長期休み中の校舎はひそりとしている。特に冬休みは冬の冷たい空気と相まって余計に静かだ。
グラウンドから聞こえてくる運動部の掛け声を聞きながら、貴央は暗い廊下に足音を響かせていた。
二階の職員室のドアを開けると、そこにいる教師の数はまばらだった。休み中なら珍しくはないことである。
プリントを持って目的の机を目指したが、そこは無人だった。貴央は眉を寄せて、ちょうどよく隣に座っていた別の教師に尋ねる。
「あの、上宮先生は」
「今日いないよ」
「えっ」
貴央の裏返った声に少し驚いた教師は苦笑する。
「休みの日はいるかどうかちゃんと確認しなきゃ」
「しましたよ。あの人また適当なこと言って……」
いらついた顔のまま教師に頭を下げて職員室を出ると、すぐに携帯を出してアドレス帳を呼び出し電話をかける。
十回目のコールでようやく取ったので、貴央は鋭い声で呼んだ。
「もしもし」
「んー……誰」
今起きたのがありありとわかる情けない声に貴央のこめかみが震える。
「茨木ですけど」
「おおどうした」
「アンタ今日学校にいるって言ってたじゃないですか。いい加減なこと言わないでくださいよ。無駄足踏んじゃったじゃないですか」
「ごむぇーん」
神経を逆撫でする、謝る気のさらさらない謝罪に貴央は深い溜め息をついてどうにか怒りを収めた。
よく考えたら仮にも教師、しかも担任にこんな偉そうな口を利く自分もいかがなものである。
「じゃあいいや、お前今から私の家に来い」
「は」
予想もしなかった提案に貴央は目を点にした。それをよそに、上宮は続ける。
「学校の近くにクローバーって薬局があるだろ。その隣のマンションの503」
「え、ちょっと」
教師がそんな簡単に生徒を自宅に連れ込んでいいのか。ていうかすげー近所だな。
貴央の危惧など露知らず、のんきな声で上宮は付け加えた。
「というわけで薬局で何か適当に買って昼飯作ってくれ」
貴央は電話をぶつりと切った。


青いマンションは学校から十分もかからなかった。
マンションを見上げた後自身の手から下がっている白いビニール袋を見つめて貴央はため息をつく。結局食材を買ってしまった。
寒さに追い立てられるように階段で五階まで上がり、503号室の前でチャイムを押す。しかし、二、三度押したが返事がない。
まさかまた寝てるんじゃ、と思いながらドアノブに手をかけると、容易く動いた。開いている。貴央はがっくりと肩を落とした。
中に入るとまず目に入ったのは洗濯機の上に積み上がる洗濯物の山。そして流しにそびえ立つ洗っていない食器。試しに冷蔵庫を少しだけ開けると、中から異臭がした。
リビングに進むと、いくつものゴミ袋、雑誌、本が散乱している。
貴央はベッドで丸くなっている物体から掛け布団を勢いよく引っぺがし、低く唸るように言った。
「起きろ」
「……ひぃ」
貴央の鬼の形相にさすがに目覚めた上宮は、冷や汗を流しながら後ずさった。
「シャワーを浴びて着替えたら、これの採点をしろ」
上宮は数日前に自分が彼に渡したプリントを受け取り、依然口元を引きつらせながらこくこくと頷いた。
「……はい」
返事を聞くや否や貴央は洗濯機に向かい、手早く洗濯物を放りこんで洗剤を入れ、スタートボタンを押した。
上宮が風呂に入っている間に、貴央は米を研いで早炊きにし、山となっていた食器を片っ端から洗って適当に戸棚へ戻し、冷蔵庫内の異臭源を根こそぎ処分して、散らかった雑誌や本を片づけ、転がるゴミ袋をゴミ捨て場に出しに行った。 風呂から上がった上宮は、変わり果てた自身の部屋に目を丸くして立ち尽くした。貴央はそれをぎろりと睨む。
「着替えて採点」
「はい」
自分より一回り近く年上の男をリビングへ追いやり、貴央は昼食に取り掛かる。
玉葱、ピーマン、人参、生姜、にんにくをみじん切りにし、ひき肉と合わせて炒め、カレー粉と特製のソースを加える。水分が飛ぶまで煮詰め、最後にコショウとバターを加えて火を止めた。
煮詰めていた間に作ったツナサラダを持って、貴央は出来あがった二人分のドライカレーをリビングに運んだ。
上宮は目を輝かせてドライカレーと貴央を交互に見つめた。
「お前、私と結婚しないか」
「死んでください」
「死っ……お前、仮にも担任に向かって」
しょんぼりしながら小さくいただきますと言い、上宮はカレーを口に運んだ。咀嚼してゆっくりと飲み込むと、再度貴央を見つめて真剣な声で言った。
「お前、私の召使に」
「ぶっ殺すぞ」
今度こそ黙った上宮は一心不乱にカレーを口に運んだ。貴央も一緒に食べながら、今更ながら何故自分はこんな所でこんなことをしているのだろうとぼんやりと思った。
「はいよ」
ツナサラダをむしゃむしゃ食べながら、上宮は赤の入ったプリントを渡した。チェックの多いそれを見て、貴央は渋面を作る。
「駄目だな……」
「上宮特製プリントをそう簡単に攻略されてたまるか。教えた問題集はちゃんとやってる?」
「やってますけど、あれ量多すぎですよ。結構しんどい」
「質より量作戦が通用するのは今だけなんだから耐えろ。三年になったら一個一個に割ける時間どんどん減るんだからな」
「……はい」
受験のこととなると途端に厳しくなる上宮に、貴央は少しだけしょげたように目線をそらしてカレーをすくった。


先程も言ったように質より量の問題集を教科ごとに買わされ、それに加えて上宮手製のプリントを毎日一枚ずつ解く。
問題集の方はさぞや難易度の高いものをやらされるのだろうと思いきや、完全に高校の授業レベルで拍子抜けをした。疑問に思って尋ねると、
「バカちんが。まずは基本を叩きこめ。理論分かってるつもりで小難しい長文なんかやってみろ、時間かかってあっという間にタイムオーバーだ。 英語に関しては早く読めなきゃお話にならん。あとちゃんと声に出して読めよ。口疲れるし途中で頭痛するだろうが、まあ頑張れ」
とまくしたてられ、貴央はただ黙って頷くしかなかった。
上宮は補習のように、授業形式にしなかった。ひたすら課題を与えて、採点し、解説し、また新たな課題を与えていく。
「予備校を選ばなかったのに予備校と同じことをしてどうする。授業を聴いている時間を勉強時間だと思うなよ」
勉強は能動的にならなきゃダメなんだ。上宮はそう繰り返した。
今までのやり方を覆され、貴央は戸惑った。何より自分が勉強がそこまで得意ではないことを知っている。そもそも無謀だったのではないか。自分から言い出しておきながらいきなり挫折しそうになり、部屋の隅に座りこむ。
そんな時には、鞄の中に忍ばせてある手紙に手を伸ばす。何度も読み返した字。文字を辿るだけであの日の気持ちが蘇る。

『貴央君なら大丈夫だよ』

「……うわっ、都合良すぎ」
不意に頭に浮かんだ彼の声と笑顔を慌ててかき消した。
そして封筒の中に残っている『御守』を取り出す。
『我 汝の全てを守る』
貴央は微笑しながらそれを見つめた。
「そういえば、最近霊とか全然見ないな」
もしかしてこれのせいか?
御守を凝視してそんな事を思う。きっとそうだろう、と一人で納得し、貴央は御守を机の横に置いて、勉強を再開した。


「ま、後は時の運だ。A判定維持してたって本番コケる奴だっている」
貴央ははっと我に返って危うくカレーが変な所に入りそうになった。そして半目で上宮をじとりと睨む。
「……どうしてそういうこと言うかな」
「本当だ。逆だってもちろんある」
「……もし落ちたらどうしようかな。先生んとこに嫁いでもいいかも、玉の輿だし」
それを聞いて上宮の目が再び輝く。
「本当か?毎日カレーか?」
「いや飽きるでしょ。ていうかカレーそんなに好きなんですか」
「まあな。さっきは驚いたぞ、よく私がカレー好きだと見抜いたな」
「いや、知りませんけど」
その時、鍵がガチャガチャいう音がして、苛立ち気味にドアノブが回された。
「大志!アンタ鍵ちゃんとしめろって何回言ったらわかるんですか!」
廊下を大股でどすどすと歩いてきた意外な人物を見て、貴央はぽかんとして呟くように言った。
「小野先生……」
「えっ、茨木君」
こちらも意外な人物だったようで、状況が飲み込めず泡を食って立ち尽くした。
「あれ、もしかして私呼んでたっけ」
一人のんきに口をもぐもぐと動かしながら、上宮は小野を見上げた。それを見て小野が眉を吊り上げる。
「そうですよ。今朝アンタが『昼飯作るの面倒だから何か買ってきて』ってメールしてきて、何がいいか聞いても返信来ないから適当に買って来てやったんじゃないですか」
「メールしたことをそもそも覚えていない」
「威張るな」
機嫌を損ねた猫のように毛を逆立てて怒っている小野だったが、ふとテーブルの上の料理を見て貴央に視線を移した。
「これ、もしかして君が?」
「え、あ、はい。食べますか?」
「あ、いやそんなつもりじゃ」
「まだ余ってるんで今よそってきます」
おろおろしている小野を残し席を立って再び台所に立ちながら、休日に呼び出して昼飯を用意させる仲とは一体、とよからぬ想像を貴央は繰り広げていた。
一方リビングに残った大人二人はひそひそと貴央を気にしながら話し合っていた。
「休日に生徒を引っ張り込むとはどういう了見ですか。後輩じゃないんですからそうほいほい連れ込んじゃ駄目でしょう」
「連れ込むってお前、女じゃあるまいし。まったく勝手に危ない方向に繋げる悪い癖は昔から変わらんな。去勢だのさきっちょだの」
「何でそんな古い話を……。アンタだって勝手にウォンチューとか聞き間違えてたじゃないですか」
「どうぞ」
唐突に現れテーブルに静かに大皿を乗せ、貴央は空いているソファーに腰を下ろした。慌てて小野が席を立とうとする。
「あ、ごめん席取っちゃって」
「いえ、俺もう食い終わったんで」
「おおキーマカレーまんじゃないか。ピザまんに……なんだこれ、炭火焼鳥まん?」
小野の買ってきたコンビニの中華まんに舌鼓を打ちながら、上宮は貴央に目を向けた。
「茨木、食うか」
「え、いや、でも」
「どうせ私一人じゃ食いきれん。ほれお前もこっち来い」
小野に向かって手招きし、貴央を真ん中に挟んで無駄にでかいソファーに三人で座った。
何だろうこの状況。
小野と貴央は奇妙な顔をしながら同時に同じことを思っていたが、次第にどうでもよくなっていった。
勝手な行動に振り回されながらも、だんだんと馴染んでしまう。手がかかるからこそ放っておけなくて気にかけてしまうその気持ちが、貴央にはわかるような気がした。
その時貴央は奇妙なデジャビュを感じ、首を傾げた。

なんだっけ、これ。

タレと炭の味がくっきりとする焼き鳥まんを食みながら、貴央は消えない既視感を抱き続けていた。



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