貴央は唐突に目を覚ました。
目尻と目頭をごしごしと擦ると、辺りを見回す。物音がしないから、母親はもう出かけている。
人の気配がしたような気がして起きたのに、いつも通り、貴央は一人だった。
首を傾げながらのっそりと起き上がり、カーテンを開けて日光を受ける。
朝だ。貴央はぼんやりと認識する。
顔を洗って鏡を見ると、思ったより情けない顔ではなかった。貴央は安堵する。
リビングに行くと、壁にかかった犬の写真のカレンダーが目に留まった。
月曜日。
貴央は胸の奥でその事実を噛み締める。口を固く引き結んで、制服に腕を通した。

全ての用意を済ませて外に出ても、閻魔は一向に現れなかった。焦りに満ちた貴央の心臓は早鐘のように忙しなく動いている。
最後の日は俺といるんじゃなかったのかよ。
ふと頭に浮かんだ自身の言葉を貴央は恥じた。まるで拗ねた子供である。
しかし最終日が運悪く平日のため、朝から傍にいるのであれば授業をさぼることさえ考えていたのに、いないのではどうしようもない。
けれど、なんとなく夕方には必ず現れるような気もしていた。朝の静かで新鮮な空気を吸い込み、頭を強制的に切り替えて学校へ向かった。
月曜の朝だというのに嫌に音のない住宅街を、貴央は肌寒く感じていた。



「貴央、お前どうした」
昼休みに、貴央はクラスの友人から声をかけられた。茶髪の友人は貴央の前の席に足を組んで座り、眉を寄せながら横目で見ている。
「どうって」
「ほら、声も死んでる」
掠れた声が出た自身の口を、思い出したようにぺたんと塞ぐ。友人は呆れて肩をすくめた。
「何、何かあったの」
乱暴な物言いだったが、彼が貴央を案じているのは明白だった。貴央は苦笑して答える。
「別に何もねぇよ」
「へー」
「ほんとだって。家事に追われてんだよ」
そう言うと友人が吹き出した。貴央は密かにほっとする。そしてこっそりと胸を押さえた。
胸の皮膚の下が極端に熱く、依然として心拍数が上がったままなのは事実だった。極度の緊張は吐き気を呼んだ。自身のメンタルの弱さにそろそろ笑いが込み上げてくる。
夕方までには持ち直さなければ。気を抜けば重くなる体を叱咤し、午後の授業の用意を始めた。





水色とサーモンピンクの混じった空を見上げて、貴央は校門を出た。
表情が相変わらず沈鬱なのは自分でもわかった。一方で速い鼓動は鳴りを潜めてくれない。ざりざりとアスファルトをずるように歩を進めていく。
あの坂にいなかったらどうしよう。
先程から頭の中を占めているのはそれだけだった。朝からずっと、彼がもうどこにもいないのではないかという激しい不安に襲われていた。
何が一緒にいる、だ。半日消えてるじゃないか。
空しい悪態をつきながらのろのろと歩いていたのに、気がつくともうあの坂の下にいた。
地面を睨んでいた視線を上げると、貴央は息を飲んだ。

いつものようにコンクリート塀に背を預けた格好で、彼はそこにいた。
透けた体の向こうに夕日がぼんやりと見え、今すぐにでもそこに溶けてしまいそうな儚さを持っている。
赤の中にいる、白くて黒い男。
初めて会った時と寸分も変わらない姿で貴央を待っていた。
貴央の胸が急激に締め付けられる。それは溢れるほどの安堵だけでは説明がつかなかった。

立ち尽くしている貴央に気付き、閻魔はゆっくりと顔を上げて笑みを浮かべた。

「お帰り」

貴央は返事が出来なかった。声が出なかったのももちろんあるが、残酷なほど優しい閻魔の声音に全身がすくんだ。
閻魔はふわりと宙に浮かぶと、あっという間に貴央の前に降り立った。もちろん実際はそうではないが、今日閻魔は地に足を付けていた。
そこで貴央は初めて気付く。閻魔が自分より案外背丈があることに。いつも宙に浮かんでいるからわからなかった。
そして、閻魔について何一つ知らない自分に今更後悔する。取り残されたまま、全てが終わってしまう。貴央は唇をきつく噛んだ。

閻魔はふっと緩く微笑んで、俯く貴央の目線の下に手を差し出した。貴央はそれをぼんやりと見る。白く透けた閻魔の左手。こうして見ると大きくて骨ばった大人の手に見えた。
数秒後、貴央は目を見開くことになる。手の先に見えていたアスファルトのグレーがだんだんとぼやけ、白く色を成していく。
掌の皺、関節の影、何よりも、重みがそこにあるという気配を感じる。夕日の橙をまとった白いその手をまじまじと見た後、貴央はぎこちなく顔を上げた。
驚きと疑問がたっぷりと含まれたその表情を見て、閻魔は目を細めて笑う。

「俺、幽霊歴長いからさ。こういうことも出来るんだ」

おどけてそう言うと、差し出した手を僅かに揺すって見せた。貴央は混乱しきった顔で視線をようやくその手に戻すと、恐る恐るそこへ指を伸ばした。
貴央の指の腹が閻魔の指の第一関節に触れた途端、はっと息を吸い込んで思わず手を引っ込めてしまった。引っ込めた手を、知らずもう一方の手で包んだ。指先が酷く熱い。心臓はうるさい。
確かな質感がそこにはあった。

「大丈夫」
閻魔はそう言って、再度手を差し伸べてきた。貴央はしばらく動けなかったが、意を決してもう一度その手を取った。
乗せた先には、それほど高くはないがきちんとした体温があった。乾いた閻魔の手とじわりと熱い貴央の手が重なる。
貴央は強く眉を寄せた。急に溢れだした何かで胸がいっぱいになりながらも、締め上げられそうな喉からかろうじて声を発する。
「アンタ、本当は幽霊じゃないんじゃねぇの」
その問いに閻魔は曖昧に微笑み、手の中の貴央の手をそっと握り、恭しく引いた。閻魔が一歩前へ進むと、引き寄せられるように貴央もそれに続いた。

とても丁寧に、一歩一歩坂を登っていく閻魔の背中を、貴央は呆然と眺めていた。実体化しているのは握っている左手だけなのに、今日の彼は何故かやたらとクリアにそこに存在しているように見えた。
開きっぱなしの唇が震え、顔は閻魔の背中へ向けたまま、目線だけを繋いだ手に下ろした。
人間の肌の感触が、信じられないことに今貴央の手の中にある。生き物としての熱もある。指越しに、とうの昔に止まったはずの彼の鼓動が伝わってきそうだった。
自分が今歩けているのが嘘のようだった。全ての所作がゆっくりとしているのに、その一方で頭の中だけが目まぐるしく動かされている。眩暈がしそうだった。
少し怖かったが、思い立って閻魔の手を握ってみる。すると、一拍置いて握り返してきた。
あ、指が長い。
そう思った瞬間に、貴央の目頭が急激に熱くなった。実際、水分はもうすぐそこまで来ていた。
弾かれたように顔を上げると、閻魔の後ろ髪が目に飛び込んできた。柔らかく跳ねた黒い髪がすぐそばで気ままに揺れている。白い首筋と、真っ黒い着物に包まれた広い肩。頭に入ってくる鮮明な映像で目が回る。
少しも冷静さを取り戻さない頭で、どうにか辺りを見た。もう坂の三分の二まで来てしまっていることに気付き、貴央は愕然とした。
このまま登り切ったら全てが終わってしまう。急に襲いかかってきた恐怖に身が震えた。せっかく手にした彼の体温が失われてしまう。
困惑しているうちに坂の終わりが見えてきたので、貴央は自然と足を止めていた。否、動けなくなった。閻魔が振り向くと、反射的に飛び出しそうになった『行かないで』という台詞をどうにか飲み込んだ。
それでも、開いてしまった口はもう閉じることが出来なかった。

「どうしても行かなきゃだめ?」

か細く情けない自身の声を恥じる余裕はない。貴央は必死に目を開いて閻魔を見つめた。
閻魔は困ったように苦笑した。
「行かなくちゃ」
貴央は奥歯を噛み締める。
わかっている。ずるずる引き止めたって仕方がない。
成仏するのが彼の一番の幸せだということも。
一週間かけて懸命に心の準備をしてきたというのに、今それは何の役にも立っていない。
これだけは絶対に堪えようと決めていたのに、と貴央は悔しそうに俯いた。
その動きに合わせて、ぱたぱたと音を立ててアスファルトに黒い染みが数個生まれた。それだけでは留まらず、後から後から染みは増えていく。貴央の肩は小刻みに震えていた。

「ごめん」

掠れて裏返った声を、閻魔は聞いた。
「困るよな」
閻魔は眉を下げて笑う。
「困ってないよ」
いつもより一回りほど小さく見える彼の姿を、閻魔は愛おしげに眺めていた。 返した言葉に嘘はない。彼の一挙一動が、本当に嬉しい。湿った声など、思わず抱き寄せたくなるほどだった。

それでも、この手を離さなくてはならない。


「君に会えて、本当によかった」
本当は、もっとたくさんのことを話そうと思っていた。しかしここに来てそれがとても意味のないことに思え、やめた。
閻魔は全てを覚悟し終え、手を離そうと指を開く。
その時、貴央が「あ」と小さく声を上げた。
終わる。終わる。終わってしまう。手の中が空っぽになってしまう。
貴央はその瞬間、時間にしてみれば本当に僅かな間、思考の海に足を浸していた。

言うべきではない。言ってはいけない。そんなことは重々承知である。
でもどうせ、もう終わりなのだ。二度と会えやしないのだ。怖いものなどない。
それなら、とばかりに貴央は顔を上げた。さっきまでうんざりするほどうるさかった自分の心臓の音が遠ざかっていく。
今だけでいい。どうか許してほしい。
俺に、勇気を。

貴央は閻魔の手を握り直した。


「アンタが好きなんだ」
存外響き良く発せられた音に、貴央が驚いてしまった。もちろん閻魔も息を飲んで固まっている。
閻魔の背後の空に、焦げたように一部が黒ずんだ朱色の雲が見えた。夕日に焼かれたそれを見て、貴央は今なら何でも言えるような気持ちになった。その代償なのか、涙は先程から勢いが弱まらない。
溢れ出る涙を拭うことも忘れ、貴央は閻魔に伝えていく。
「幽霊を好きになるなんてどうかしてるけど、でも、本当なんだ」
閻魔は追いつめられたような顔になり、思わず貴央から目を背けた。少しだけ沈黙した後、無理矢理抑え込んだような押し殺した声で答える。
「貴央君、それはきっと違う。落ち着いて考えて」
閻魔の返答の意味が分からず、貴央は疑問を目で訴えた。その度、閻魔の胸は締め上げられる。
「別れを惜しんでもらえて、すごく嬉しい。でも君はそれを『好き』だと錯覚してる。仲の良かった人と会えなくなるのは誰だって寂しいよ。だから、君は俺を好きなわけじゃない」
お願い、これで納得して。
悲痛な思いを込めて、閻魔は目を閉じた。これ以上貴央の言葉を聞くことに耐えられるかわからなかった。
しかし、手の中で震える貴央の手に気付き、閻魔は目を開ける。

「わかってるよ」

ほとんど声になっていない貴央の訴えに、閻魔は声を出すことを忘れた。
「信じてもらおうだなんて思ってない」
首を横に振り、大きくため息をついた。昂った熱がアスファルトに落ちて浸透していく。
「俺を誰かと重ねてることだって、知ってるよ」
閻魔ははっと息を吸い込んだ。しかし自身の今までの行動を顧みる時間も余裕もない。
「だから俺にこんなこと言われても困るって、わかってる」
「貴央君」
違う、と首を振りかけて、閻魔は口ごもった。否定することに何の意味があろうか。
貴央は小さな子供のように泣きじゃくりながら声を絞り出す。
「でも、誰にも言えなかったこと、アンタには言えた。アンタは聞いてくれた。一緒にいると、何でか知らないけど楽しくて、安心してた」
ひっきりなしに溢れ出る涙を乱暴に拭い、詰まった鼻をすする。手を握る力は徐々に強くなり、汗ばんできた。
言わなければ。昨日思い描いたあの言葉。ずっと言いたくて、でも何故か言えなかった、たった一言を。


「ありがとう」


閻魔は呼吸をすることを忘れた。
自身の切り取られた視界の中に映る彼の姿だけが鮮明に目に焼き付いて離れない。
歯を食いしばって肩を強張らせ、それでも耐え切れずに泣き崩れている金色の幼い少年から、少しも目を反らせなかった。

少し咳き込んだ後呼吸を整え、貴央は告白を続ける。
「これだけ言うつもりだった。この後、ちゃんとさよならって言える予定だったのに」
語尾が潰れ、再び涙が溢れてくる。目を閉じれば蘇ってくる、この七日間。
離別に絶望した日も、朝からずっとそばにいてくれた日も、二人乗りをした日も、ずっと怖くて出来なかったことが出来た日も、海を見た日も、一人で泣き続けた日も、全てに色がついてくっきりと頭の中に映し出される。その時の空気の匂いも、聞こえた音も、触った物の感触も、残らず覚えている。
悔いが残らないように一日一日を大事に過ごしたはずだったのに、今になって一切が裏目に出てしまった。
曖昧だった気持ちが、寧ろはっきりしてしまった。
気付いてはいけなかったのに。

「俺だって、勘違いしてんだって思ったよ。でも、違うんだ。そうじゃない。何でって言われても答えらんないけど」
漏れる嗚咽が強くなる。もうすぐ喋れなくなるであろうことを悟り、貴央は詰まりかけている喉を叱咤した。

「離れたくない」

また指を強く握ってしまう。ここまで力を込めたら痛いだろうとわかっていても、縋る自身の指を止めることが出来なかった。
また数度咳き込んで滴を拭い、重い溜め息を吐きだす。しばらく沈黙した後、落ち着いたのか、ぼうっとした目で閻魔を見上げた。目の奥が熱を持ち、少し重い。
「ごめん、やっぱ信じらんないよな。俺も自分で信じらんねぇし」
自分自身に呆れて笑いながら閻魔から目を逸らし、手を離そうと指を開く。遠ざかろうとする僅かな体温を惜しみながら。

離れる直前で、閻魔が貴央の指先を握った。

「信じるよ」

閻魔は深くそう言った。
水の中で浮遊しているような感覚を覚える。胸の奥が凪いで、閻魔は目を閉じた。
血だの契約だの、今はもう、どうでもいい。

「俺も君が好きだ」

貴央が唖然として口を半開きにしている。閻魔は貴央を真っ直ぐ見ている。明るい茶色の瞳を。
閻魔は再度きちんと貴央の手を握り直した。
「だからもう一度会おう、必ず」
貴央は眉を吊り上げ、再び溢れた涙で目尻を光らせながら鋭く言った。
「適当なこと言うんじゃねぇよ。そんなこと出来るわけないだろ」
変な期待をさせるのが一番たちが悪い。そこまで言おうとして、貴央は言葉を飲み込んだ。
しかし閻魔は首を横に振る。

「本当だよ。俺達はまた会える。その時はいつか、必ず来る」
貴央は思わず頷いてしまいそうになった。
それが出来なかったのは、閻魔の体がふわりと宙に浮き、体の輪郭がぼやけ始めたからだ。貴央は思わずあっ、と声を上げた。
「待って、嫌だ」
顔を歪める貴央に、閻魔は目を細めて口角を緩く上げた穏やかな笑みを向ける。
神様みたい。貴央は理由もなくそんな感想を抱いた。
「ずっと待ってるから、その時までさよならだ」
手の中の重さがだんだんと軽くなっていく。それどころか透け始めた。しかしまだ感触はある。
今にも夕暮れの中に吸い込まれそうな閻魔を見上げ、貴央は首を横に振りながらはらはらと涙を流した。
「オッサン、待てよ、待って」
繋がりが解かれていく手と閻魔の顔を交互に見ながらも、貴央はもうその手を握り直せずにいた。どんどん高い位置に浮かびあがっていく閻魔の透けた体のパーツを一つ一つ見比べ、最後に夕日よりも紅い瞳と目があった。
唇がそっと動く。


「またね」


指と指が完全に離れる。貴央は反射的に手を伸ばすも、空を掴んだだけだった。もう輪郭すらおぼろげである。
無駄だと分かっていても手を伸ばしてしまう。張り裂けそうな胸から懸命に声を絞り出す。
「オッサン……オッサン!」
叫んで、貴央は唐突に思い出す。以前名前を聞いたような気がした。そして初めて話をした時のことを記憶から掘り起こす。

『ヤマ』

そう、あの時確か強い風が吹いていた。


「ヤマ!」
貴央が声を張り上げると、閻魔は驚いて目を丸くし、すぐにとても嬉しそうな笑顔になった。満たされていることがありありとわかる、幸福な笑みだった。
貴央がもう一度名を呼ぶと、閻魔の体は今度こそ夕闇にとけて見えなくなった。何一つ残っていやしない。見えるのは真っ赤な空と、焦げた雲と、黒い電線だけだった。
貴央は無意識のうちに手を喉にやった。
喉が枯れるほど人を求めてしまった。貴央はぼんやりとそう思いながら立ち尽くす。
しばらくそうしていると、唐突に周囲からガシャンという硝子が砕けたような音がした。はっと我に返って辺りを見ると、人が数人、道を歩いていた。
貴央は目を見張り、今になって、今まで不自然なほど人が通っていなかったことに気付く。だから今見えている通行人が突然視界に現れたような気がしていた。
道行く人は、貴央の方をちっとも気にしていない様子だった。それは意図的に目をそらしているということではなく、ごく自然に前を、あるいは下を向いて歩いている。
貴央はしばし呆然とその光景を眺めていたが、不意に頭上を見上げた。今しがた空に帰っていった男がいた場所を。
その時小さく笑い声が聞こえた気がして、やはり普通の幽霊じゃない、と不思議と冷静な頭で貴央は確信した。


夕日が空を燃やしつくし、夜へと姿を変えようとしていた。






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