上宮という男がいる。
政治経済の教員で、二年五組の担任。
体育教師でもないのに年中青いジャージを愛用している変わった人物で、推定年齢三十代であるにもかかわらず一人称は私。
いつも適当でやる気がなく、特に授業中のテンションのアップダウンが激しいが、テンションが高い時の授業はそれなりに面白い。
仏教徒らしく、趣味は寺巡り。
実は財閥の息子で教職は単なる趣味でやっているのではないかともっぱらの噂。
独身。彼女もいない。

これが貴央の知る、上宮に関する情報の一切だった。
本人が授業中の無駄話として口走った内容もあれば、誰かから聞いた話も混ざっている。
信憑性云々は置いておいてとりあえずはっきりしたのは、「よくわからん人物」であるということだけだった。

職員室のドアの前に立ち、一度深呼吸をする。
貴央はひっそりと苦笑した。担任に話をしに行くだけなのに何をこんなに緊張しているのだろう、と。
これでいなかったら笑っちゃうな。
胸の中で呟きもう一度苦笑して、ドアを軽くノックした。
入ると中は白く、コピー用紙とコーヒーと大人の匂いがした。そして教師の机の上というのは、総じてぐちゃぐちゃである。
ドアに貼ってあった配置図を思い出しながら辺りを見渡したが、その場所に青ジャージの代わりにスーツが座っていて貴央は少し驚いた。
「先生」
机まで速足で向かい声をかけると、上宮は眠そうな目で振り返った。
チャコールグレイに薄いストライプの入ったすっきりとしたデザインのスーツは、それだけで男を聡明に見せた。
「どうしたんスか」
「何が」
「ジャージじゃない」
「ああこれ?出張よ出張。偉い人とずーっと一緒にいたから肩凝っちゃったよもう」
大きなため息をつき、雑な手つきで肩を揉みしだいている。
「目悪かったんですね」
貴央の視線が黒縁のスクエアフレームの眼鏡に行ったので、上宮は肩をすくめた。
「うん。両目でせいぜい0.5だよ。疲れたからさっきコンタクト取った」
クラスメイトと話している気分になってきた貴央は当初の目的を忘れてくっくと笑う。
「そっちの方がカッコいいと思いますよ。ジャージでコンタクトより」
褒められて上宮の表情がぱっと明るくなる。
「本当?そう私イケメンだからさ、このかっこで授業出ると私に惚れちゃう女子が出てきちゃうじゃない。そういうのよくないと思ってあえてのジャージなわけよ。楽だしねぇジャージ」
貴央は先程自分が言った「カッコいい」に「黙っていれば」という補足を追加した。
「今時間ありますか?」
「えぇー何だよ、揉め事か?私は極端に弱いぞ」
「暴力沙汰じゃないですよ」
「じゃあ何、恋バナ?当てつけかチクショウ」
「進路相談です」
上宮は眉間にしわを寄せて露骨に不審そうな顔をした。
「そういうのは進路指導のセンセに言ってくれよ」
「アンタ俺の担任でしょうが」
お互い数秒間変な顔で睨みあった後、上宮は隣の机の椅子を無造作に出した。
「まあ座れ」

青いマグカップの冷めきったコーヒーを不味そうにすすり、上宮は尋ねた。
「一体全体どうした茨木。お前まだ二年だろ。受験なんてまだまだ先じゃないか」
「修学旅行から帰ったら受験生だと言ったのは先生方でしょ」
「私は言ってない」
およそ教師が吐いたとは考えられない台詞である。周りの教員に気を使って一応潜められた声が最後の良心のようだ。
「行きたい大学が出来たんで」
呟きのような小さな声を聞くと、腕組みをして「どこ」とぶっきらぼうに答えた。
貴央はバッグからファイルを取り出し、中から大学のパンフレットを出して手渡した。学部ごとに分けられた冊子で、イラストや写真がふんだんに使われているそれを見て上宮は「なるほど」と言い、ずり落ちた眼鏡を押し上げた。
「こりゃ今からやんないと無理だな」
「今からでも間に合わないかもしれません」
「よくわかってるじゃないか」
上宮が意地悪くにやりと笑ったので、貴央も苦笑する。
「かも、じゃない。間に合わんよ」
上宮はきっぱりと言った。貴央は口を引き結んで上宮を真っ直ぐに見る。
「自分の成績は理解してるな?今からここを目指すんじゃ、予備校に通いつめて禁欲生活を卒業間際まで続けなきゃ無理だぞ。お前にそれが出来るのか」
貴央は口の端を引きつらせてやっと口を開いた。
「こうも真っ向から否定する教師って先生くらいでしょうね」
「まあな、私は世界一教師らしくない教師だから」
威張ることでは全くないのに、上宮は腰に手を当て胸を張った。
貴央の険しい表情を見て、上宮は再び腕組みをして目を細めた。
「別にやめろと言ってるわけじゃない。どこを目指そうとお前の自由だし、私は知らん。ただお前の普段の生活態度からして突然ガリ勉君になれるとは思えん。予備校ってのは高いんだぞ。無駄に金使うのはよしとけ」
「それは俺の家の話ですか」
淡々とした声が上宮の耳に刺さる。
上宮が押し黙ったのを見て、貴央は静かに言った。
「だから予備校には行きません。国立のここを選んだのもそのためです」
上宮は唇を噛んだ。
「浪人は絶対に出来ません。あちこち受けてる余裕もないのでここ一本で行きます」
「あのな茨木。奨学金制度ってのがあってだな、何もここにしなくたってもうちょい下げたとこで援助をもらった方が」
「ここに行きたいんです」
芯の通った声が職員室に響き渡り、話し声が一斉に消えた。電話をしている教師のよそ行きの声だけが居心地悪そうに隅で響いている。
ゆっくりと呼吸をした後、貴央は絞り出すように言葉を発した。
「ただ偏差値が高いからっていう理由でここを選んだわけじゃないです。自宅から通えて雰囲気も悪くなくて、やりたいことが出来るところだからここにしたんです」
「雰囲気って、見学に行ったわけでもあるまいに」
「行ってきました」
間髪無しに言い返され、上宮は再び黙る。
「今わかることは片っ端から調べました。必要な教科も大体の日程も見たし、過去問も立ち読みしました。今の俺には絶対無理だって、俺が一番わかってます」
でも。
そう言いかけて、貴央は一度口を閉ざした。
毎日朝早く出かけては夜遅く帰ってくる母の姿が頭をよぎる。
ほったらかしにしてごめんねぇ。口癖のように零れる言葉が耳の奥で響く。
「一刻も早くまともに働けるようにならなくちゃならないんです。失敗してる暇なんてない」
「高学歴なら誰でも高給取りになれると思うなよ。とんとん拍子に行けると思ったら大間違いだ。頑張る頑張るでどうにかなるレベルじゃないんだぞ」
「だから先生を選んだんです」
上宮は面食らって数秒固まった。そしてすぐに首を横に振って貴央を指差す。
「そこだ、そもそも何で私をチョイスした。私は単なる政経の教師だぞ」
「前にいた学校、いわゆる底辺校だったらしいですね」
いたずらが見つかった子どものようにばつの悪そうな顔をして、上宮は奥歯を噛んだ。
「そこから都内の某難関私大に三人ほど入れたと聞きました」
「誰から」
「小野先生」
上宮は後輩のしらっとした顔を思い浮かべて頭を抱えた。「お喋りめ」と憎らしげにぼやく。苦々しそうに貴央をちらりと見た。
「他に何か聞いたか」
「経歴と武勇伝を少々」
「あんのジャガイモ!」
上宮はよくわからない悪態をついて歯ぎしりをした。
日本史の教員である小野は上宮の高校からの友人らしく、上宮がどういう生徒だったとか、どこの大学に行ったとか、過去の職歴だとか、赴任先の高校でどんな功績を残しただとか、そういう話をちょっと誇らしげに話してくれた。どんなシチュエーションでそんな話になったかは忘れてしまったが。
「何で私が入れたことになってるんだ。ナントカ桜じゃあるまいし、私は関係ない。あいつらが頑張っただけのことだろ」
「どんなスパルタでも耐えます。言われたことは全部やりますから、俺を見てくれませんか」
「お前人の話聞いてたか」
貴央は無言で上宮を見据えた。膝に乗った両手が汗ばんでいる。
上宮は重苦しい溜め息をついてマグカップを机に置いた。
「はいはいわかった。じゃあ私が仮にお前の言うようなグレートティーチャーだとしよう。だからどうした」
言われている意味が分からず、貴央は眉を寄せた。上宮は仏頂面で椅子の背もたれに勢いよくもたれた。くたびれたそれがキィーと悲鳴を上げる。
「私についてくれば絶対合格とでも思ったか。甘すぎる、スイーツだお前は。そういう他力本願な奴こそ落ちるんだよ」
「俺が弱音吐いたら見捨てていいですよ。でもやる前からそこまで言われる筋合いないです」
不躾な物言いだったが、上宮はそこに腹を立てたりしなかった。ただ渋い顔をしてじっと貴央を見ていた。
「俺をここに入学させてくれって言ってるわけじゃありません。ここに入るための勉強を教えて欲しいだけです」
貴央は強い声で言い放った。そしてゆっくりと頭を下げる。
「お願いします」
しばし沈黙が流れる。向かいに座る教師の視線がさっきから気になっていて、上宮は大袈裟にため息をついて貴央のつむじに手を乗せた。
「顔上げろ茨木」
言われた通りにすると、鬱陶しそうにネクタイを引っ張りながら後ろ頭をがりがりと掻く男が目に映った。
「教師ってのは難儀だな。勉強教えてくれって言われたら教えなきゃならないんだから」
貴央が吹き出す。
「それが仕事だろ」
「なぁ。何で教師なんかになっちゃったんだか」
「ほんとですよ。先生、いいとこのお坊ちゃんなんでしょ」
「…………あいつポテトサラダにしてやらなきゃ気が済まん」
「いや、これは小野先生じゃなくて皆言ってるんですけど」
「皆?!」
それを聞いて上宮はがっくりと肩を落とした。目の前で喉を鳴らして笑っていると、むっくりと顔を上げて真っ直ぐこちらを見てきたので、貴央は途端に真顔になる。
「おふくろさんのためか」
貴央は唾を飲み込んだ。少し視線を白い床に落とした後、
「一番は自分のためですよ」
と言った。
「後は、親父のため」
父という言葉を聞き、上宮は少しだけ目を大きくした。そしてすぐに穏やかに目を細めた。
「それから、もう一人」
消えそうな声でぽつりと零したのを、上宮は聞き逃さなかった。
「誰?」
「何でもないです」
貴央がそう言うので、上宮はそれ以上追及しなかった。
「まあいいや。とりあえず、また明日来い。ちょっと準備させてくれ」
「お願いします」
「言っとくが私ドSだぞ。泣いたって慰めてやらんからな。ビシバシいくぞ」
「はいはい」
軽口を叩き合い、軽く頭を下げて貴央は職員室を後にした。
放課後のがらんとした廊下に立つと、バッグの中から封筒を出した。中から丁寧に紙を取り出して、筆で書かれたその一文をじっくりと眺める。
「誘惑とか弱音からも守ってくれんのかな」
それを見つめながら、人がいないのをいいことに独り呟く。
ふうと息を吐いてそれを手早くしまい、窓越しに見える茜色の空を見上げた。そして笑顔を作る。
晴れ晴れとした気持ちで貴央は歩きだし、階段を軽快に駆け下りていった。








上宮、読みはウエミヤ
聖徳太子の別名『上宮王(かみつみやおう)』より




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