優しい男


大王の秘書に着任してから早三ヶ月。
僕には気に食わないことが一つあった。

「新人君」

彼にこう呼ばれる度に僕はいちいちむっとしてしまう。
確かに僕はまだまだ新人だが、いつまでもこの呼び方をされては本当に新人から抜け出せない気がしてならない。
仕事は一通り覚えたし、目立ったへまもやらかしていない。
むしろ腑抜けたこの上司の尻を叩いて働かせている毎日である。
彼の満足する働きにはいまだ届かないと言うのだろうか。
一日の業務が終わるたびに僕は肩を落とすのだった。


「これで終わり?」
大王から最後の書類を受け取り、目を通して確認すると僕は頷いた。
「はい。お疲れ様でした」
「おつかれさん」
間の抜けた声を上げると、彼は大きく伸びをした。僕はそれを一瞥すると、手元の書類の束を整えた。
すると、大王の手が僕の肩をぽんと叩いた。
「ちょっと付き合ってくれない?お散歩しよう」
「は?」
面食らった僕を見て大王は微笑する。
「見せたいものがあるんだ」
仕事が終わった後、どこかへ誘われたのは初めてだった。
僕が驚いて戸惑っていると、彼は首を傾げた。
「何か用事があった?」
僕は慌てて首を横に振る。
「いえ、お供します」
それを聞くと、彼は満足げに頷いて先に歩きだした。
「じゃあ行こう、新人君」
付け加えられたその呼称に、僕はまた眉を寄せるのだった。

彼の一歩後ろを延々と歩く。
足元を照らしていた閻魔庁から零れる明かりが弱くなり、辺りは真の闇で埋め尽くされた。
月明かりも星明かりもない。果てしない黒だった。そして大王の背中も髪も。
鬼である僕は夜目が利くはずなのに、今や何一つ見えない。
自分がどこを歩いているのか、そもそもこれは道なのか。足元を見ると無駄に不安になるので顔を上げると、大王の背中に視線が行く。
全く鈍らない足取りでただひたすら真っ直ぐに進んでいる。
僕はもう彼の背中から視線を外せなかった。
少しでもそらしてしまえばその隙に消え失せてしまう気がしたからだ。

「怖いかい」

唐突に尋ねられ、心臓が跳ねた。そして、咄嗟に返事が出来なかった。
「もうすぐだよ」
僕は何か言おうとしたのだが、それを遮って彼は僕に命じた。
「目を閉じて」
術にでもかかったように、僕の瞼はすとんと閉じる。
一呼吸置いてから、彼はもう一度僕に命じる。
「開けて」
はっと目を開くと、暗闇はもうどこにもなかった。
しかし眩しさに目がくらむこともなく、その風景はすんなりと僕の目に映し出された。
視界いっぱいの朱にため息が漏れる。とても静かな時の流れがそこにはあった。
細く華奢な花弁と茎が儚げで美しい。しかしその数の多さに背筋が少し冷えた。
空は少し曇っていて灰色。空気が冷たい。
「彼岸花だよ。知ってる?」
「はい」
ようやく声を発し、僕はもう一度息を吐きだした。
「すごい数ですね。どこまで続いてるんですか」
「さあ」
素っ気なく言い、彼はその場にしゃがみ込んで赤い花にそっと触れた。
「ここはあなたが管理しているんじゃないんですか」
「いいや」
さっきから会話がぶちぶち切れる。僕はだんだんと機嫌が傾くのを自覚した。
しばらく沈黙した後、大王が口を開いた。
「新人君、これが何だかわかる?」
大王は花を指差して僕を見上げた。
言っている意味が分からず、顔をしかめて答える。
「何って、彼岸花でしょう」
「違う違う」
大王は一度言葉を切ると、目を細めて呟くように言った。
「地獄に行った魂の具現化したものなんだ」
僕は思わず「えっ」と間抜けな声を上げてしまった。
彼は花畑を見渡して続ける。
「地獄の住人の数だけこの花は咲いているってこと」
僕はまだ信じられなかった。
地獄へ落とされた汚れた魂の現れというには、この花はあまりに美しかったから。
「下界じゃ死人花だの地獄花だのと呼ばれて可哀想だね。下界のこれはたまたま彼岸の時期に咲くってだけなのに。花が炎に似てるから、家に持ち帰ると火事になるとまで言われてるらしいよ」
言われて、僕はその花の赤さを見た。
中心から上へ上へと立ち昇るように咲くそれは確かに炎に見えた。おしべが火の子にも見えてくる。
しかしそれは本当に炎なのだ。
地獄へ行った魂の灯は、ただ静かにそこで揺れている。
僕は目を細めた。
「地獄へ落ちた罪人に情けをかけるのは愚かだと思うかい」
不意に問われ、僕は首を縦にも横にも振ることが出来なかった。
「こんなの情けなんかにならないんだけどさ。彼らがここを知ることはないだろうし」
それでも、と彼は一度を言葉を切って言った。
「どこかで綺麗に花を咲かせてるって事実があるだけで、気休めくらいにはなると思ったんだ」
僕はその言葉を発した大王の、微笑とも無表情とも取れない穏やかな横顔を眺めながら悟った。
ああこの人は菩薩なのだと。
人を情け容赦なく裁く冷酷な男だとなじる者は今すぐここに来るといい。
彼はいつだって救済を望んでいるではないか。
しかしそれを知る者は、恐らくとても少ない。
何という皮肉だ。

「じゃあ彼らが転生したら、これは枯れていくんですか」
大王が花から顔を上げる。
「そうだよ」
そして再度視線を花へ戻した。
「本当はこの花が少しでも減ることを願わなくちゃいけないんだけどね」
弱く息を吐き、膝の上で頬杖をつく。
「やはりここでもこの子は疎まれるのか」
僕は視線を遠くへ投げた。
どこまでも続く赤い花畑。風のないこの場所でひっそりと咲く『彼ら』を見つめた後、大王のすぐそばまで歩み寄った。
「僕はいいと思います」
大王は顔をちょいと挙げて「え」と短く聞き返してきた。
「単純に綺麗だと思うし、枯れても喜ばれる花ってあんまりないですよ」
大王はちょっと目を見開いて、僕をまじまじと見上げてきた。
「新人君」
「何ですか」
「本当にそう思う?」
僕はきょとんとして、気の抜けた声で「はい」と返事をした。
すると彼は
「そっか」
と微笑んだ。何故だかとても嬉しそうに見えた。
互いに黙ってしまったので、僕は思いたって言ってみることにした。
「あの、大王。僕の、その、呼び方なんですけど」
「知ってるよ。鬼男君でしょう?」
僕が驚いて言葉を失っている横で、彼は膝に手をつきながらゆっくりと立ち上がった。
あまりにも真っ直ぐに僕を見てくるので、目をそらしてしまいたい衝動に駆られた。
しかし出来なかった。
「帰ろう。付き合ってくれてありがとう」
「別に、いつだってお供しますよ」
「でもこれ時間外だろ」
「関係ありません」
きっぱりと言った僕を見て、彼はもう一度
「そっか」
と言って笑うのだった。


今日も魂は地獄に落ちる。
そしてここに花が咲く。
或る優しい男の望んだ、赤くて綺麗な寂しい花。




main
inserted by FC2 system