ああチョキを出しておけば。

貴央は自分のやる気のない手のひらを見ながら息を吐き出した。
黒板を綺麗にしたり、床を掃いたり、重い机をいくつも運んだり、さらにはごみを捨てたり。教室掃除の当番というものはどうしてこうも面倒臭さが他の掃除より集中しているのだろうか。
人員増やせよアホ担任め。貴央はじゃんけんに負けたくらいで無言でぶつくさと文句を言っていた。

「茨木君、私一人で行ってこようか」
同じくじゃんけんに負けた同じ班の少女が、不機嫌そうな貴央の顔色を窺っている。かろうじて無表情に戻した貴央は、ゆるゆると首を振った。
「いいよ、これくらいなら俺が全部持ってく」
「さすがに三つは多いでしょ、持ちにくいし」
「じゃあ尚更お前一人じゃ無理だろ」
そう指摘され、少女は「あ、そうか」と素直に納得した。貴央は一番小振りな燃えるごみの袋を少女に渡し、自分は缶とペットボトルの袋を両手に持つ。教室をさっさと出て行く貴央を、少女が慌てて後を追った。
「そっち重くない?」
階段を下りながら少女がどこかそわそわと落ち着かない様子で貴央を気遣う。貴央は振り返らずに気のない返事をした。
「一応男なんで」
「どこからどう見ても男だよ」
少女がはにかみながら品のいい笑い声を上げた。柔らかく高い声が耳に入り込んでくることになんとなく居心地の悪さを感じつつ、貴央は廊下を通る生徒に袋がぶつからないよう注意深く進んだ。


収集車が来やすいという都合上、人通りの少ない裏門近くにごみ捨て場はある。がらんとしたそこは、薄灰色のコンクリートの地面で余計に殺風景に見える。貴央が指定の場所に袋を放ると、缶とペットボトルなので、他のそれが当たって盛大な音を立てた。少女が可笑しそうに苦笑している。
「乱暴」
「ごめん」
ごまかすように後ろ髪をいじくっていると、少女はわざわざ歩いて近くまで行ってから静かに袋を置いていた。それを見届けると、貴央は教室に残した鞄を取りに戻ろうと背を向けた。

「ちょっと待って」

急に制服の袖の先を軽く掴まれ、貴央の足はもつれそうになったが、どうにか体勢を立て直した。わけがわからず振り返ると、少女は俯いていて表情が読み取れなかった。制服の深緑のカラーに落ちた、縮毛矯正のかけられた真っ直ぐな髪が、心なしか小刻みに震えているように見える。
「どうかした?」
貴央が疑問符を飛ばすと、少女は俯いたまま、か細い声で「あの」と言った。
「あんまり話したことないし、メールとかしたこともないから、びっくりすると思うんだけど」
その言葉でこの次の展開が一気に読めてしまい、貴央は空いている方の手で知らず拳を作っていた。もちろん少女は貴央のそんな様子を知ることもなく、「あの」と「えと」を何度か繰り返した後、おずおずと上ずった声で伝えた。

「茨木君が、好きです」

喉から苦労して搾り出されたことが手に取るようにわかるその声音に、貴央は困惑した表情になった。少女は依然袖から手を離さない。恐らく離すことを忘れている。何と答えたらいいかわからず、貴央は押し黙るしかなかった。沈黙を少しの間味わい、少女はようやく我に返って手を離し、顔を上げた。
「ごめん」
「何が」
「ずっと、掴んでて」
「……ああ」
我ながら素っ気無い受け答えだと思いつつも、気の利いた台詞など浮かんでこなかった。少女の告白の裏の意図は、まあ世間一般のそれと同じだろうと踏み、貴央は最も傷つけない返答を忙しく頭の中で探した。
個人的には「好きだから、どうしたい」まで言ってくれた方が楽というか、印象としてはいいのだが、言わずともわかるの範囲なのであえてごちゃごちゃ言う必要もない。
再び下を向いてしまった少女を、貴央は眺めた。小柄な体をさらに縮めて、心細そうに片方の肘を抱いている。その仕草のせいで体が余計にほっそりして見えた。内股気味のローファーのつま先が、ざり、と音を立ててコンクリートを少し擦った。
席は近いが、貴央の風貌や雰囲気はあまり他人に対して友好的には映らないため、とても声がかけづらかったのだろう。本人が言うように、あまり話したことはなかった。よって、彼女がどういった人物なのかわからない。
それでも、承諾する材料は見つからなかった。

「ごめん」
貴央の短い返答に、少女の肩が一瞬だけぴくりと動いた。
「好きな人いるから」
少女の小さく閉じられた口がさらにぎゅうと閉じた。桜色が赤に変わる。きちんと熟れたりんごのような赤さの頬が、痛々しくさえ見えた。
「そっか」
いやに高く出た細い声が、貴央の胸を刺す。何も好きで断っているわけではないということを、誰か理解して欲しい。貴央は誰にというわけでもなく胸の中で訴えた。
背後で、男子生徒の喋る声と、空き缶がビニルの中でガラガラいう音が近づいてきた。貴央は思わず安堵の息をついてしまう。努めて、少女には聞こえないように。
少女も近づいてくる話し声に気づいたらしく、ぱっと顔を上げて貴央を見上げた。

「ごめんね、困らせちゃって。じゃあ、また明日」

顔を上げたときに見えた、今にも泣きそうで、風に揺れる桃色のコスモスを連想させる、控えめで可憐な笑顔が、貴央の脳裏に残った。少女は黒い髪を靡かせて、昇降口へと足早に戻っていった。
残された貴央は、後からやってきた男子生徒がごみを捨て終わって昇降口に帰っていく間も、ぼうっとしてそこから動けなかった。今頃泣いているのだろうか、とぼんやり考えながら。
ようやく辺りが静かになって、貴央は肩を落とすと、自分も戻ろうとして足を踏み出した。



「今の子可愛かったのに、勿体無い」

つま先が引っかかり、前につんのめりそうになったのをどうにか踏ん張った。引きつった口の端がしばらく戻りそうにない。ぐるりと首を後ろに向けると、腕を組んで空中に浮いている白と黒の男がいた。人間、怒り過ぎるとその顔は赤くはならず青くなるらしい。貴央の顔は蒼白だった。貴央は地鳴りのような低い低い声で、心底忌々しいといった感じで言った。怒りで若干声が震えている。
「お前……」
「携帯出しなよ、誰か来たらどうすんの」
世にも腹の立つにやにやとした口と目をしながら、閻魔は貴央を指差した。顔がうざいという理由で警察、いや神社に突き出したい衝動を、貴央はどうにか収めた。言われた通りに、ポケットからいつものように携帯を取り出して耳に押し付ける。
「そうやっていつもストーカーしてんのか」
「違うって、今日は本当にたまたま。暇だったから迎えに来てみたんだよ」
「タイミング悪すぎだろ。いい加減にしろよ変態」
「探してたら偶然見つけちゃったんだからしょうがないだろ、そんな怒んなくたっていいじゃない」
必死に弁解しつつも、閻魔の顔はへらへらと笑ったままだ。貴央の怒りが収まるはずもない。そんな様子をよそに、閻魔はどこか楽しそうに言った。
「知らなかったな、貴央君好きな人いたんだ」
「いねぇよ」
棘のある口調のままそう返すと、閻魔が首を傾げた。
「え、だってさっき」
「彼女も好きな人もいないけど付き合えない、なんて言って、引き下がってもらえなかったらどうすんだよ」
貴央の言い分に、閻魔はようやく納得した。何に対しても立ち回りが上手い子だと、閻魔はこっそりと感心した。

「でも感じ良さそうだったし、何よりセーラーだし、試しに付き合ってみればよかったのに」
「うちの女子は皆セーラーだっつうの」
鬱陶しそうにそう言い捨てると、重く湿った息をうんざりとした調子で吐き出した。明らかに機嫌が傾いているのを悟った閻魔が、慌てて言葉を加える。
「もしかして『試しに付き合う』なんて不誠実なこと出来ない、ってタイプ?へぇ、恋愛面に関しては真面目なんだね」
貴央は無言で閻魔を強く睨みつけた。ひるんだ閻魔が少しだけ後ろに下がる。重苦しい沈黙に耐えられず、そして貴央が何をそんなに怒っているのかいまいちわからず、閻魔は言葉を重ねた。
「俺が見てたのそんなに嫌だった?だったら謝るよ、ごめん。もう絶対こんなことしないから、お願いだから機嫌直して」
顔の前で両手を合わせて首を縮めている閻魔を薄目で見ながら、貴央は依然口を開かない。はらはらしながらその様子を窺っている閻魔を見て、貴央はようやく言葉を発した。少し顔が疲れていた。

「面白半分に『付き合ってみれば』とか言うんじゃねぇよ」
貴央が反応してくれたので、閻魔の顔が少し明るくなった。
「だって君顔もいいし、彼女いないなんて勿体無いって思ったんだよ」
「そりゃどうも」
ちっとも嬉しそうではない声で返され、閻魔は最高値に達した周囲の居心地の悪さに思わず逃げ出したくなってしまった。貴央の不機嫌の本当の理由はわからないままである。
「ごめんってば。お詫びに」
そこまで言って、閻魔は自分が貴央に何か施してやることが出来ないことに気づいて言葉を飲んだ。本来存在の許されていないこの体では、何一つ彼に影響することは出来ない。
当の貴央は、握っている携帯が振動し、本当の着信に応対していた。よって、今の閻魔の途切れた言葉は耳に入っていない。閻魔は安堵した。
着信の主はいつもつるんでいるクラスメイトで、カラオケの誘いだった。今から行くと、終わる頃には日は完全に落ちているだろう。
貴央は用件だけの短い通話を終了すると、そのままの状態で閻魔に向き直った。

「俺今日遅くなるから、坂で待ってても夕方には通らないよ。だからさっさと帰れば」

にべもなく言い渡され、閻魔は黙ってしまった。その姿に少しだけ罪悪感を抱いたが、これ以上そこにいる理由もなかったので、貴央は閻魔を残して昇降口へ行ってしまった。
乱暴な手つきで靴を上履きに履き替え、その踵を踏むと、掃除が終わっていくらか綺麗になった緑色の階段を上っていく。


閻魔は貴央の不機嫌の原因を汲むことが出来ていなかったが、実は貴央自身も体の中にくすぶる苛々の正体を見破れずにいた。本人がわからないものを他人がわかるはずがない。

俺がもし承諾したら、アンタはそれでいいのか

先程から頭に浮かんでいたその一言に、貴央は何故かたった今気づき、同時に心臓が止まりそうな気持ちになった。いいも悪いも、本質的に閻魔とそれは関係がない。一体自分が閻魔に何を望んでいるのかわからなくなり、貴央は余計に混乱した。
怒りは急激に後ずさっていったが、新たに浮上してきた酷い動揺と困惑が貴央の全身を覆いつくした。今になってさっきの閻魔の寂しそうな表情が目に浮かび、意味もなくきつい言い方をしてしまったことを後悔した。
様々なマイナスの感情に足を絡め取られそうになりながらも、貴央は教室に辿り着いた。待ち構えていた先程の電話の主が、「遅い」と言って貴央の鞄を放ってきた。取り落としそうになるのをどうにか免れ、貴央は引きつった笑みで遅刻を詫びた。

どう頑張っても、この後待ち受けている二時間以上かかるカラオケを楽しむ気にはなれないだろう。どうやって取り繕うかを考えながら、明日の夕方、閻魔にどんな顔をして会えばいいのか全く思いつかず、貴央はこの時点ですでに疲労の頂点にいた。
今から走ってあの坂に行けば、彼はそこにいるだろうか。そんなことを考えてから、貴央は溜息をつく気さえ起こらず俯いて、受け取った鞄を肩にかけた。





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