「あれ、貴央髪どうした?」 受験後、行きつけのファストフード店で久しぶりに会った友人に開口一番そう言われ驚かれた。 無理もない。くすんだ金髪だった彼の髪は、しばらく見ない間に黒く染まっていたのだ。 「何、改心したの?」 未だ茶髪の友人にからかわれ、貴央は眉を寄せてため息を小さくついた。 「バイト始めるから」 「とうとうバイトする気になったか」 三年間ずっと帰宅部だった貴央はバイトもしていなかった。最初のうち友人たちはそれを不思議に思っていたが、バイトをしてしまえばどうしても家事が疎かになってしまうということを聞き、納得した。 「母ちゃんはもうほっとくのか」 「いや、家事はちゃんとやるよ。でも、さすがに稼がないと学費が厳しい」 いくら国立大に受かったとはいえ、大学の学費は確実に家計にダメージを与える。 「バイトガンガンやって、家事も今まで通り続けて、大学にも通うって結構きついぞ。俺の兄貴なんてただでさえ課題でしょっちゅう死にかけてるのに」 「やるしかないさ」 「……あんま一人で気張んなよ」 店内の喧騒に溶けてしまいそうな小さな声でそう呟き、友人は心配そうに貴央を横目で見た。最近おいしくなったと評判のアイスコーヒーをストローで啜る。 「お前、受験でアホみたいに頑張ったじゃん。そんで、せっかくすげぇいいとこ入ったのに全然遊ばないでまた頑張るわけ?」 「全然遊ばないつもりはないけど……」 「いつかどっかでパンクするかもとか、考えねぇの?」 貴央は答えに詰まってオレンジジュースを啜った。もうそろそろなくなるらしく、氷に締めあげられたストローがずるずると大きな音を上げる。 先のことはわからない。しかしこれから先無理してキャパオーバーになって何にも手につかなくなることなど、言われてみれば容易に想像がついた。 貴央は目を伏せた。天井のスピーカーから流れる有線で、女性の切なげな声が『会いたい』と叫んでいる。 「俺、大学行けるだなんて思ってなかったんだ、ちょっと前まで」 茶髪の少年は目線を上げた。 「でも、ちゃんと用意してあったんだ、大学行く金。多分必死に切りつめて貯めといたんだと思う」 貴央の淡々とした声を、神妙な面持ちで聞いている。先程の自身の発言を恥じるように。 「そんな金を、使って当然みたいな態度で使いたくない」 その言葉を最後に、しばらく沈黙が続いた。しかし、徐々に耐えられなくなり、茶髪の少年は大きくため息をついた。 「あーもう悪かったよ、好きにしろよ」 「いや、お前の言うことだって正しいよ」 少年はそれには答えず、億劫そうにポテトに手を伸ばして口に放り込んだ。 「ほんとお前いつからそんなにカッコ良くなったわけ」 「別に格好つけてるわけじゃ……」 「何が動力源なの?彼女?」 急に友人が身を乗り出してきたので、貴央は真っ赤になって首を激しく横に振った。 「違ぇよ!たかが彼女でこんなに頑張れるか!」 「真っ赤になって言われても説得力ねーよ」 「いないってほんとに!」 必要以上に焦って怒る貴央を、少年は頬杖をついて面白そうに眺めている。 「どっちでもいいけどさ、そっちで可愛い子いたら少しは俺にも回してくれよ」 「やだよ面倒くさい」 二人はしばらくの間、そうやって軽口を叩き合いながら過ぎていく時間を楽しんでいた。 大学に入学するまでの間、いくつか落ちたものの大学近くの居酒屋の面接に受かった。 小さいながらも毎晩学生などの若者で賑わっている店で活気があり、やりがいがありそうである。休みの間たくさんシフトを入れたため、入学する頃には大分勝手がわかりスムーズに動けるようになっていた。 入学から一カ月が経った頃、貴央は出勤時に店長に声をかけられた。三十代前半と見れる店長は、のんびりしていてあまり居酒屋の店長らしくはない。 「今度ね、茨木君と同い年の男の子が入るんだ。大学も一緒だよ」 「へぇ、そうなんですか」 周りは年上ばかりのため、少し同年代が恋しくなってきたところだった。同い年で同性で同じ大学なら打ちとけやすいだろう。 「仲良くなれるといいねぇ」 「ですね」 「結構イケメンだったから客寄せになるかな。あ、大丈夫、茨木君もイケメンだよ」 よくわからないフォローをされ、貴央は苦笑しながら会釈をしてフロアに出た。 その翌々日、いつものように夕方控室に入ると見知らぬ後ろ姿がそこにいた。 例の新人と気付き、とりあえず貴央は「あ、おはようございます」と声をかけた。 ドアを開ける音に反応して振り返り、新人は同じく「おはようございます」と平淡な声で返した。 二人は目を丸くしてほぼ同時に「えっ」と零した。先に言葉を発したのは貴央だった。 「曽良……」 「……同じ大学の同い年の男がいるとは聞いてたけど、茨木だとは思わなかった」 黒髪の青年は小さくため息をついた。 同じ大学、同い年なんてものじゃない。二人は同じ学部で学科まで一緒なのである。ただ、一緒につるむ仲間ではなかったため、名前と顔くらいしか互いに知らなかった。 「俺もだよ。つーか曽良って全然居酒屋っぽくないじゃん。塾講かカテキョって感じ」 「ここ時給いいし、家から近いからな」 「そっか、曽良って下宿だっけ。実家は?」 「長野。茨木は実家だろ」 大学では下の名前やあだ名で呼び合うことが多い中、曽良だけは誰に対しても名字で呼んでいた。そのためとっつきにくいイメージを持っていたが、話してみるとそうでもない。声のトーンは真っ平らだが。 「実家だけど、そんなに遠くないし。地元じゃあんまりいいとこなかったからさ」 「そう。……ここはいつから?」 「受験終わってすぐかな」 「じゃあ先輩だな。色々教えてくれ」 「……お前そんな素直な奴だったっけ?」 無表情で『教えて』と言われても滑稽なばかりである。貴央は思わず吹き出した。何が面白いのか分からず、曽良は相変わらずの無表情で疑問符だけを飛ばしていた。 大学に入ってからというものの誰もが一人になりたくなくて必死な風に見え、とりあえず身を寄せ合っているという関係に少し嫌気がさし始めていた。 しかしこれだけ接点が多ければなかなか面白い付き合いが出来そうである。貴央は新たな友人との出会いを素直に喜んでいた。 「あれ、曽良今上がり?」 「ああ」 控室でサロンを脱いでいた曽良を見つけ、貴央もまた自身のサロンを脱いだ。 「俺もなんだ。これから飯行かね?」 「悪いな、これから家で作る」 貴央は目を丸くした。 「料理するんだ」 「金使いたくないだけだよ」 曽良はそっけなく答える。貴央はいたずらっぽい笑みを投げかけた。 「俺自慢じゃないけど料理上手いよ」 「自慢してるだろ今」 「何か作ろうか。何がいい?」 曽良のマイペースなつっこみを軽く受け流して尋ねる貴央を曽良は横目でじろりと見、眉を寄せた。 「……来る気?」 迷惑そうな顔を見て、貴央はちょっとひるむ。 「嫌なら帰るよ。ごめん」 「別にいいけど」 サロンを手早く畳んでバッグに入れると、曽良はさっさと控室を出て裏口の扉を開けた。 よくわからん奴だな。苦笑しながらそう思い、貴央もその背中を追った。 途中スーパーに寄り、アパートに着くなり味噌汁と肉じゃがと浅漬けがあっという間にローテーブルに並んだのを見て、曽良はさすがに目を見張った。 「すごいな」 「食ってから言ってくれよ」 軽く台所を片づけてから食卓に着いた貴央は、曽良を促す。曽良はおもむろに箸を取り、艶を放ちながら湯気を立てている白飯と肉じゃがを口にした。だしが全ての具にちゃんと染み込んでいて、それでいてどこか優しい味がした。 「おふくろの味だな。美味いよ」 「どうも」 貴央は嬉しそうに笑って自身も茶碗を取った。曽良はよく噛んで味わい、飲み込んでから平坦な声で感心してみせた。 「何がすごいって、速かった。作り方完全に頭に入ってるんだな」 「俺んち母子家庭だからさ、母親仕事してるし、家事ほとんど俺がやってきたんだ。必要に迫られると速くなるし覚えるよ、嫌でも」 「ふうん」 曽良はうろたえもせずに黙々と食事を続けた。何となくその反応に予想がついていた貴央は、苦笑して自身も浅漬けに箸を伸ばす。 程なくして沈黙が訪れた。あれから大学でも一緒につるむようになったものの、まだ出会ってから数カ月しか経っていない。そして互いに社交性に乏しい。無言になるのはよくあることだった。 しかし今日に限って貴央はその静寂に居心地の悪さを感じてしまっていた。 何か喋らなければ。やたらと焦ってしまい、唐突に貴央は沈黙を破った。 「あのさ、曽良って彼女いんの?」 「いるよ」 「マジで?!」 いるとは思わなかったし、いるにしてもあっさりと肯定するとは思わなかったのである。貴央は目をまん丸くして身を乗り出した。 「え、まさかこっち来て作ったんじゃないよな」 「だったら俺はどれだけ手が早いんだ。……長野に置いてきたよ」 犬や猫のように言う曽良は、動揺もせずにただ淡々と事実だけを述べていた。彼女の話題を出しただけで真っ赤になってうろたえる曽良は想像つかないが、それにしたって反応が薄いので貴央は訝しげに曽良の横顔を見つめる。 「何年になるの?」 「半年かな」 「しょっちゅう会ってんの?」 「いや」 「……寂しくない?」 「あっちは寂しいみたいだけど」 平然と言ってのける曽良に、貴央は眉を寄せた。それは少しの嫌悪だった。途端に声に刺が宿る。 「お前は寂しくないみたいな言い方だな」 「俺に何て言わせたいんだよ」 曽良は少しうんざりした風で貴央を睨んだ。元々あまり他人に干渉されたくないタイプの曽良である。あれこれ質問しておいて勝手に機嫌を損ね、責めるような口調になっている貴央を非難するかのような言葉だった。 貴央も依然としてむすっとしたまま肩を寄せて首をひっこめている。機嫌を損ねているというか、理解出来ないものにぶち当たり少し動揺しているようにも見えた。 「会いたいって思わないのかよ」 「茨木、いい加減にしろ」 「何で言えねぇんだよ、『会いたい』くらい。そんなに恥ずかしいか、そんなにかっこつけたいかよ」 曽良の目がみるみるうちに鋭くなった。不機嫌が体中から吹き出して、全身で貴央を嫌悪している。しかし貴央は構わず声を荒げて畳みかけた。 「会わなくても平気って言いてぇのかよ。それほんとに好きなの?東京と長野だったら会えない距離じゃないだろ」 「余計な御世話だ」 曽良は冷ややかに言った。貴央は一瞬返答に詰まった。その通りだったからだ。これ以上不躾に踏み込むべきじゃないし、変に熱くなるのも不自然だということにも気づいていた。 それでも、感情が濁流になって溢れだすのを止められない。 貴央は必死だった。 曽良の態度が気に入らず、自分の言い分をわからせようとしているからではない。 今にも目元にせり上がって来そうな涙を堪えることに精一杯だったのだ。 「会いたくても会えない奴だっているんだよ」 吐き出されるように発せられたその言葉に、曽良は一瞬驚いていた。しかしすぐに冷めた目を取り戻し、色のない声音で冷酷に指摘した。 「それはお前の話だろ」 一瞬にして線を引かれ、貴央は返す言葉を失った。曽良の言うことはいちいち尤もで、貴央はもう一言しか使える言葉を持ち合わせていなかった。 「帰る」 バッグを引っつかみ、速足で玄関に向かい立ったままスニーカーに足をつっこんだ。大きな音を立てて鍵を開けると、逃げるように曽良のアパートを後にした。 気付けばもう真夜中になっていた。 江梨子に連絡をしていない。どちらにしろこれから真っ直ぐ自宅に帰るが、それでも携帯を取り出してメールをする気にはなれなかった。 いくつもあるアパートの合間を縫うようにして駅を目指す。驚くほど音がしない。その妙な安心感からか、貴央は声を上げて泣き出してしまいそうになった。 二年近く経った今でも、こんなにも再会を切に願っている。 その一方で、やはりもう会うことは叶わないのではないかと諦め始めている自分がいる。 『もう一度会おう、必ず』 この言葉を信じ続けるのは決して容易いことではなかったのだと、貴央は不意に気付いた。 もう手放さなくてはならないのかもしれない。 未来に呼ばれるままに動きださなければならないのかもしれない。 それでも、忘れたいと思ったことはない。 忘れられたらいいのに、と思ったことさえない。 やはりどうしても、どうしても彼に会いたい。 夏の気配を含んだ濃い闇の中で、誰にもぶつけようのない想いを貴央は抱えていた。 翌朝、貴央はベッドサイドの目覚まし時計を見て仰天した。江梨子の姿は既にない。大慌てでベッドから這い出て、身支度を整え、朝食も取らずにマンションを飛び出した。気を抜けば確実に一限は遅刻する。 大学に入ってから寝坊をしたのは初めてだった。昨日の動揺が響いたのだろうか、と貴央はげんなりした。眠れなかったわけではないが、酷く浅い眠りだったのは何となくわかってしまった。 全力疾走して飛び乗った電車の中で、自身の汗でべたついた肌を疎ましく思う。ため息をついて窓の外を眺め、一刻も早い到着を願った。 走りに走って教室に辿り着いたものの、講義はもう始まっていた。教室の前から居心地悪そうに身を縮めて入り、広い教室内をざっと見渡して前の席しか空いていないことを知る。貴央は仕方なく前から二番目の席に座ることにした。 奥に座っていた人物を視界に捉え、貴央は少し目を開く。貴央は彼を知っていた。 見た目四十代後半、貴央と同じ学部、同じ学科で、今年度の主席入学者だと噂されている。 名前を確か、松尾といった。 隣に座ってきた貴央に気付いた松尾は少し顔を上げた。貴央は反射的に小声で「おはようございます」と言う。松尾は人の良さそうな微笑みを浮かべながら目尻に小さな皺を作って「おはよう」と返した。 バッグからルーズリーフとプリントとペンケースを取り出しながら、貴央は隣の松尾のことを考えていた。 同じ学科だが、話したことはない。何しろ自分より一回り以上年長なのだ。声をかけるきっかけを掴めなかった。それは他の学生も同じらしく、彼はいつも一人で行動していた。それを別段苦と思わず平然としている様を見ると、やはり彼は自分たちとは違う大人なのだと思い知らされるようだった。 一人二人と眠気に負けて落ちていく学生が多い中、彼が居眠りをしているところを見たことが無い。いつも教室の前の方に座り、どんな教授の話も熱心に聞き、ノートをまとめている。 貴央はをそれをとりあえずすごい、としか思えなかった。何を思って今になって大学に、しかもこんな難関大に入ろうとしたのかはわからないが、近寄りがたくて聞けずにいた。 講義が終わり、学生たちは伸びをしたり堰を切ったように喋りながらぞろぞろと教室を出ていく。 貴央も机の上のものをバッグに収めていた時、不意に 「茨木君だよね」 と声をかけられた。貴央はまたしても咄嗟に硬く「はい」と返事をする。 「僕のこと覚えてる?」 「あ、はい。松尾さんですよね」 「そうだよ。よかった」 松尾は満足げに笑ってペンケースをバッグにしまった。 「僕、あんまり学科の人と喋らないから忘れられてるかと思った」 貴央は苦笑するしかなく、曖昧な笑い声を上げた。 「茨木君は、次授業?」 「いえ、空いてます」 「ほんと?僕もなんだ。よかったらお昼一緒に食べない?この教室、次空いてるんだ」 貴央は少し戸惑ったが、すぐに思い直して頷いた。松尾はバッグから財布を取り出して席を立った。 「じゃあとりあえずお昼を買いに行こう」 学内のコンビニで貴央はボリュームのある弁当を、松尾はおにぎりを二つ、二人とも同じお茶を買い、先程の教室へと戻ってきた。 珍しいことに、だだっ広い教室の中には誰もいなかった。 「これだけ人いないとかえって落ち着かないね」 「そうですね」 席に着いたもののまだ昼食には早いので、二人はひとまずコンビニ袋を机の上に置いた。 お茶にだけ口をつけながらとりとめもない話をし、貴央はすぐに松尾を気に入った。落ち着いたトーンで話される話の内容はさすがに聡明だが、所々に挟まれるよくわからないジョークは嫌味がなく素直に楽しめた。 「ところで、今日河合君はどうしたの」 貴央は露骨に眉を寄せて落ち着きなくお茶に手を伸ばした。 「……午前中は授業被らないんですよ」 「へえ。いつも一緒にいるんだと思ってた」 「よく知ってますね」 「人間観察が趣味だから」 貴央はペットボトルを握りしめたまま、知らず「昨日、」と口に出していた。そうして昨日あった出来事をつらつらと話してしまった。今日初めてまともに喋った相手だというのに。 なんとなく引かずに聞いてくれそうな気がしたのもあり、それ以上に誰かに吐きだしたかったのである。 松尾は少し黙った後、ぽつりと独り言のように零した。 「会いたい人がいるんだね」 貴央は苦しそうに眉を寄せて無言の肯定をした。 「どうして会えないの?」 松尾が尋ねたが、貴央は答えられなかった。貴央の横顔を見て何かを感じ取った松尾は、深くを聞かずにまた黙った。 「もう会えないの?」 松尾の二つ目の問いに、貴央は唇を噛み締めた。そして頭の中で彼の人の声を思い出す。 「必ず会えるって言ってた」 松尾は少し目を開いて驚いてみせた。それに気付いた貴央が「どうしたんですか」と返す。 「別れの時にそんな断言できる人はなかなかいないと思って」 松尾はそう言ってにっこりと笑った。 「その人がそういうなら、そうなんだよ。僕はその人に会ったことはないけど、信じていいと思う」 松尾は微笑んでおもむろに貴央に手を伸ばし、黒くなった髪の上にその手をぽんと乗せた。 それと同時に貴央は強く目をつむり、歯を食いしばり、涙を流した。 二年の月日を費やしても、俺はあの人を思い出に出来なかった。 そうだ、俺は信じたいんだ。 あの言葉を。あの人を。 |