻魔大王』という存在を脅かすのだから。
笑顔一つで。



閻魔は微笑して、貴央の手を丁寧に握り直した。
そして空気をごく僅か震わせて囁く。
「大丈夫だよ」
安らかな彼の口元に視線を移す。
「ちゃんと明日で終わりにするよ」
契約を破棄し、貴央の中の閻魔の血を消滅させてしまえば、貴央の閻魔の記憶は消えないが、閻魔への強い執着はなくなる。
何故なら、閻魔を求めているのは貴央ではなく、あくまで鬼男だからである。

閻魔が静かに息を吸い込むと、そこから色が取り込まれたように彼の肌が透明から白へ変わった。
握っていた手を離して身を乗り出し、貴央の額に触れる。指の間で遊ぶ、彼の短い前髪。閻魔は目を細めた。

君の笑顔を 永久に願う

あらわになった幼い額に、閻魔は目を閉じてゆっくりと唇を落とす。物音一つしない、まじないや儀式にも見えるような、静謐な口付けだった。
滑らかな肌の感触を記憶し、閻魔は体を起こした。満ち足りた笑みを浮かべて、潜めた低い声でそっと言う。
「おやすみ」
何も知らない閉じられた瞼と、あどけない呼吸の音を返事の代わりと取ると、閻魔は腰を上げた。
どこかぼんやりとした頭で床に立つと、カーテンの隙間から縦に細長い光が漏れ始めていた。
夜明けである。閻魔は微笑んだ。
まだ弱々しい、しかし確かに白いその光に照らされ目を閉じると、その場所から少しずつ体が透け始め、ついには全ての色を失った。
朝日の中に溶けた一人の男は、既にあらゆる思考を終えていた。






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