貴央は自転車をこいでいた。 夏の暑い日である。見上げれば空は高く、抜けるような青が広がっていた。 生い茂る木々の濃い緑が目に眩しく、さんさんと降り注ぐ夏の太陽の光に貴央は目を細めた。 ふと後ろを振り返った。すると自分の肩に人の顔が寄り添っていて、驚いて思わず「えっ」と声を上げた。 「どうしたの」 閻魔は不思議そうに貴央を見つめている。貴央は間抜けに開いた自身の口を閉じることを忘れていた。 「貴央君、前!」 閻魔が叫ぶので慌てて前に向き直ると、車道の真ん中ら辺をふらふらしていたことに気付いた。急いで白線の内側に戻る。幸い車は来ていなかった。貴央はほっとして肩を落とす。 「駄目だよ、ちゃんと前見てなきゃ」 閻魔にからかわれ、貴央は反論した。 「だって」 「ん?」 貴央は二の句に詰まった。何を思ってさっき驚いたのか忘れてしまった。 「何でもない」 「そう?」 それ以上を聞かなかった閻魔は、荷台を掴んでいた手を不意に貴央の腰に回した。 「うわっ」 「あ、ごめん。くすぐったかった?」 「うん」 「ごめんね」 大して申し訳なく思っていない声で詫びると、満たされた表情で頬を貴央の背中に押し付けた。 貴央は二人乗りで良かった、と密かに思った。一瞬にして赤面したことや、ハンドル操作を誤りかけたことを知られずに済むから。 「どうしたの」 今度は貴央が尋ねた。不貞腐れたような不自然な声で、照れ隠しなのが露わになっている。 「何が」 閻魔がのんきに尋ねると、少し刺を含んだ言い方で答えた。 「何でそんなくっついてんの」 「くっつきたい気分なんだもん」 「オッサンが『もん』とか言うな」 言いながら、ハンドルを握る掌が汗で濡れていることに気付いて疎ましくなった。 背中越しに鼓動が聞こえてしまったらどうしよう、と少女漫画の主人公のモノローグのようなことを考えてしまい、貴央は羞恥で叫び出しそうな衝動を懸命に抑え込んだ。 「貴央君の匂いがする」 さっきと変わらない格好のまま、閻魔は愛しそうにそう言った。 「やめろって汗臭いから」 胸のざわつきとは裏腹に無性に泣きたくなり、貴央は苛立ちを含んだ声で拒絶をしてしまった。 やめる代わりに、閻魔は貴央に言う。 「貴央君、止めて」 貴央は何故かを問う前に反射的に自転車を止めた。 ふと顔を上げると、空は夕闇に染まっていた。夜に喰われることに抗うように夕日が赤々と燃えている。身体の汗は、いつの間にか引いていた。 そういえば、辺りに誰もいない。 カラスと、名前を知らない鳥の声だけが茜色の空で木霊している。 「何で」 ようやくそれを聞くと、閻魔に「こっち向いて」と促された。 言われるままに身体をねじって後ろを向くと、待っていた彼の唇に唇を捕えられた。貴央は慌てて目を閉じる。 少しだけ乾いた、温度の低い薄い唇。けれど確かな柔らかさを感じ取り、胸の中の何か熱いものが溢れだしそうになる。 初めて知る他人の唾液や舌先だったが、気持ちの悪さは微塵も感じなかった。むしろもっと与えられ、味わいたいと思うほどだった。 自分は目の前のこの男に確かに愛されている。 何の疑いもなくそう確信し、自身の腰に回った腕の上に手をそっと置いた。 糸がぷつりと切れたように夢が途絶え、貴央は目を覚ました。 少し開いたカーテンの隙間から見える、まだ暗い曇天を見上げ、上体を起こす。寒さに身体の芯が震えた。 ベッドサイドの時計を見ると五時を指していた。アラームの鳴る時間より一時間早かった。 二度寝する気にもなれず、貴央は後ろ頭をがりがりとかく。そしてその手を口元に持っていく。 何でこんな夢を。 眉間の皺を深く刻みながら、少し赤面して目を閉じた。 キスなどしたことがないのにやけにリアルで、まるでかつて彼としたことがあったかのような感触だった。 自分の妄想を気色悪く思い、振り切るように立ち上がって自室を出る。それでも頬はまだ少し熱かった。 今日は第一志望大学の二次試験日である。机の上には模試の結果が無造作に置かれていた。 二次試験の受験票が家に届き、足切りは免れたと知った時はほっとした。 しかし、上宮の言葉は厳しかった。 「センターリサーチ見る限りじゃ、足切りラインにぎりぎり滑り込んだって感じだな。前期しんどいぞこれ」 上宮はいつもの青いジャージ姿で足を組みながら貧乏ゆすりをしている。暖房のよく効いた職員室は、センター試験が終わりいよいよ入試本番というぴりぴりした空気が漂っていた。 「わかってますよそんなの」 貴央が口を尖らせた。 元々この大学の偏差値になど到底及ばない学力だったのだ、一次通過も奇跡に近い。二次試験の受験表を上宮に見せに行った時、彼は大袈裟に椅子から落っこちてみせた。 そういえば、上宮から「頑張ってるな」や「成長しているな」などの労いの言葉や、褒め言葉をもらったことがないことに貴央は気づく。 「ま、ラッキー程度にしとけ。浮かれてないで勉強しろ。以上」 にべもなくそう言い捨てられ、貴央は少しむくれた。 上宮に言われた通り必死に勉強し、今やこの学校のトップクラスにまで登りつめ、進路指導の教員から期待されるほどになったというのに、肝心の担任である上宮からは一向に欲しい言葉をもらえない。 投げ出そうとしたことは何度もあった。ここまでする必要もないだろうと幾度も思った。 しかしその度に、 逃げてもいいんだぞ。 誰もお前に望んじゃいない。 誰も怒らないし、誰もお前に失望したりしない。 上宮はそう言って貴央を逃げ場のない、孤独の奥底へ突き落す。 そしてその度貴央は誓う。 俺は俺自身に失望されたりするものか。 「貴央」 朝食を終え、食器を片づけようとしたところで江梨子に呼ばれた。 「あげる」 白い封筒のような袋に包まれた三つのそれを、貴央は首を傾げながら受け取った。 中には学業成就の御守が入っていた。 「一個は大宰府天満宮の。ほら、静江叔母さん九州でしょう?これは京都の北野天満宮。お友達が出張で京都行ったついでに買ってきてもらったの。あとこれは湯島天神ので、あたしが買ってきたのよ」 熱心に解説する母親に、貴央は呆れながら笑った。 「こんなにいらねぇよ」 「だって」 江梨子は口をとがらせた。 「あたしに出来ることってこれくらいだもの」 「参考書買ってくれたじゃん。受験料だって高いのに」 「当たり前でしょう?そんなのは親の仕事よ」 貴央は三つの御守を眺めて、微笑した。 「お礼参りが大変だ」 それを聞き、江梨子も微笑んだ。 「ありがとな」 そう言って、バッグの中にそれらをしまう。その時目に入ったので、おもむろにその封筒を取り出した。江梨子が少し身を乗り出す。 「手紙?」 「え?ああ、うん」 「彼女から?」 「いねーよ」 嬉しそうに尋ねる江梨子を一蹴すると、貴央は封筒を見つめ、ぽつりと言った。 「これも御守なんだ」 「それが?」 「うん」 貴央は目を閉じ、彼の人の姿を思い浮かべた。 「多分さっきの御守ぐらい御利益あるよ」 あるいは、それ以上に。 「最近の合格発表ってネットで見られるのねぇ」 緊張を含んだ声音で江梨子はパソコンの画面を見つめていた。 午後二時に、大学公式サイトの「合格者発表」のリンクが繋がる。全国の受験生はそれを固唾を飲んで待っているというわけだ。 「あたしの時なんか寒い中どきどきしながら大学まで見に行ったのよ。自分の番号を見つけた時は嬉しかったなぁ」 「ちょっと黙ってろよ」 刻々と発表時間まで近づいているというのに、落ち着きなくぽつぽつと呟く江梨子に貴央は少し苛立った声を上げた。 恐らく落ちているだろうと予想はしていた。ネガティブに考えておけば本当に落ちていた時のダメージが軽くて済むから、とかそういった理由ではなく、本当にそう思っていた。 それでも受験したからには、と一縷の望みにかけてしまう自分がいる。 とりあえず結果を知ってすっきりしてしまいたいので、パソコンの画面に視線を戻し、発表時刻を待った。 パソコンのデジタル時計が一分前を示した。貴央のマウスを握る手に若干の力がこもる。 「二時!」 頼んでもいないのに江梨子がそう叫び、驚いて貴央は反射的にリンクをクリックをした。画面いっぱいに学部名と受験番号が表示される。びっしりと並んでいるので貴央は軽く目をしばたたかせた。 受験番号は暗記している。貴央はすぐに自分の受験した学部のところまでスクロールし、自分の番号を探した。 目を見開いて画面を目で追っていったが、あってほしい番号が一向に見つからない。貴央の表情が焦りで染まり、最後には苦渋に満ちた。 「あった?」 不安そうに尋ねてくる江梨子に、貴央は低い声で答えた。 「無い」 江梨子はこの世の終わりを見たかのような顔で、口を開けたまま固まった。 お前がそんな顔すると俺が死にたくなる、という言葉を飲み込み、貴央はどくどくとうるさい胸の鼓動をどうにか落ち着かせようと深く息を吐きだした。 わかっていたことなのに、いざ落ちると落胆は激しかった。 「番号確認しなくていいの?もし間違えて覚えてたら」 「いいって、もう」 「一応持ってきなさいよ」 江梨子がしつこいので、貴央は「わかったよ」と渋々自室に受験票を取りに行った。記憶した番号と同じであることを再確認させられるだけだというのに。足取りは酷く重かった。 引き出しを開け、文具やらプリントやらが押し込まれたそこの一番上にぽんと置かれている受験票を手に取る。 貴央は我が目を疑った。自分の記憶していた番号と下一桁が違う。 「嘘ぉ」 驚愕と歓喜が合わさった声を上げ、貴央は部屋を飛び出した。慌てて受験票の本当の番号と発表とを照らし合わせる。視界が一気に輝きに満ちたような気持ちになり、貴央は歓声を上げた。 「ごめんあった!」 「ほら言ったじゃない!」 江梨子は涙声でそう叫び、貴央に抱きついた。 「頑張ったね、ほんとに頑張ったね。受験勉強始める前は机向かってるところなんて見たことなかったのに、こんな、全部、一人で」 「母さんが知らないだけで受験勉強始める前から課題くらいちゃんとやってたよ」 「でも、信じられない。こんなすごい大学」 「落ちつけって」 首を両腕でぎゅうぎゅう締めつけてくるので、貴央は苦笑いしながら母親の肩を軽く叩いた。 「やべ、先生に電話しなきゃ」 この時期の三年生は家庭研修という名目でもう授業はなく、学校に来る義務はない。しかし他学年は普段通り授業があるので上宮は授業中である可能性もある。 が、今の貴央にそこまで考えている余裕はなかった。 携帯を取り出し、スピードダイヤルで上宮に発信した。四回目のコールで上宮と繋がった。 「先生受かった!」 相手にもしもしも言わせず、貴央は嬉しそうに報告した。 「何だと?!」 裏返った声で上宮が叫ぶ。少し間があってからトーンダウンした声で貴央に文句を言った。 「馬鹿野郎め、お前のせいで先生方から変な目で見られちゃったじゃないか」 「アンタが大声出すからでしょ」 「だってびっくりしたんだもん」 上宮が口を尖らせているのが目に浮かび、貴央はこっそりと笑う。 「え、ほんとに受かったの、マジで?」 「マジッスよ」 「絶対落ちると思ってたのに」 貴央はがっくりと肩を落とした。本当に最低の教師である。 「普通本人に言うかそれ……」 「ぬうう、これは困ったことになったぞ」 人の文句を全く気にせず唸っているので、不思議に思って貴央は尋ねた。 「どうしたんですか」 「小野と賭けてたんだよ。お前が受かるか落ちるか」 「え、どっちが」 「もちろん、小野が合格、私が不合格に賭けた」 「アンタほんといっぺん死んだ方がいい」 自分の師への信頼と尊敬がその一言で一気に崩れ去りそうになったが、悪態をつくだけにどうにか留めることができた。この男はもうどうしようもないのである。 「……いくら賭けたんですか」 「三万」 「さっ」 「くっそー痛い出費だ」 前言撤回、いよいよ本当に失望しそうになっている貴央だった。思わず声を失う。 その時、「ちょっと貸してください」という声が小さく聞こえた。それが小野の声だと貴央はすぐに気付いた。 「もしもし、茨木君?小野だけど」 「あ、はい」 いきなり代わったので、貴央はしどろもどろで返事をした。携帯のスピーカーから「おい、返せ」という上宮の間の抜けた声が聞こえてくる。 「受かったみたいだね、おめでとう。本当に。よく頑張ったよ」 「あ、ありがとうございます」 穏やかな小野の声は貴央の胸の底をじわりと温めた。 「さっきの賭けのネタばらしするけどね」 小野がそう言うと、上宮が焦って「バカやめろ」と騒いだ。何のことかわからず、貴央は携帯を握ったままぽかんとしている。小野は素知らぬ体で続けた。 「この人、君の合格祝いに奢るつもりだったんだよ。でも捻くれ屋だからさ、賭けに負けたから仕方なくっていう形を取りたかったらしいんだ」 「……何だそれ」 貴央は呆れかえったが、それが本当だとすると上宮は最初から貴央が受かると見越していたということになる。それも結構な確信を持って。そう考えて、貴央の顔に自然と笑みが浮かんだ。 「上宮先生ってツンデレでしたっけ」 「いや、こんなのは珍しいよ」 電話越しに小野と貴央は笑い合った。小野の傍で悔しそうに歯ぎしりする上宮の姿が目に浮かぶ。 「今日の夜、焼き肉食べに行こう。三万円分と言わず、全額奢ってもらえ」 「……いいんですかね、俺だけ。完全に贔屓でしょこれ」 校内で受かったのは何も貴央だけではない。学校全体の学力や志望大学が中の下であるため、難関大学にストレート合格したのは恐らく今年貴央だけであろうが、大学のランクで優劣をつけるのはいかがなものか、と貴央は暗に訴えた。 「賭けに負けたんだからしょうがないよ。……でも皆には内緒ね」 「わかりました」 まあいいや、と納得した貴央は再度微笑んだ。 電話を切ると、貴央は江梨子に尋ねた。 「今日夜勤だっけ」 「うん。ごめんね、合格したっていうのに」 申し訳なさそうに眉を寄せる江梨子に、貴央はちょっと照れ臭そうに笑いかけた。 「いや、ちょうどよかったよ。夕飯奢られに行ってくるから」 貴央は学生鞄から封筒を取り出した。中の『御守』を机の上に出し、静かな目でそれを眺める。 「オッサン」 『御守』に手を触れ、貴央は呼びかけた。 「俺、受かったよ」 目にうっすらと涙を滲ませ、そう呟いた。そして窓越しに天を仰ぐ。冬の夜空はどこまでも黒かった。 「ありがとう」 目を閉じて涙を拭い、ダウンジャケットを羽織って貴央は自室を出た。 数十分後には、焼き肉が待っている。 |