「ごめん、待たせた」
橙色の照明の店内を速足で進んでいくと、座敷にはもう二人の姿があった。週末の居酒屋は賑やかである。
「遅い」
振り返った曽良は相変わらずの無表情で貴央を迎えた。
「ごめんって。あれ、まだ飲んでないの?先飲んでていいって言ったじゃん」
「まあそうは言ってもね、三人一緒に始めかったからさ」
松尾が朗らかに笑い、座るように貴央を促した。貴央はスーツの上着を脱ぎながら、曽良の隣に腰かける。
「上司がミスりやがってさ、俺が尻拭いする羽目になったんだ」
貴央はうんざりした声で肩をすくめ、通りかかった店員に生ビールを三つ注文した。
「信頼されてるってことだよ。まあ学生の時から将来有望だとは思ってたけどね」
松尾が貴央に微笑むと、曽良がすかさず口を出した。
「持ち上げない方がいいですよ、すぐ天狗になるから」
「ならねーよ!」
「お待たせしました、生ビール三つでーす」
手拭いで頭を巻いた若い男性店員が、威勢のいい声と共にジョッキを運んできた。三人は軽口を収め、それぞれジョッキを手に取る。
「じゃあそれぞれ仕事お疲れさんってことで、乾杯!」
貴央が音頭を取り、三人はジョッキを互いに打ち鳴らした。
半分まで飲み干して、「美味い」と言って貴央はジョッキをテーブルにゴンと置いた。
「いつの間にビール飲めるようになったんだな」
曽良が言うと貴央は呆れた。
「この前飲んだ時も飲んでただろ」
「そうだっけ」
「お前ほんと俺に関すること忘れやすいよな」
「あんまり興味ないからかもしれない」
「お前な……」
「まあまあ」
貴央の言葉に対し、曽良が何でもない顔をしてさらりと刺さることを言い、それを松尾が宥める。この三人はこうして大学時代を過ごし、卒業し、今に至るのだ。

「貴央君ももう二十四だしね。ビールくらい飲めなきゃ会社でやってらんないってことでしょ」
「お前二十四になったの?」
「そうだよ、この前誕生日だった。松尾さんはちゃんとメールくれたのに、お前見事にスルーしやがって」
「え……じゃあ今日お前におごらなきゃなんないの?」
曽良は怪訝そうな顔で貴央と松尾の顔を見比べた。
「欠片もおごる気ねぇ顔して言うんじゃねぇよ」
枝豆を食べながら貴央がため息をつくと、松尾がそれを見て可笑しそうに笑った。
「早いもんだなぁ。君達が就職してもうそんなに経つのか」
「そうだよ。もう就活なんざやりたくないけどなぁ」
「お前は苦労したからな」
「っせーなそれが普通なんだよ。お前はいいとこにさっさと就職決めやがって」
「日頃の行いがいいからな」
涼しい顔をして頼んだ海老のお頭揚げを食べている曽良は、あまり面接で落ちることなくすぐに内定をもらってしまった。
対する貴央は就職難の世に従いそれなりの苦難を味わったため、今もそつなく仕事をこなしているらしい曽良を羨ましく、少し憎たらしく思っている。
「松尾さんは?締め切り大丈夫だった?」
「じゃなかったら今ここにいないよ」
無事卒論を提出し後は卒業するのを待つばかりだった頃、松尾はつるんでいる貴央と曽良に自分の素姓を明かしたのだった。
彼は実は作家であり、何を思ったか執筆活動を完全に休止して大学に入学し、四年の歳月を過ごしたのである。
自身の本の売り上げが不振だとかそういう理由ではなく、むしろ固定ファンがついてコンスタントに本を出していたにもかかわらず彼は突然担当の者にそう告げたのだった。
大学を卒業した現在ではまた活動を再開し、以前よりも一層の人気を誇るようになった。
「今でもバレてないの?うちの大学にいたこと」
「メディアに一切顔出さなかったからね。何とかなってるよ」
「曽良は新刊買ったんだろ?どうせ発売日に」
「うるさい」
偶然にも、曽良は作家としての松尾のファンだった。もちろん在学中はそうとは知らずにつるんでいたが、正体が明かされてからというものの松尾に対して敬語を使うようになった。松尾が何度やめるように言っても一向に戻す気配がない。
「ねー、今日は仕事の事忘れるための飲みなんだからさぁ、敬語はやめようよ曽良君」
「別に話し方なんて何だっていいでしょう」
「貴央君ー……」
「無駄だよ。こいつ超頑固だもん、絶対聞かないって」
貴央は我関せずといった体で鳥の唐揚げにレモンを絞っている。

「曽良、ちゃんと帰れそう?」
店の外に出たところで、曽良はこっくりと無言で頷いた。三人の中で一番酒が弱いのは曽良だ。
「大丈夫だよ。僕がちゃんと送るからさ」
「いつもごめん」
「通り道だし平気だよ」
松尾が笑いながら曽良の肩をぽんと叩いた。少し無言になると、目を伏せたまま貴央に言った。
「あんまり無理しちゃだめだよ」
貴央は微笑しながら眉を寄せる。
「急にどうした?」
「ほら、サラリーマンが過労で死んじゃう、とか最近よく聞くじゃない」
貴央がぷっと吹き出した。
「大丈夫だよ。皆が皆超多忙で死にかけてるわけじゃないんだから」
「そうだけど、でも貴央君昔から頑張りすぎちゃうとこあるし」
「わかったわかった程々に休むよ」
貴央が茶化すと松尾も無理に笑おうとしたが、不安を含んだ目で貴央を真っ直ぐに見た。
「また、会えるよね?こうやって」
貴央は参ったな、と少し肩をすくめた。
「当たり前だろ。また連絡するからさ。……ほら、終電行っちゃうから早く行きな」
促され、ぼんやりと心ここにあらずな曽良を連れて、まだ名残惜しそうな松尾は貴央に手を振ってその場を後にした。

深夜の道路は静かだ。車も人も少ない道をできるだけゆっくりと歩きながら黒い空を見上げる。火照っていた頬も少しずつ冷め、本来の体温を取り戻す。
交差点の赤信号で立ち止まった。ちらほらと通り過ぎていく車を眺めながら貴央はふと思い出して鞄の中を漁った。
期待していた手触りはなく、ため息をついた。今朝鞄の中身を入れ替えた時に置いてきてしまったらしい。いつも肌身離さず持っていた彼からの手紙はそこにはなかった。
今まで忘れてきたことはなかった。
彼と出会ったのは十七歳の時だから、今年で七年の歳月が流れたことになる。置いてきたことを情けなく思う反面、仕方ないのだろうかとも思ってしまった。

貴央は不意に今自分のいる交差点が父親の死んだ場所であることを思い出した。
ここで父は死んだ。飲酒運転のトラックに突っ込まれ、一瞬だった。
見たはずのない、横たわる父の姿をそこに想像し、首を振る。
その出来事を、貴央は事実としてしか覚えていない。もしかしたらショックであの時忘れてしまったのかもしれない。
どちらにせよ、貴央と彼の母にとって忌まわしい交差点である。
彼が言ったように、父は今本当に天国にいるのだろうか。
わかりようもないことを何となく胸の内で呟くと、静寂を裂く大きなエンジン音がこちらに向かってくるのに気がついた。
貴央はすぐに異変に気付いた。
トラックがふらふらとバランスを崩しながら進んでいる。変に擦れたタイヤの耳障りな音もした。
交差点を左折しようとハンドルを切ったようだが、明らかに早過ぎる。巨体は歩道にそれ、一瞬にして貴央の視界を影が覆い尽くした。
路上に置かれたペットボトルのように勢いよく跳ね飛ばされた貴央の体は、背後にあった本屋の閉め切られたシャッターに激しく叩きつけられた。
トラックはそのまま本屋の隣の美容室に突っ込んで停止した。ガラスや機材が砕かれる音を最後に、交差点に再び沈黙が戻る。

赤に染まった黒いスーツはぴくりとも動かなかった。




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