「貴央君ち行きたい」

いつもの帰り道で、閻魔は唐突にそう言った。途端に貴央がうんざりした顔をする。
「授業参観の次は家庭訪問かよ」
「だってここだとすぐ別れちゃうじゃん」
「十分だよ俺は。いや、どっちかって言うともうたくさん」
「二人っきりでじっくり話したいの」
小首を傾げて流し目を送って見せると、貴央は冷蔵庫に押し込まれたような顔になった。それを見て閻魔がけらけらと指をさして笑う。いつも思った通りの反応をしてくれる貴央が、閻魔は好きだった。
「今ので連れてく気が一気に失せた」
「別にいいよー、勝手についてくから」
苦々しく睨んでくる貴央を見て、閻魔が手をぱたぱたと振る。
「心配しないでよ、気が済んだらちゃんと帰るから」
「当たり前だバカ」
受け答えの語気に棘は感じるが、そもそも大して断る気などない貴央の心情がわかってしまい、閻魔は一人そっと笑った。
その日、閻魔は夕暮れの中、初めて貴央と坂を抜けた。




くすんだ青の小さなマンションに着き、閻魔は感慨深げにそれを見上げた。駐輪場の自転車の群れの、金属の冷たい光が夕陽にとけている。どれ一つとして言葉を発するわけがないのに、狭そうに立ち並ぶそれらから静かなざわめきが聞こえてきそうだった。
貴央の背を追いかけて、彼の部屋に案内される。鍵を開けて中に入ると、小さな玄関に置かれたローヒールの深緑のパンプスが目に留まった。そして黒い男物のサンダルが一足。靴箱の上のポトスが静かに来訪者を出迎えていた。
「おじゃましまーす。あれ、誰もいない。お母さんは?」
「仕事」
のんびりとした声の質問を一言で返し、貴央はまっすぐ台所に向かった。気になって後を追ってみると、やかんに手をかけようとして、手を止めているところだった。閻魔の気配に気づいて、貴央がそちらを向く。
「どうしたの」
「茶の用意しようとしちゃった」
少しの間、二人して声を失ってしまった。やがて我慢できずに貴央が吹き出し、閻魔もそれにつられた。大して面白い出来事でもないはずなのに、二人はわけもなくしばらく顔を突き合わせて笑っていた。
「だって、アンタ人間くさすぎ」
「やったぁ」
閻魔がふざけて両手を挙げると、貴央はまた笑った。

ひとしきり笑った後、二人はリビングに向かい、貴央はソファに座った。
「君だけでもお茶入れればいいのに」
そう言われ、少し考えるようなそぶりをした後、当然のように答えた。
「だってオッサン飲めないじゃん」
その返事を聞いて、閻魔は一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかく微笑した。
「どう育てればこんないい子が出来上がるのかねぇ。お母様に是非お会いしたいよ」
「……そうやってさりげなく恥ずかしいこと言うのやめろ」
目の下をほんのりと赤く染めて、居心地悪そうに背を丸めてしまった。照れていることがほんの少しわかりづらい、浅黒い肌。
にこにこと見つめられるこの雰囲気が居づらかったのか、貴央は少し早口に言った。
「育てられたって気はあんまりしてない」
「親不孝者め」
「だってアイツ仕事しか出来ねぇから、俺はかなり早くから家事覚える羽目になったんだぞ」
「お仕事は何を?」
「看護士」
「白衣の天使!」
「白衣の幼児だよ。背はデカいけど」
その口ぶりからすると、本当に家事全般を貴央に任せているらしい。小さな体で少し大きめのエプロンをつけ、悪戦苦闘しながら踏み台に乗って台所に立つ、過去の貴央の姿が容易に想像できた。怪しい気持ち悪い、と言われないよう、閻魔は口元を隠してひっそりと微笑んだ。
「一人っ子?」
「うん」
「わぁ、大変だ」
言われ慣れているようで、貴央は大してそれについてコメントしない。閻魔は依然笑みを浮かべながら貴央の隣に浮かんでいる。
「でもお母さん好きでしょう」
「……マザコンみたいな言い方すんなよ」
貴央が渋い顔をすると、閻魔がにやりと笑って調子に乗り始めた。
「手のかかる人ほど好きになっちゃうってやつ?」
「除霊するぞ」
口を引きつらせながら青筋を立てている貴央を、「出来るもんならやってごらーん」とからかった。一瞬だけ見えた、何かを懐かしむように自分を見る閻魔の表情を貴央は不思議に思ったが、何も言わなかった。
憎たらしいからかいを止め、閻魔は急に満足げに腕を組んだ。
「ごめんって。親子が正しくお互いを好き合ってるのは良い事だよ。恥ずかしがることじゃない」
正しくってなんだ、という言葉は形にならず、貴央の喉元に残った。親との在り方を他人に素直に認められたのは初めてだったので、貴央は嬉しさを隠し切れずに後ろ髪に触れた。その仕草を見て、閻魔が軽く指をさしながら言った。
「しかしよく許してもらえたね、その髪」
不意に指摘され、貴央は髪をいじったまま「ああ、これ?」と言った。
「そのままの勢いで煙草吸ったり薬に手を出したり、人様に迷惑かけたりしないならいいって言ってたけど」
「寛大だねぇ。学校は?」
「たまにうるさい奴には言われるけど、まぁ適当にかわしてる」
「ふーん……でも何でいきなり金髪?君、肌黒いから見た目のガラの悪さが倍増してるんだけど」
「あ、やっぱり?つるんでる奴が茶髪でさ、『お前は髪いじんねぇの?』って言われたのがきっかけだったんだけど、これにしたらちょっとびっくりしてた」
「まぁそんなにどぎつくないちょっとくすんだ色だし、似合ってると思うよ」
「そりゃどーも」
少しの間、会話が途切れる。閻魔が神妙な顔をしているのに気づかず、貴央は思い出したように呟いた。

「なんか、この色にしなきゃ、って思ったんだ」

閻魔がはっと短く息を吸い込んで顔を上げた。貴央が驚いて顔をまじまじと見ると、閻魔は「何でもない」と言って小さく首を振った。何でもないと言ったわりには、閻魔はしばらく黙りこくった。静寂に不安になった貴央は、焦りを見せつつ話しかける。
「オッサン」
「じゃあ貴央って名前も、お母さんが?」
遮るようにして全く別の質問をされ、貴央はちょっと面食らった。そして、うーん、と少しだけ言いよどんでから答えた。
「いや、親父」
「へー。何時ごろお帰り?顔見てから帰ろっかな」
「いないよ」
え、と間の抜けた声を上げると、貴央は目線を窓の外へ持っていき、急に無表情になった。外の通りから、自転車の走る音が聞こえる。一緒に老人の小さな鼻歌も聞こえてきた。


「死んだんだ。俺が、五歳の時に」


閻魔はしばらく貴央を見たまま黙っていた。貴央は依然無表情のままで、窓の外に向けた視線を閻魔の方へ戻そうとしなかった。
マンションの前の道路に子供が出てきた。高い声と、ボールが転がる音。
しかしそれも束の間だろう。きっともうすぐ陽が落ちる。

「ごめん、コメントしづらいこと言っちゃって」

沈黙を破ったのは貴央だった。ようやく顔を閻魔に向け、何を言ったらいいものかと迷った表情で苦笑している。閻魔はそれに微笑で返す。
「いいや」
存外あっさりとした返答に、貴央は少し戸惑っていた。
「謝られなかったの初めてだ」
「何が?」
「皆、『そんなこと聞いちゃってごめん』って言うから」
「言った方が良かった?」
淡々と言う閻魔に、貴央はふるふると首を振った。どこか達観したような目で、閻魔もまた窓の外を見る。
「死は平等だよ。それが遅いか早いかの違いだ。同情したって仕方ない」
「……俺も、そう思う」
貴央は一度言葉を切り、「今はね」と付け加えた。閻魔が顎を向け、続きを促す。貴央は俯きがちで話し始めた。

「何しろ小さかったから、はっきりした記憶は、もうない。俺と一緒の色黒の肌で、でかくて、笑ったときの声が気持ちいい人だった」
閻魔は貴央の静かな声を聞いていた。潜められているのに鮮やかな声だと、閻魔は思う。
「親父は会社帰りの駅前の交差点で信号を待ってたらしい。そしたらトラックに突っ込まれたんだと」
まるで新聞やニュースの記事を伝え聞いたように淡々と言ってのけた。
「その時俺は五歳だったから何もわからなかったけど、後々になって、トラックの運転手が酒飲んでたことを聞いた」
語尾が掠れだした。その目には、諦めとやりきれなさが交互に現れ、揺れていた。
「きちんと交通ルール守ってたって、飲酒運転のトラックに轢かれて即死」
段々と投げやりな言い方になり始め、苦しそうな笑みを浮かべながら貴央は言った。

「こんな理不尽を知ると、死が平等だなんて、とてもじゃないけど思えなかった」

それきり黙った貴央に合わせて、閻魔も沈黙を守った。
しかしそう経たないうちに閻魔は口を開いた。沈黙を苦しんでいるのは、貴央の方だったからだ。
「でも、今は違うんでしょう」
そう尋ねると、貴央は少しぎこちなく頷いた。
「俺は小さすぎたからなぁ……生々しく覚えてなかったせいで受け止めるのも早かった。母親は、俺の分まで苦しんでたけど」
「そうだろうね」
閻魔はその場に似つかわしくない、穏やかな笑みを浮かべた。貴央はそれに気づいて訝しげに見つめる。

「お母さんに、君がついててよかった」

貴央が目を開く。それに呼応するように閻魔が目を閉じた。
「夫を殺された君のお母さんは、一緒に死んでしまいたいと思ったり、運転手を殺してやりたいと思ったかもしれない。傍から聞いたらとんでもない話かもしれないけど、身内を殺された苦しみは当事者しかわからない。経験したことのない人間がそれをガタガタ言って咎めるのは愚かだ」
貴央の口が、知らず開く。目の奥が震え、視界がじわりと揺らいだ。
「でも、お母さんには、小さい君がいたんだ」
抑えられた閻魔の声は耳に優しく入り込み、貴央の全身を振るわせた。次第に外の音が聞こえなくなっていく。
今にも空気に溶けてしまいそうだった母の背中。それが恐ろしくて後ろからしがみつくと、じんわりと自分の胸や腹が温まってきて、母に体温があることを知って安心した。
その時決まって母が言っていた言葉を、貴央は思い出していた。
「君がいたから、お母さんは憎しみで醜くなることも、悲しさで死を選ぶこともなかったんだと思う」

『貴央がいるから、お母さん平気よ』

「君がいてよかった」

その時見た母の笑顔と、今目の前にいる閻魔の笑顔が重なり、貴央の視界は今度こそぼやけて見えなくなった。呆然としてしまって、嗚咽もなくただはらはらと涙だけが頬を伝い落ちていった。
幼く無知だったがために苦しまずに済んだ自分は、なんてずるい存在なんだろうと、貴央は思っていた。何故同じ気持ちで母と泣くことができなかったのだろう、と。父ともう会えないという事実に泣き喚きはしたが、死がどういうことなのかは、当然と言えば当然だがまるでわかっていなかった。父の死を母に全て背負わせてしまったような気がして、自分の存在を歯がゆく思っていた。
それを今閻魔に諭され、貴央は確かに救われた気持ちになっていた。自分と言う存在に意味が、色が与えられた、そんな気持ちになれた。おかげで涙が止まらない。貴央は涙を流しながら可笑しくなって少し笑っていた。

そして、浮上してくる動揺。
先の台詞。慰めのため、という印象がどこにも感じられない。まるで閻魔自身が本当にそう思って言っているような、そういう風に貴央には聞こえた。
こう言ってはなんだが、会って間もない彼に何がわかると言うのだろう。
と言ってしまうのは簡単だが、ちょっと話を聞いただけで同情し、「自分は全てを理解した」と驕っているような風には聞こえなかった。
この男、本当は何なのだろう。
貴央の思考は、両親や自分から閻魔へと対象を移そうとしていた。それに従って顔を上げると、閻魔と目が合った。閻魔が花のように笑う。

「以上、君のお父さんの代弁でした」

貴央はぽかんとして閻魔をじっと見つめた。
「親父に会ったのか」
今度は閻魔が固まる番だった。そして慌てて口を開く。
「違うよ、もちろん想像だってば。貴央君落ち着いて」
そう言われ、貴央はようやく平静を取り戻し始めた。そして少し恥ずかしそうにフローリングに視線を落とす。
「ごめん、大分動揺してた」
「うん」
閻魔がクスリと笑う。流れっぱなしだったのが何とか止まった涙を無造作に拭っている姿が、ハムスターか何か小動物の毛づくろいのように見えた。
落ち着いたようで、一度深呼吸をすると、ゆっくりと顔を上げた。

「親父、あんな死に方したからさ。もしかしたらちゃんと成仏出来なくて、こっちに残っちゃってるんじゃないかって思ってたんだ」
ほら、自分がなまじ見えるからさ、と付け加え、涙がまだ残る目頭を擦りながら続けた。
「でも、一度も会ったことない」
憂いを帯びた茶色の瞳が虚空を見る。
「なら成仏したと思っていいのかな。地獄に落ちるような人じゃないと思うけど……確信がないとやっぱり不安」
閻魔は不自然に押し黙っていた。その様子に気づき、貴央が閻魔の前で手を数回振ってみせた。閻魔が弾かれたように顔を上げる。
「何?」
「いや……固まってたから」
「ごめんごめん。ちょっと考え事してた」
「俺真面目な話してんのに?」
「怒んないでよ」
上の空の彼氏を見て機嫌を損ねた少女のようにむっとした表情になったので、閻魔は謝りながらも笑ってしまった。しかしすぐに真顔になってふわりと天井近くまで浮き上がった。
「そろそろお暇するね。色々話してくれて、ありがとう」
それに対して貴央が何か言う前に、閻魔は天井の奥へと消えてしまった。後には、間抜けに口を開けたままの貴央だけが残された。
急に室温が一、二度下がったような気がして、二の腕の辺りを押さえた。
体を温めるために紅茶を入れようという気にも、ならなかった。







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