午前六時。
枕元の携帯がけたたましく鳴る。ちなみに着信音は森のくまさんトランスバージョン、元々携帯に入っているものである。
布団から手だけをにょっきり出してそれを掴み、電源ボタンを連打して止める。開いているのかそうでないのかよくわからない目をこすりながらむくりと起き上がると、ベランダから聞こえてくる下手くそな鼻歌に気づいた。
顔を洗ってベランダに向かうと、母親が洗濯物を干していた。
「今日は遅めなんだな」
「あら貴央、おはよう」
くせのあるダークブラウンのセミロングを揺らしながら貴央の母親―江梨子は振り返った。170近い長身には少しだけ不似合いな少女のような顔立ちが元気よく微笑む。
「起きたんならご飯用意して。久々にホットケーキがいい」
「朝っぱらからあんな甘ったるいのよく食えるな。だいたい、早く起きたんだったら自分で作っとけよ」
「あたしが今何してるか見えるでしょ。忙しいの、ほら早く」
急かされて貴央は渋々台所に向かった。化粧する暇はあるくせに、とぶちぶち文句を垂れながら。
「薄ぅく作ってね、紅茶はダージリン」
背後から聞こえてくる張った声に、面倒くさそうにはいはいと返事をした。

出来上がった狐色の薄いホットケーキ三枚と上品な香りを立ち上らせているダージリンに、江梨子は舌鼓を打って椅子に座った。向かいに座る貴央は、いつも通りコーヒーとトーストである。
「ねぇ。あたし今日早番だから夕飯作ろうか」
琥珀色のメープルシロップをたっぷりとかけながら明るく出された提案に、貴央は露骨に嫌な顔をして見せた。
「いいよ、ろくなもん出来ないから」
「そうやっていつもやらせてくれないから全然腕が上がらないんじゃない」
江梨子が頬を膨らませると、「若くないんだからそういう顔やめろ」と貴央が制した。江梨子の頬は余計に膨らんだ。
「注射やら点滴やらの手際のよさの半分でも料理に応用できたらな……」
「わかったわよ、やらないわよ。貴央の意地悪」
ふんと鼻を鳴らして機嫌を損ねてしまった母親を呆れ顔で眺めながら、貴央は少し薄いコーヒーを啜った。久しぶりの息子との朝食で浮かれているのはわかっていたので、不平たらたらなのも今だけだ、と涼しい顔をしていた。





少しだけ眠くなり始める二時限目。数学は嫌いではないが、担当教師の教え方がどうにも気に入らなかった。間延びした大きな声で繰り返される公式は、酷く意味の無い英数字の羅列に聞こえる。
今日も今日とて空は青い。いい加減曇ったり雨が降ったりしたっていいのではないかと思うが、空には申し訳程度の白い千切れ雲が散乱しているだけだった。
加えて席は後ろから二番目。教師は今も自己満足な授業を続けている。眠気を誘うには十分な材料だった。
突っ伏して眠るのは気が引けたので、頬杖をついてシャーペンだけは握っておく。あっという間に重くなる瞼を止めようともせず、貴央は次第にうとうとし始めた。


『貴央君』


居眠りをしていたため、実際どのくらいの時間が経っていたのかはわからない。不意に聞こえた自分を呼ぶ声に、貴央はぼんやりと覚醒した。
貴央君と呼ばれたのはえらく昔の記憶で、最近その名で呼ばれたことはなかったはずである。
まだ夢の中なのか。貴央はまだあまり起きていない頭でそう思ったが、少しずつ瞼を上げてみる。

ぼやけた視界に飛び込んできたのは、何が楽しいのかやたらとへらへらしている、見知った男の笑顔のアップだった。

貴央はガタンと大仰な音を立てて椅子ごと飛びのいた。水を打ったような静けさが教室を支配し、起きていた生徒の全ての視線は貴央に注がれる。ツーテンポ遅れて教師も後ろを振り返った。
「どうした茨木」
いちいち語尾が伸び気味な話し方が癇に障るが今はそれどころではない。貴央は強張った顔のまま、努めて冷静に答えた。
「すいません、虫がいて」
少し離れたところに座っている、いつもつるんでいる少年が、口を押さえて喉で笑っているのが見えた。貴央は彼を睨まなかった。逆の立場なら同じ事をしただろうから。
「虫くらいでそんな驚くなよ。女の子かお前は」
その顔で女の子とか言うな。細く痩せこけた顔におかっぱに近い奇妙な髪型のその教師を薄目で見ると、もう一度頭を下げて座り直した。隣に座っている少女が怪訝そうな顔で貴央を見ている。貴央はそれを気にしている余裕は無かった。今も目の前であの男が心底おかしそうにけらけらと笑っているからだ。

「驚きすぎだよ」
貴央は鬼の形相で閻魔を睨みつけた。中途半端に空中に浮いているせいで、足の先が前の席の少年の頭に透けて被り、そこから生えたように見える。しかし今はそれを見て笑う気には全くなれなかった。
「にしても酷いな。虫呼ばわりされちゃったよ」
貴央の机のところまで降りてくると、わざとらしく眉を八の字にして鼻をすんすんと鳴らしている。貴央のこめかみがひくつくのも無理はない。
「しかしここ天国だね。セーラー服がいっぱいだよセーラー服。俺さっきからテンション高くって」
嬉々として周りをきょろきょろと見回している閻魔をよそに、貴央はノートの隅に素早くシャーペンを走らせていた。書き終えると、依然眉を吊り上げたままその部分を指先でとんとんと音を立てて指した。
それに気づいた閻魔がその部分の文字を読み取る。

『かえれヘンタイ』

閻魔がぷすっと噴出した。
「貴央君字ぃ下手」
今ほど幽霊に触れないことを残念に思ったことがあっただろうか。貴央はもう一度その下に『帰れ』と書いた。癪だったので、今度は少し丁寧に。
「そんな邪険にしないでよ。授業参観してみたかっただけ」
貴央が喋れないのをいいことに閻魔はぺらぺらと好き勝手喋り始めた。
「君の昨日の顔が忘れられないよ。初めて会ったのスクランブルの上だったことすっかり忘れてて、完全に俺をあの坂の地縛霊だと勘違いしてたよねぇ。気の毒そうに見てくれちゃって、幽霊にも優しいんだなぁって感心しちゃったよ。何となく面白くなりそうだったから特に返事しなかったけど。だからさっき俺がここにいてびっくりしてたね。貴央君かーわいー」

ひとしきり喋りまくった後、ふと貴央の顔を見ると、怒りで顔を真っ赤にして小刻みに震えていた。不動明王も裸足で逃げ出しそうな凄まじい憤怒の表情である。さすがにやりすぎた、と閻魔は口をつぐんだがもう遅かった。今日は口をきいてくれそうにない。
「ごめん、調子乗りました。学生の本業邪魔しちゃいかんよね。お詫びに教えるから」
机の上で固められた貴央の握り拳が軋んだ。気にせず閻魔は貴央の隣に座り込むようにし、机の上の教科書と黒板を交互に見比べる。どうせ殴れやしないのだ。
「へー面倒くさいことやってんねぇ。微積なんてウン百年前に……」
閻魔はそこまで言って言葉を飲み込んだ。幸い貴央には聞こえていなかったようで、閻魔はほっと息をついた。例題の説明が終わり、今は練習問題をやらされている。あらかた片付けてしまったが、最後の一題の途中で貴央は詰まっていた。
それを見た閻魔はノートの途中式を凝視しだした。至近距離でそんなことをされ、当の貴央は気が散るばかりだ。大声で叫びだしたい衝動に何度も駆られたが、変人の烙印を押されるのは御免である。

大して時間が経たないうちに、閻魔は口を開いた。
「二行目がちょっとおかしい、多分それ2じゃなくて5。そこ直して同じようにやってけば出る。あとは黒板右端の公式使えば楽にできるんじゃない」
いきなり知的な低い声を出され僅かに動揺すると同時に、いとも簡単に指摘されて少しむっとしてしまったが、試しに言われた通りに直してみる。計算は速いのですぐに答えが出た。気持ちの良い数になったので、恐らくそれで正解だろう。
少しして教師が小汚い字で黒板に書いた答えは、確かにノートのそれと一致した。そして「最後のは結構わかりづらいからよく見とけ」と付け加えていた。
ちらりと横を見ると、閻魔がにやにやしながらピースサインを出していた。一気にお礼を言う気が失せた貴央は、重たい溜息を微量口から吐いて前を向いた。


二時限目が終わると、「貴央君の血管が切れちゃうから帰る」と言い残して、閻魔は窓をすり抜けて空へ消えていった。途端にどっと疲れが出て、貴央は机に突っ伏した。すると、さっき笑っていた友人が近づいてきてからかった。
「虫怖かったっけお前」
「鬱陶しかっただけ」
くぐもった声でそう答えると、頭の奥であのきゃらきゃらという笑い声が聞こえた気がした。

あんな変な幽霊、見たことがない。








茨木、読みはイバラギ
大江山の鬼であり、酒呑童子の舎弟といわれている茨木童子より




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