黄泉の闇


鬼は水の中で目を覚ました。
くらくら揺れる水をしばらくぼうっと見た後、ゆっくりと顔を上げる。
辺りを見渡すと、水がたくさんの線になって流れていた。しゃらしゃらという水の通る音。そしてとても薄暗い。
河だ。鬼はぼんやりとそう思った。
びっしょりと濡れて体に張り付いている着物を眺める。
寒くなってきた。腰を上げて、軋む体を引きずるように向こう岸へ歩いた。
河の流れが足に絡みつく。ばしゃばしゃという大袈裟な水音を聞きながら、線を跨ぐように渡っていった。
ようやっと向こう岸に着いて息を吐く。
顔を上げると、いつの間にか現れていた一人の男が視界に入った。
黒い男だった。
肌だけが嫌に白くて暗闇にぼんやりと浮かび上がっている。
顔の辺りがどうしてか暗くて見えず、にやりと笑った口元だけが覗いている。
呆然と見上げていると、裂けたように男の口が開いた。真っ赤な舌だった。

迷ったかい

沼の底のような声だった。
鬼が答えられずに口をつぐんでじっと見ていると、男がぬっと右手を差し出した。
存外に大きいその白い指先に、鬼の黒く小さい手が乗った。
男はその手を引き、ひょいと鬼を抱き上げた。鬼から滴る水が男の着物にじゅう、と染み込む。
濡れた頭を男の胸に預けると、鬼の瞼はそこで落っこちて浅い眠りへと落ちていった。


暖かい明るさに起こされて目を開けると、すぐ傍で焚き火が燃えていた。
ぱちぱちと音を立てて上がる火花を見つめ、鬼は自分の着物が乾いていることに気がついた。
眠る前は冷え切っていた肌が暖かさを取り戻していた。
砂利と土を擦る音がして、男が歩み寄ってきた。
その手には握り飯があった。
焚き火の近くに腰を下ろすと、縦長の葉にくるまれた二つの握り飯を差し出した。
鬼はおずおずとそれを受け取ると、一口、また一口とかじり、あっという間に一つを平らげた。
二つ目に口をつけようとして、鬼の目から涙がこぼれた。
ずるずると鼻水をすすっていると、男の手が伸びてきて鬼の金色の頭に乗った。
男の指が鬼の小さな角に当たる。
角のあちこちに先の尖った刃物のようなもので削られた跡があった。
男はその角を指先でなぞり、鬼の頭を撫でるのだった。
男に連れられ、鬼は近くにあった粗末な小屋の中で、男の腕の中でまた眠った。
掛ける布団も何もなかったのに、この腕の中に収まっているとちっとも寒さを感じなかった。
鬼はたまに起きてはしくしくと泣き浅く眠るというのを繰り返した。
男はずうっと起きていた。
鬼が起きるたびにその小さな背中をさすっていた。


出かけるよ

目覚めると男はそう言った。
起きても辺りは暗いままだった。

朝は

鬼が尋ねると、男は

ないよ

と答えた。
少しの間一人で待たされると、男は手に提灯くらいの大きさの鬼灯を持ってどこからか戻ってきた。
枝から下がるそれをちょいと振ると、みるみるうちに中で橙の明かりがぽうっと灯る。
鬼が目を丸くしていると、男は鬼灯を鬼に手渡した。そして空いている方の手を取って手を繋ぐ。
鬼の足元が橙に染まったのを見て、男は歩きだした。
鬼はしばらく鬼灯を物珍しそうに眺めていたが、自分の手を握っている手に視線を移した。
酷く冷たい手だったが、不思議と恐ろしくはなかった。むしろ誰かに導かれていることに安堵していた。
地面は平たく、枯れ葉が潰される音だけが響いている。さくさくという音が心地よく、思わず目を閉じた。
鬼は目を開けて手に持った鬼灯の枝を緩く振ると、

手をつないでいるから明かりがなくてもいいのに

と呟いた。
すると男は首を横に振り、

足元は明るくなくちゃ

と言い、笑った口元だけが見えた。
鬼が首を傾げると、その時暗闇が蠢いたように見えた。
しかしすぐに興味が薄れてしまい、仄明るい鬼灯に視線を戻した。
鬼が目をそらした明かりの外側にある闇の中では、無数の蛇のような黒いものがずるずると音を立てて絶えず這いずっていた。
男はそれらを一瞥しただけで終わった。
それらは男の周りを避けるように這いずっていた。

辿り着いた先で男は木苺を摘み、鬼の気が済むまで食べさせた。
甘酸っぱさにうっとりしていると、鬼は少し外れた場所に柘榴の木があるのを見つけた。
鬼は柘榴が好きだった。

あれは食べてはいけないの

鬼が尋ねると、男はまた口角を上げて答えた。

帰れなくなってしまうよ

鬼が不思議がって尋ねても、男はもう答えなかった。
帰り道、男は唄を歌った。
とおりゃんせは鬼も知っていたので、合わせて小さく口ずさんだ。

いきはよいよい
かえりはこわい
こわいながらも
とおりゃんせ とおりゃんせ

暗い森の中で、二人分の歌声が土に染み込んでいった。


小屋に戻り寝る支度を済ませると、布団に入りながら鬼は不意にぽつりと零した。

ぼくが怖くないの

男は少し黙ってから、微笑して尋ね返した。

どうして

鬼は答えなかった。うつ伏せになっている鬼を包むようにして抱きしめ、男は小さな頬に頬ずりした。

こんなにめんこい子どもがどうして怖い

低く果てしなく優しい声に、鬼は安堵して目を閉じた。
男は耳元で囁く。

怖いのは暗闇さ
めんこい子はみな喰われちまう
だから明るくしとくのさ

小屋にいる時は蝋燭に火を灯し、外に出ると鬼灯を持たされる。
鬼はそうか、と思い、喰われるのは嫌だと男の胸に鼻を押し付けて眠った。



一月が経ち、ある朝男は鬼に言った。

そろそろ帰らなきゃ

男はいつものように鬼灯を持たせ、鬼の手を引いて外に出た。
わけがわからず、鬼は足をもつれさせながら闇の中を長いこと歩いていた。

どうして

鬼が尋ねると、男は

どうしても

と答えた。
鬼は俯く。
男が足を止めたのは、あの河の前だった。
あの時は気づかなかったが、そこには石造りの橋が弧を描いて架かっていた。
水のざらざらという音を下に聞きながら、鬼は目を細めて河の流れを見ていた。

ここを渡って帰るんだよ

男に背中を軽く叩かれ、鬼は一歩前へ進んだ。
そのまま動かない鬼に、男は少し急かして言う。

さあ早く

鬼は項垂れたまま呟いた。

ありがとう

鬼は男が微笑んだのを感じた。

橋を渡るまでは決して振り返らないで
扉が見えたらゆっくり開けて通るといい

言われるままに、鬼はまた一歩前へ踏み出した。鬼灯を持つ手に力がこもる。
裸足に橋の石の冷たさが刺さる。ぺたぺたという間の抜けた音がして、鬼は途端に青ざめる。
一歩進むごとに、男の存在が遠くなる。冷たく優しい手を思い出す。
ぎぎ、という音と共に首の骨が軋む。誰かに急き立てられているかのように、首が後ろを向こうとする。

振り返らないで

男の言葉が頭に響き渡る。鬼は奥歯に力を込めた。
しかし、同時に蘇ってくる記憶に眩暈がする。
ああせっかく忘れていたのに。

とっちまお とっちまお
とがったつのは とっちまお
わざわいよぶつの とっちまお

数人の子供の笑い声。たくさんの手。小刀。
鬼の息が速くなる。

おまえなんかうちのこじゃない

赤子を抱えた女の叫び声。ひっくり返った冷えた飯。棒きれ。

鬼ははっと顔を上げた。
目の前には大きな扉があった。見上げるほどの、赤くて黒い大きな扉。
鬼は後ろを振り返った。
橋がなくなっていた。河もなくなっていた。音もなくなっていた。
あるのは果てのない闇だけ。
鬼の目が見開かれる。息は荒くなる一方。
背後の扉の向こうで百人の声がした。


ばけもの


闇がぐぶ、と蠢いた。
男の低く笑う声が聞こえた。
鬼は目をつぶって息を吸い込み、そこへ飛び込んだ。

扉の前には鬼灯が置き去られ、橙の明かりはだんだんと小さくなり、終いにはしぼんで消えた。
時を同じくして、闇が扉を跡形もなく飲み込んだ。


だから明るくしとくのさ







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