「泰山」 書類を机に置こうとしたところで不意に名前を呼ばれ、泰山は顔を上げた。 閻魔は表情のない顔で口だけを動かして言った。 「ただいま」 はっとして、机に向かい黙々と仕事をしている閻魔を見下ろした。彼の「ただいま」は、閻魔の霊体が下界から回収されたことを意味する。 一体どうやって離別を果たしたのだろう。 とても気になるところであるし、何と声をかけていいかわからず、泰山はしばらく言い淀んだ後に無理矢理言葉を発した。 「御疲れ様でした」 言ってしまってから後悔する。もっとずっとふさわしい言葉があったように思えたが、後にふさわしい言葉などないことに気付く。 「今日の仕事はこれで仕舞いかな」 「はい、これで最後……」 言いかけて、先程渡したばかりの書類がもう処理されているのを見て泰山は息を飲んだ。閻魔の顔を再度見ても、相変わらず色は見られない。 「……はい、以上です。お疲れ様でした」 同じ言葉を繰り返し、所在なさげにその場に立ち尽くす。そうこうしているうちに閻魔が書類を整理し終え、席を立った。 「お疲れ様。また明日」 生気のない黒い後ろ姿を見守りながら、泰山は慌てて頭を下げる。バタンという扉の閉まる大きな音が拒絶のように聞こえた。 一人部屋に残され、泰山は悩んだ。 今閻魔を一人にしていいのか。後を追うべきなのか。 閻魔は王であるが、従者に着替えや入浴を手伝わせるということは一切しない。それは昔からのことで、誰もそれを疑問に思っていない。 干渉をするのもされるのも好まない人物なのである。泰山はそう心得ていた。 やはり追うべきではない。 そう判断し、自身の残りの業務に手を付けた。 半刻ほど過ぎた後、泰山は眉を寄せた。 何故か背筋に寒気が走る。どこかから重い闇がどろりと流れ出ているような気がしてならなかった。 不安に駆られ、慌てて席を立って執務室を飛び出す。深夜の廊下を走りながら、いくつもある閻魔の私室をいちいち確認するまでもなく泰山はそこに辿り着いた。 空気が不自然に重い。そして澱んでいる。泰山はごくりと喉を鳴らして扉を睨み、開けた。 部屋の中は真っ暗だった。息苦しいほどの空気の濃さ、うねりが泰山の全身を襲う。そしてその中心にあるものを見つけ、絶句する。 うずくまって頭を抱えている閻魔の髪は床を伝うほどに伸びていた。水の中を浮遊しているかのようにくらくらと揺れている。大量の黒い蛇がずるずると這っているようにさえ見えた。 「大王!」 泰山は叫び、閻魔のもとへ駆け寄った。肩に手を添え軽く揺すっても、閻魔は無言のままである。 「どうなさったんですか」 長く伸びた髪のせいで目元が見えず、半開きの唇と顎だけがかくかくと揺れている。 泰山は知っていた。閻魔の意に反して体に異変が起きたわけではない。閻魔自身が乱れ、それに付随して体に異常をきたしているのだ。 理由など、すぐに見当がついた。 「どうしてです、契約を破棄されたのではなかったのですか」 「したさ」 存外早く返ってきた返事に泰山は怯んだ。低くしゃがれた声だった。 「もう『彼』は残滓すら残ってはいないよ」 その言葉に、泰山もまた口をつぐむ。 「もう遅かったんだ、何もかも」 閻魔は呟いた。 「私は恐ろしいことをしてしまった」 ひゅうひゅうという風のような呼吸が微かに聞こえてくる。泰山はもう片方の手を閻魔の背に添えた。 「あの契約さえなければ、彼はあんな、霊が無限に寄ってくるような汚れた体にならなかった。 もっと自由に生きられたはずだし、他の誰かを好きになったはずだ」 閻魔の脳裏に、貴央から聞いた話と熱を出した時に群がっていた霊の大群、そして彼の隣の席の少女が浮かぶ。 「それでも、彼の気持ちが嬉しかった。彼の意志ではないとわかっていたし、彼の私への思いが私の罪の証であると知っていても、喜びで気が狂いそうだった」 閻魔の爪が自身の頭皮を抉らんばかりに食い込む。泰山はそれを止めることが出来なかった。 「転生の時に血を消さなかったのがそもそもの間違いだったんだ。わかっていたのに。血を残せば、その中に『彼』も残ってしまうとわかっていたのに。だから消さねばならないと。覚悟していたのに」 出来なかった。閻魔は消え入りそうな声で零した。 「彼に会いに行くのだって、本当に少しだけ、一目見るだけでもいいと思っていた。往生際が悪くて、結局近づいてしまったけれど」 閻魔は短く息を吸い込んだ。 「夢にも思わなかったんだ」 伸びた前髪の合間から、大粒の涙が二つ、ぼろりと落ちた。 「『彼』が私をもう一度愛してくれるだなんて」 冷たい床の上に、大きな雫が後から後から、ぼたぼたと音を立てて落ちていく。 「やっと契りを切れたのに。彼らを自由に出来たのに。私は酷く後悔している」 閻魔の声が湿り、掠れだした。子供のように背を丸め、肩を縮こまらせる。 「あの血の中の『彼』の記憶は記憶であって『彼』自身ではないのに、『彼』の存在をこの手で消してしまったような気がするんだ」 閻魔は一度だけ強く首を振った。 「こんな思いをするとわかっていたなら、ちゃんと転生の時に消しておいたのに」 嗚咽混じりの閻魔の懺悔は続く。 「血が消滅したことで私への執着がなくなった今の彼は、長い年月の間に私のことなど、きっと忘れてしまう」 泰山は閻魔の口元に耳を寄せたいと思う一方で、耳を塞いでしまいたい衝動に駆られていた。悲痛な声が泰山の胸を貫いていく。 「いつか彼ともう一度会う時、私の映らない彼の瞳を見るのがたまらなく恐ろしい」 泰山は閻魔の肩を握る力を強めた。それはやり場のない思いだった。 「あんな未練がましい手紙まで残して、滑稽にもほどがある」 ふふ、と笑って閻魔は嘲笑った。 「どうしてだろう泰山。悲しいことなんてずっと昔にたくさんあったから、涙なんてとうに枯れ果てたはずなのに」 閻魔はうっすらと笑っていた。 「止まらない」 最後は声にならなかった。酷くみっともない声だったが、自己嫌悪する余裕などあるはずもない。 「こんなにも彼らをねじまげてしまったのに。許されるはずがないのに」 閻魔は髪から指を抜き、顔を覆った。あああ、と唸り声を上げた後、蚊の鳴くような声で言った。 「なのに、だめだ」 閻魔はもう一度あああ、と言った。そして引きつった声のまま、溢れ出させた。 それは叫びのようだった。 「彼を愛してる」 泰山は思わず閻魔の肩を抱きしめた。 部下としてだとか、眷属としてだとか、そういうものとは関係なく、そうしなければと思った。 一筋の光も差さない部屋に響き渡る閻魔の嗚咽と涙の落ちる音を聞きながら、泰山は強く目を閉じる。 閻魔はもう一言も言葉を発さなかった。 ただひたすらに涙を流した。 明日からは『人間』から『閻魔大王』に戻れるようにと、体の中の全ての思いを床の上へ落としていった。 |