その時あまりにもくっきりと鮮明に見えたものだから
本当に人間が宙に浮いて俺を見下ろしているのだと思ってしまった
青い空に浮かんだ 黒と白の奇妙な男だった




人が白昼の空に浮かんでいる。
という人生の中でも相当特異であろう怪奇を目撃したにもかかわらず、少年は特に何も悩み苦しむことなくその日、眠りについた。
まるでそんなことがしょっちゅうあって別段珍しいことでもないかのように。
少年は背中を丸めて一人で眠った。
それはどこにも意図的で無理なものはなく、自然なものだった。


何の変哲もない朝を向かえ、何の代わり映えもしない午前を過ごし、夕方にさしかかろうとしている。
やたらと長く感じた六限の後に待ち構えている進路説明会。高校二年の秋ともなると、そろそろ教師陣、主に進路指導担当が少しずつ騒ぎ始める。別に進学校というわけでもないのに、そういうところだけは律儀に勝手にモードチェンジをする。
「面倒くせぇ」
友人の吐き出したため息が灰色がかって見えた。
「帰ろうぜ」
「いいよ」
かったるそうな友人の促しに、少年はあっさりと賛成した。担任があまりがたがたと言わないタイプなので、説明会でもショートホームルームでも、誰がいないとかを確認しない。
「待って、カズとリョウ呼ぶわ。どうせあいつらも出る気ねぇだろ」
「任せた」
携帯を取り出した友人の横で、少年は廊下の壁にもたれて溜息をつく。
煙草を吸っているわけでも、薬に手を出しているわけでも、危ない集団とつるんでいるわけでもない。
ただちょっと髪を染めていたり、遅刻常習犯であったり、出なくてはいけないものに出ずに外に遊びに出かけてしまう時があるだけだ。
たったそれだけのことで根も葉もない噂が広がる。迷惑な話だ。少年は常々そう思っていた。人と関わるのがあまり好きではないため、近寄られない分には楽でいい、などと寂しいことを考えていたりもするのだが。
彼らはいい。適当な付き合いでも何の文句も言われない。何故なら少年だけでなく全員が適当に付き合っているからだ。

「来るってよ。いつもんとこでいいよな」
「おお」
生徒が一斉に体育館に向かっている中、遠回りをして教室へ逆走する。静まり返った空っぽの暗い教室に戻って鞄を掴むと、二人はさっさと出て行った。開きっぱなしの窓のカーテンが風に吹かれてバタバタと音を立てているのが聞こえた。
校門で先程呼んだ二人と合流すると、いきつけのゲームセンターへ向かった。

そこへ行くには、必ずあのスクランブルを経由しなくてはならない。少年はあの時と同じように、雑踏の中で信号が赤に変わるのを待っていた。
三人がとりとめもないことを話している横で、空を見上げる。あの時と同じ雲ひとつない快晴の中で唯一違うことといえば、あの男がいないことだけだった。
顔は思い出せない。モノトーンだったということだけ印象に残っている。
何故だか理由は全くわからないが、やたらと存在感があったということも。
まあそうしょっちゅういられても困る、と少年は視線を白と灰色の地面へ戻した。


気が済むまで適当に過ごした後、少年は一人抜けることを告げた。騒がしいゲームセンターで会話をするのは、少し声を張らなくてはならないためあまり好きではないが、まあ仕方ない。
「晩飯?」
「そ」
少年が家事をすることを知っているので、友人達は迷わずそう尋ねた。
「今日何」
「久々にグラタンにすっかな」
「お前マジ結婚してくれよ」
「考えとく」
少年の切り返しに、友人達は手を叩いて笑った。付き合いが悪いだの何だのとごちゃごちゃ言わず、気持ちよく送り出してくれる友人達に心底感謝しながら、少年は煙草臭かったゲームセンターを後にする。肺をリセットするように、外の空気を吸い込む。大して変わりはしないが、せずにはいられなかった。
外に出ると、もう陽が傾いてた。快晴だっただけあって、空は鮮やかな朱色に染まっていた。少し冷え始めた秋の空気をもう一度吸い込んだ後、少年はスーパーへ足を向けた。






家につくまでの間に、坂がある。小学生の頃からずっとその道を通って帰宅しているのだが、住宅地に挟まれたアスファルトのそれが、少年は昔から好きだった。上がっていくにつれてだんだんと見えてくる夕日の姿を見るのが特に好きだった。今この瞬間、この景色は自分だけのものなのだと思うと、不思議と嬉しさがこみ上げてきたのを覚えている。
今は、別にどうという事もなく通り過ぎてしまうけれど。
マカロニとチーズの入った白いビニール袋をだらりと提げ、ビニールの擦れる音を聞きながらゆっくりとした足取りで坂を上っていた。どうせ家の中は空っぽなのだ、急ぐことはない。
ずっと俯き気味に歩いていたが、ふと何とはなしに顔を上げる。住宅の連なりの切れたところのコンクリート塀によりかかるようにして立っている人影が見えた。一人だけで、他に誰もいない。
そんなところで一体何を、と不審そうにそれを注意深く見ると、ある事に気がついて少年は目を丸くした。

いやに背が高いと思ったら、その足は地に着いていなかった。

よく見るとその背は塀にもたれてなどおらず、それどころか少し透けていて、背景の夕日のオレンジが見えていた。
少年は思わず足を止めた。もうここまで来れば全貌が見える。白い縁取りをされた黒い着物、裾の丈が少し短い白いズボン、白い肌、黒い髪。
あの時青の中にいたその男は、今は赤の中にいた。
少年が声を失って棒立ちになっていると、男は彼に気づいてそちらを向いた。ゆっくりと口角が上がり、笑みが浮かぶ。

「昨日の……」

少年は知らずそう口にしていた。それを聞くと、男はふわりと浮き上がって、文字通り飛んできた。それを見て少年ははっと我に返る。
「覚えててくれたんだ」
男が少年の左肩の辺りに顔を寄せると、それに合わせて少年は顔を右へ背けた。すると男は、今度は宙を泳ぐようにして右側に移動した。
「俺も覚えてるよ、『キオ』君でしょ?」
少年は答えずに左を向く。するとまた左側に戻ってきたので、埒が明かないと判断し、前進した。当然のごとく、男はその背を追う。
「何で無視するの。見えてるんでしょ俺のこと」
少年は尚も無視を決め込む。知らず大股になるが、空中をすいすいと移動できるこの男を引き離すことは出来ない。男はしつこく声をかけ続けている。
「ねーなんか喋ってよキオ君」
アスファルトを踏みしめるスニーカーの音がどんどん乱暴になる。まるで怪獣だ。
「キオ君キオ君キオ君」
ビニールのしゃらしゃら鳴る音がやたらと大きく響いているような気がしてきた。

「ねー」
「だあぁぁもう鬱陶しい!」

声を張り上げてぴたりと立ち止まり、少年は頭を抱えた。しかしすぐに顔を上げ、近くに人がいないか慌てて確認する。とりあえず人影は他にない。少年は深く安堵の溜息をついた。
「やっと返事してくれた」
苛々の元凶は隣できゃらきゃらと笑いながら満足げだ。腹の立つほど嬉しげな顔を、少年は勢いよく睨みつける。
「何なんだよお前は。俺に何か恨みでもあるのか」
「だって声かけてんのに無視するから」
「お前みたいにしつこいのは久しぶりだ……隙見て取り付こうったって無駄だからな」
「取り付く?何それ」
心外そうに男が聞き返すと、少年が心底嫌そうに顔を歪めた。
「そうやって『何にもしませんよ』って顔した奴が一番タチ悪いんだよ。こっちが安心して気ぃ許した途端に……」
「憑依されちゃうんだ」
「いや、それはない……あ」
何かに気づいた少年は、ポケットから携帯を取り出した。スライドさせたが何もボタンを押さず、耳に押し付ける。男が不思議そうに首を傾げた。
「何してんの」
「電話してる振り」
「振り?」
「怪しまれんだろ」
面倒くさそうな顔の少年を見て、男がああ、と納得した声を上げた。怪奇と付き合ってきた彼の編み出した、平穏に生きていくための知恵なのだろう。その術を知らなかったときの苦労を想像すると同時に、少年が話す体勢になってくれたことに男は素直に喜んだ。

「ねぇキオ君、名前の漢字教えて」
「漢字?何で」
「いや、珍しい名前だから」
「……貴重品の『貴』に中央の『央』」
「かあっこいい」
「よくタカオって間違えられるけどな」
感嘆の声を上げられ、貴央は照れくさそうに眉を寄せて虚空を見上げた。空が赤々と燃えている。
「アンタ何なの。俺のご先祖様か何か?」
「あ、やっぱ俺って幽霊として扱われてるんだ」
「当たり前だろ。……何、自覚ないわけ?」
「……いや」
まあしょうがないか、と複雑な表情を浮かべ、一房だけ残した前髪をちょい、といじった。
一方貴央は、ふと自分が男の顔をきちんと見ていないことに気づいた。不自然にならない程度に視線を男の顔に向けると、おかしなものを見つけたような目をして眉間に皺を作った。
「いや、先祖なわけねぇな……どこの人?目赤いから外人だよな」
男はきょとんとしてしばらく黙っていたが、瞼に手を当て、ううん、と唸って首をひねった。
「わかんない」
「わかんない?覚えてないの?」
男が頷くと、貴央は呆れ顔になった。
「そんなに長いこと幽霊やってんのかよ……可哀想な奴」
何とも言えず、男は目を泳がせている。貴央は別段その様子を気にせず、さらに尋ねた。

「じゃあ名前は?」

男は再び黙った。貴央が今度こそ憐れみに満ちた表情で男を見つめる。
「まさか名前も?」
男は答えない。閉じられた唇がどこか寂しげだった。あまりつついてはいけない部分だったらしいことに気づき、貴央はばつが悪そうに自身の短い金髪を指先でいじった。
不意に、男の口が開かれる。


「ヤマ」


ざ、と風の鳴く音が通った。背後に立つマンションの周りに植わった木々の葉がそれに呼応してざわめく。
男の着物のたっぷりとした袖がばたばたと乾いた音を立て舞い上がった。顎の辺りまである長さの髪が風に踊り、白い顔の表情を隠す。ちらちらと髪の間から見える赤い瞳が、貴央を真っ直ぐに見据えていた。夕陽を背にして橙に縁取られた男の姿から、貴央は目をそらすことが出来なかった。
風が止んだ。貴央が何度か目をしばたたかせる。
今、一瞬だけ別世界に飛んだような気になった。
本気でそう思った自分に気味が悪くなり、貴央は少しの間地面を睨んだ後、男に視線を戻した。

「山?」
つい数秒前までの真剣な表情が一瞬にして崩れ去り、男はがくりと肩を落とした。しかしすぐに気を取り直して貴央の方に身を乗り出した。
「ヤ、マ!アクセントは『ヤ』!」
必死に主張するが、貴央は面倒くさそうな顔をして鼻を鳴らした。
「いいや、なんか呼びにくいし、オッサンで」
「オッ……!」
男は衝撃で石化した。貴央は手に提げたビニール袋を持ち直すと再び坂を上り始めた。どうにか復活した男が、背後で情けない声を上げる。
「ねぇ、どんな名前で呼んでもいいからオッサンだけはやめて」
「じゃーなオッサン、早く成仏しろ。家までついてくんじゃねぇぞ」
耳から携帯を外してポケットに収めると、さっさと坂を上りきって行ってしまった。小さくなっていく背中を呆然と眺めながら、男は深く溜息をついた。
「鬼男君にだってたまにしか言われたことないのに……」
もう、と口を尖らせると、先程聞いた漢字を頭の中に浮かべる。
「貴央ねぇ」
ばつの悪そうな顔をしながら、男は目を細めた。
「音読み、としか思えんな……」
再度、今度は長く息を吐くと、沈みかけの太陽を眩しそうに見上げて呟いた。

「俺の呪いかな」

閻魔は苦笑しながら目を閉じ、朱と藍が混ざった無風の背景に溶けていった。





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