今思うと、あの頃自分のいた世界はなんて窮屈だったのだろう。
人人人人。右を見ても左を見ても。ただでさえ狭っ苦しい街の中、自分のスペースなんてどれほどあっただろうか。
しかし当時の自分はそれを少しも疑わなかった。窮屈だとも思わなかった。
ひしめき合って生きているそれら全てが、自分と同じものなんだと思っていたから。




「ねぇ、今突然思い出したんだけど」

閻魔が坂に現れるようになって一週間が経った。
この前のように気まぐれで日中、学校に来ることもあったが、基本的に出てくるのは夕方のこの坂だった。
それ以外の時間をどこでどう過ごしているのか、貴央は知らない。
一週間というのは長いようで短い。たったこれだけの時間しか経っていないのに、夕方にこの坂でこの妙な幽霊と歩くことに早くも体が慣れてきている自分が不思議でならなかった。

「最初に会ったときにさ、取り付かれるとか取り付かれないとかそういう話したじゃない。でも貴央君何か言いかけてそのまま言わなかったよね」
「よく覚えてんなそんなこと」
「教えてよ、貴央君の体質」
しばらく貴央は黙っていた。いつものように耳に押し付けた携帯を握り直したり、鞄を背負い直したりと落ち着かない。閻魔が尋ねた。
「ごめん、言いたくない?」
「いや」
語気は平坦だったが、貴央ははっきりと否定した。ゆっくりとした足取りを止めて、穏やかだかどこか寂しげな表情を浮かべて言った。
「誰かに言ったことなかったから」
閻魔は何か言おうとして、やめた。彼の顔に、少しの喜びと安堵と不安を読み取ったからだ。貴央の頭上に浮かんだまま、閻魔は黙ってオレンジがかった金髪を見下ろしていた。
「ちょっとついて来て」
色素の薄い茶色の瞳、髪と同じく橙に近くなったそれに見上げられ、閻魔は微笑んで頷いた。

湿った空気の路地裏を進み、草が多くなった道を辿っていくと、寂れた公園があった。公園と呼ぶにも少し躊躇するような、申し訳程度に小さなブランコと砂場、ベンチがあるだけだった。そのどれも塗装があちこち剥げている。植物は生え放題なのに、あまり生気を感じられない乾いた土。
「人来ないんだよここ」
「だろうね」
夕焼けのせいで一層寂しさの増しているその風景を眺めながら、閻魔は苦笑した。貴央はスニーカーでざりざりと地面を擦るようにしながらベンチのある方へ歩き出す。みすぼらしく削れた木のそれに座ると、閻魔は彼の前の空気に腰を落ち着けた。
「あんまり人に聞かれていい話でもないからさ」
「なんかごめんねぇわざわざ」
「いいよ、きっと誰かに話した方が楽だ」
閻魔は再び口をつぐんだが、今度はすぐに返事をした。
「よく、黙ってこれたね」
貴央はちょっとだけ目を丸くしたが、力なく笑って答えた。
「自分を守るために」
そうして貴央は一つ一つ語り始めた。夕陽を眩しそうに見ながら。


「いつから見えてたかはわからない。見えてるものは全部人間だと思ってたから」
「そんなにくっきり見えてたんだ」
「うん。今思うとすごくぎゅうぎゅう詰めの世界にいたんだろうけど、最初っからそういうもんだと思ってると、何とも思わない」
「なるほどね」
「だから平気で幽霊と喋ってた。まあ大抵のやつは喋れやしないんだけど、普通にこっちから手振ったり、話しかけたり。すごく小さいと、幼児にはよくある事だって、周りがあんまり異常だと思わないだろ」
「そうだね」
閻魔の相槌を聞いてから、貴央は一度黙った。苦々しく表情を歪めているわけではないが、当時の感情を少しずつ呼び起こして同調しているようだった。
「でも、そいつら見えてるのが俺だけなんだって、結構早い段階で気づいた。いつだったか正確には覚えてないけど、小学校入る前くらいだったかな。……で、そのことを人に言っちゃダメなんだって思うようになった」

聡明な子供だ。
閻魔は再度そう思った。
そんなにも幼い頃から、口を閉ざすことをこの少年は覚えたのだ。
自分を守るために。
閻魔は目を細めて、眩しそうに貴央を見た。

「そのうち気づいたんだ。俺は寄せる体質だって」
「フェロモンでも出てんじゃない」
「嬉しくねぇ」
閻魔が茶化すと貴央もつられて笑った。閻魔は少しだけ安堵した。
「何だか知らないけど、寄ってくる。俺からアクション起こしてるわけじゃないのに。運悪く目が合っちゃったりすると、もうそれからずっとついてくる。結構鬱陶しかったよ」
結構で片付けられるのか、と閻魔は内心驚きながら口元を僅かに引きつらせた。案外大物なんじゃないのかこの子。
「周りでポルターガイストは起こるし、俺といて変なもの見たって人もたまにいたし、もっと悪さしだしたらどうしようって気が気じゃなかった。だからひたすら黙ってた。目もそらした。努力の甲斐あって、俺のせいだってバレなかったよ」
でもそれだって奇跡に近いと思う、と貴央は付け加えた。閻魔はさっきのように相槌を打たず、静かに聞いていた。しかし、不思議と貴央はそれに不安を感じなかった。そして、澱みなく他人に打ち明けている自分が、何故だか嬉しかった。

「ノイローゼになったり、しなかったんだ」
不意に閻魔が口を出した。貴央は顔を上げたが、少し考えるようなそぶりをして頷いた。
「昔からくっきり見えててあんまり人間と区別してなかったせいだろうな。うーうー唸っててうるさいのもいたけど、まぁ人間だって大して変わんねぇだろって思ってた」
閻魔は吹き出しそうになるのを慌てて抑え込まねばならなかった。そして彼がそこまで神経の太い人間でよかったとも思った。
今貴央はあっけらかんとして打ち明けているが、聞く限りでは、常人にそれが降りかかればあっという間に廃人が出来上がるレベルの話だ。
もしかしたらこの子自身そもそも人間ではないのかもしれない。さすが俺の、

そこまで考えて、閻魔は思考を停止した。

「前も言ったけど、年齢重ねてくにつれて見える量も減ってったし、今なんか大分楽だよ。何より他人に迷惑かけることが少なくなったから、ほんとにホッとした」
当時の心情を思い出しているのか、心底安心した表情を見せた。それを見て、閻魔の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
不意に後ろのけやきの木の上でカラスが鳴いた。子供だろうか、大人のはっきりした発音には程遠い、濁ったみっともない鳴き声が夕暮れの侘しい公園に響き渡る。
雲が少し出てきて、真ん丸い太陽を隠し始めた。
それに呼応するように、貴央の顔にも影が差す。

「でも、一回だけ、めちゃくちゃ怖い思いしたことがあるんだ」

ややあってから閻魔が「話して」と控えめに促した。貴央がぎこちなく頷く。
「見える量が減り始めて安心しだした頃だったんだけど、一人の霊にくっつかれたことがあったんだ」
言葉を区切って、一度ちらりと閻魔を見上げた。閻魔はそれに気づいて首を動かしたが、貴央はすぐに目線を地面に戻してしまった。
「珍しくよく喋る奴でさ、年も俺より二、三個上って程度で、友達ができたみたいで楽しかった。俺、家で一人になることが多いから、親がいないときに家で喋ったり、人がいない、そう、ここでもよく喋ったな」
懐かしそうにブランコの方を見る貴央に倣い、閻魔もブランコへ目を向けた。無風の公園で、赤色のそれは微動だにしない。うなだれるように垂れ下がっているブランコから、貴央は目をそらした。
「人に言えないようなことも相手が幽霊だと思うと話せたりして、結構支えになってたんだよな。あいつも楽しそうだったから、このままずっと仲良くやってけるもんだと思ってた」
貴央はさっきからしきりに自分の手を握ったり指を組んだりを繰り返している。本人は気づいていないようだったが、閻魔はそれをじっと見ていた。

「あの時も、普通に喋ってた。ここじゃないけど、やっぱり人のあんまり来ない路地みたいなとこで。話の途中で、突然あいつが『もう幽霊なんか嫌だ』って言い出したんだ。でもあんまり突然だったから、深刻な話じゃないのかと思っちゃって、俺、茶化しながらそのまま喋っちゃったんだ。そしたら」
貴央は息を飲んで黙った。左手が右腕の肘を押さえて、ほんの少しだけ震えている。絞り出すような声で貴央は言った。

「あいつ、いきなり震えだして、喋んなくなっちゃって、どうしたんだって言ったら、化け物みたいな顔しながら襲い掛かってきた」
貴央はたまらず俯いた。閻魔がおもむろに下に降りる。貴央は顔を上げなかった。
「顔も体も真っ黒になって、元の顔がわかんないくらい歪んじゃって、げらげら笑いながら俺の体に入ってきた」
閻魔は眉間に深く皺を刻んだ。どこか不快そうであった。
「怖くて、目をつぶったまま動けなかった。でもいつまで経っても何も起こらない。で、目を開けたら」

「体の中で、でかい水の泡が弾けるような音がして、それっきりあいつの気配が消えた」

貴央は亀のように首を縮め、それきり黙った。唇をきつく噛む微かな音を、閻魔は聞き取った。
「俺のせいだ」
悲痛さを含んだ掠れ声が地面にぽとりと落ちる。それを見届けてから、閻魔は透けた自分の手を恨めしげに眺めた。
「俺、人間じゃないのかもしれない」
閻魔は慰めの言葉を一切かけなかった。それが今発せられることで、どんなに薄っぺらく無責任でくだらないものになるかを知っていた。
しかし同時に少年が否定を切望していることにも、気づいていた。
閻魔はただ黙ってそこに居続けた。

「アンタは、違うよな」

質問とも確認とも取れるような言い方で、貴央は言った。相変わらず顔は地を向いたままで、短めの金の前髪が額に少し張り付いていた。
閻魔はたっぷりと間を取った後、
「うん」
と確かな返事をした。


陽が落ちるまで、彼らはそこに無言のまま座っていた。
けやきの木の上のカラスはいつの間にか三羽に増えていた。そのどれもがしわがれた声をしていて、時々苦しそうに鳴いた。



閻魔は恐ろしく久しぶりに自責の念に襲われた。
少年の中で息を潜めている、自身の強すぎる血液。







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