昨日どうやって家に帰り、どうやって眠りについたのかが思い出せない。 机に頬杖をつきながら貴央は溜め息をついた。頭はじんわりと重く、目を開けているのが億劫だった。 「あの、茨木君」 貴央ははっとして声のする方へ顔を向けた。以前貴央を好きだと言った少女が視界に映り込む。あれから席替えをしていない。 「大丈夫?具合悪い?」 おずおずと言う彼女の顔をぼんやりと見ながら、貴央は「平気」と言って体を起こす。掃除が終わっても帰ろうとしないので不思議に思ったのだろう。 貴央は少女に視線を注ぎながら思う。 貴央は彼女の思いに答えることは出来なかったが、貴央は今もここにいる。教室で会うこともできる。話すことも、もちろん。 『彼』は貴央を好きだと言ってくれたが、『彼』はもうここにはいない。どんなに焦がれたとしても、もう二度と姿を見ることも声を聞くことも叶わない。 どちらがより不幸ではないのだろう。貴央はふとそんなことを考えてしまい、静かに自己嫌悪した。 比べても、仕方ない。 「大丈夫だよ」 まだ心配そうな顔の少女にそう言って力なく笑いかけると、少女の頬がちょっと赤くなった。しどろもどろになっている少女を、貴央は少し可愛いと思えた。 「早川」 唐突に名を呼ばれ、少女は弾かれたように顔を上げる。貴央は何か言おうとして、慌ててその言葉を喉元まで押し戻した。 一緒に帰らないか そんなことを言おうとしてしまった。貴央は激しく後悔し、同時に踏み留まれたことを安堵した。 同情からではない。完全に貴央の都合だった。 「何?」 隠しきれない期待が垣間見える瞳が貴央を伺う。罪悪感に襲われながら、貴央は視線を床に落とした。 教室に残っている生徒による微量の喧騒が耳を掠める。貴央は懺悔するように目を閉じた。 「ごめん、何でもない」 少女が「えっ」と困った声を上げたので、貴央は逃げるように教室を出ていった。 こういうやり方はずるいし、相手の体にもよくないと分かっているのに、余計な言葉は無意識のうちに口から出ていた。貴央は奥歯を噛み締める。 貴央は目の前に続く坂を見上げて言葉を失った。 今日は晴天だった。頭上に広がるのは感嘆に値するほどの見事な色彩の夕暮れ。 しかし昨日とは確実に違う夕暮れである。それはこれからもずっと。 貴央が恐れていたのは『彼』との離別の瞬間だけではない。 ここを一人で登り切る自信がなかったのだ。 たっぷりと立ち尽くした後、ようやく爪先を前へ出す。足の裏が理不尽さに怒っていた。何故前へ進まねばならないのだ、と。 一歩踏み出してしまえば案外なんとかなるもので、ぎこちないながらもどうにか前進できた。 俯いていた顔を無理矢理上げ、貴央はブロック塀から見える木々に目を向けた。イチョウの山吹色が目に優しい。微風が吹いて、葉と葉がこすれ合ってさわさわと言った。 濃い緑の合間で控えめに佇む赤黄色の小花、金木犀の甘い香りが漂っている。そこに混じる、少し素っ気ない秋の匂い。少し先の方に見える、紅葉の泣き出しそうな赤色。 貴央は足を止めた。そして空気を吸い込む。鼻腔を満たす秋を感じ、堪えきれずに塊となった溜め息を吐きだした。 秋はこんなにも美しかったのに。 目に映る全てが色鮮やかに見え、その儚さに絶句する。貴央を取り残す甘美な香りも、肌を撫でていく無表情の風も何もかも。 どうして今まで気付かなかったのだろう。これを一緒に見て、共に綺麗だと賛美し、笑い合えばよかったのに。 貴央は顔を覆った。いつの間に『彼』ばかりを目で追うようになったのだろう。 自分自身に呆れかえってその場に立っていられなくなり、貴央は一気に坂を駆け上がった。スピードに乗ると、一瞬思考が飛ぶ。 何も考えられない状態がいつまでも続けばいいのに。貴央はそう思った。 逃げ込むように自宅のマンションに戻った。唐突に全力疾走をしたせいか、呼吸の乱れは酷かった。 大きく上下する胸を押さえながら、コップに水道水を注いでゆっくりと飲み干す。カルキの味が口内に広がり、思わず咳き込んだ。 鞄を床に置き捨てると、ふらふらと自室に入った。いつも通りの慣れ親しんだ部屋の匂いにほっとする。 机の上が授業プリントやら教科書やらで見えなくなっていることに気付き、吸い寄せられるように机に近づき、分類を始めた。 何枚目かのプリントをめくった後、貴央はそこに挟まっていた小さなメモ用紙に気付いた。見たところ何も書いていないのでひっくり返してみると、明らかに自分のものではない、流麗な文字がそこにはあった。 『食器棚 白くて大きなお皿の間』 貴央は首を傾げ、興味本位で台所へ向かった。食器棚の戸を開けて、パンについている得点シールと交換にもらった白い皿を一枚持ち上げる。 そこに先程のメモと全く同じ紙があり、貴央は目を丸くした。 同じく裏返しになっているそれを手に取ると、同じ筆跡の文字を読み取る。 『洗面所 黒いワックスの下敷き』 貴央は洗面所へ走った。愛用している自分のワックスの下にそれは挟まっていた。そういえば今朝はワックスを使うのを忘れていた。引き抜いて裏返すと、今度は『リビング テレビの裏』とあった。 そうして貴央は家中を駆けずり回った。ちっぽけな紙切れに振り回されて。 もう少し不審に思ってもいいくらいのその謎のメモを、貴央は不思議と信用していた。次のメモを求めて足が弾み、指示が下されるたびに鼓動は速まっていった。 自然と笑みが浮かぶ。同時に涙もうっすらと滲む。 「あいつ絶対幽霊じゃねぇ……!」 何枚にものぼるメモが、貴央の手の中で温められていた。 『二段目の引き出し』 トイレのトイレットペーパーの間に巧妙に差し込まれていた最後のメモにはそう書かれていた。 場所の指定が抜けていたが、貴央はそれが自室の机を指しているとすぐにわかった。 「面倒くせぇことさせやがって」 苦笑しながら引き出しを開けると、薄水色の封筒が待っていた。貴央は笑いながら俯き、しばらく封を切れずにいた。 「いつ仕込んだんだよこれ」 喉を鳴らしてひとしきり笑った後、ようやく封筒を手に取った。ご丁寧にきちんとのりづけされていたので、注意深くハサミを入れる。 便箋をそっと取り出して中を見ると、メモと全く同じ文字が連ねられていた。改めて整った字だと思いながら、貴央はゆっくりと文字を目で追い始めた。 『貴央君へ お疲れ様。楽しかった?すごいでしょう、俺メモも残せるんだよ。高尚な霊だからね! 君に会えなくなるのはすごく寂しいけど、いずれ必ず会えるから、その時またたくさん話を聞かせてほしい。 君といられて楽しかった、ありがとう。 それではしばしのお別れの間、どうかお元気で! またね。 ヤマ』 貴央は知らずに頬を伝っていた涙をぞんざいに拭った。そしてぽつりと不貞腐れたように呟く。 「しばしとか適当なこと言うなっつったのに」 貴央は不意に、彼が無事にあの世へ行けたのか心配になった。 そもそもあの世というものが本当にあるのかもわからない。その存在をこの世に伝える術がないのだから。 貴央がいつか死んでも、会える保証がどこにあろうか。 眉を寄せて短くため息をつき、手紙を封筒に戻そうとすると、折った便箋の角が何かに当たって阻まれた。見ると、まだ中に一枚残っていた。 取り出してみると、便箋の四分の一くらいの大きさで少し厚手の上質紙だった。不思議に思いながら裏返す。 白の中に、筆で書かれた荘厳な漆黒の文字が一字一字置かれていた。 『我 汝の全てを守る』 膝の力がいっぺんに抜け、貴央はその場に崩れ落ちた。大粒の涙がぼろぼろとフローリングへ音を立てて零れ落ちていく。どうにか残っていた理性が、吠えるような泣き声を押し留めていた。 会えるかどうかなんてどうでもいい。 書かれた言葉の意味も正直よくわからないけれど、彼の守護があるのなら俺は何だって出来るだろう。 精いっぱい生きてみよう。 いつか彼の前に立っても恥ずかしくない人間になろう。 貴央はその『御守』を両手で包みながら、そう固く誓った。 |