空が揺れた。
閻魔は伏せていたまぶたをゆっくりと開いて黒い空を見上げた。
「でかいな」
無感動な表情で独り言を言うと、頭上の空の一部が捻じ曲がり空間が裂けた。
そこから一人の男と、竜か、あるいは蛇のような巨大な怪物が降ってきた。衝撃や音をひとつも立てずその二つのものは閻魔庁の閻魔の私庭へと降り立つ。
「珍しく手こずったね」
呼吸を乱している満身創痍のその青年を、閻魔は穏やかに労った。閻魔大王の眷属であるその青年―泰山府君は渋い顔をして閻魔の前に跪く。
「申し訳ございません。冥界へ引きずり込むのが精一杯でした」
「見せて」
閻魔に促され、泰山は背後に控えている配下―八岐大蛇を振り返る。
すると大蛇は閉じていた白い巨大な八本の首を開いてみせた。巨体であるはずの大蛇が必死に抑えていたのは、それより遥かに小さい人間の男だった。
いや、人間などではない。血塗れの褐色の肌に金色の乱れた髪。そこから伸びているのは人間にはあるはずのない鋭い鬼の角だった。
銀色の剣が胸に深々と刺さったまま大蛇に捕らわれているのにもかかわらず、その鬼は髪と同じ金色の瞳をぎらつかせ狂ったような笑みを浮かべていた。
「ただの斬鬼じゃないね」
さして驚く様子もなく、大蛇を見上げながら閻魔は尋ねた。

人間が度を越して巨大になった負の感情に魂を食い尽くされると、稀に人ではないものになってしまうことがある。それを下界においての『鬼』と呼び、さらに凶暴化して高い戦闘能力を持ったものを『斬鬼』と呼ぶ。
しかし今目の前にいる者の生命力は例を見ない物だと閻魔は判断した。

「はい、下界で複数の邪神に喰われているようです。元々霊や妖魔を寄せる体質にあったようですが、それらのせいで肥大化していったものと思われます」
「なるほどね。天叢雲でも仕留められないわけだ」
泰山は斬鬼の胸に刺さった愛剣を悔しげに見上げた。
「落ち込まなくていい。これは君には無理だよ」
「申し訳ありません」
自身の力の無さを呪い、泰山は肩をがくりと落とした。閻魔がその肩をぽんと叩く。
「大丈夫。このために仕事無理矢理終わらせてきたんだから」
「……お願いします」

泰山の体を青い霧が包み、その場からたちまち消え失せると、時を同じくして八岐大蛇と天叢雲も霧と共に消えた。
間髪いれずに閻魔がぱんと両手を打ち鳴らし、現れた四枚の呪符が四方へ飛んでいき、直方体の漆黒の空間を作り出した。
この結界の中にいるのは、閻魔と先ほどの斬鬼のみ。
閻魔は無表情のまま両手を広げた。
「この結界は外に決して影響を及ぼさない。さあ思う存分暴れてごらん」
それを聞いて、斬鬼は口の端を吊り上げてにたりと笑った。
「アンタが閻魔大王様か」
「いかにも」
「さっきのへたれ男はアンタの下僕かい」
「口が悪い奴だ」
くくく、と喉で笑いながら斬鬼は穴の開いた胸を無造作に擦った。剥き出しの上半身はその傷口から吹き出た血で一層赤黒く染まる。しかし手を離すと、そこに刺し傷はもうなかった。閻魔が面白そうに目を見張る。
「便利な体だね」
「あんなぬるい剣で俺を仕留めようとは、ずいぶんとなめられたもんだ」
「ひどいな、俺の優秀な部下なのに」
閻魔の薄い笑いを遮るように斬鬼は轟音と共に力を解放し、長く鋭く伸ばした爪を閻魔に向けた。どす黒い雲のようなものが閻魔の周囲を取り囲む。
「いいのか、こんな頑丈な結界で囲っちまって。可愛い手下を総動員して守ってもらった方が身の為だぜ」
目を見開きながら下卑た笑い声を上げ、蔑むような目で閻魔を眺めている。
「ずいぶんとなめられたもんだ」
先ほどの斬鬼の台詞と同じように返した閻魔の表情に色は無かった。暗雲に取り囲まれても身じろぎ一つせず腕を組んで立っている。
その態度が気に入らないらしく、斬鬼は舌打ちをして閻魔を睨み上げた。
「余裕だな、大王様。これからこの冥界ぶっ壊しにかかろうってのによ」
「困るなぁここ俺の職場なんだけど」
凄む斬鬼を尻目に閻魔は再度両手を打ち鳴らす。巻物が二つ三つ現れ、ばらりと独りでに広がった。
書かれた文字が踊り上がり、生き物のように蠢き出す。どこからともなく風が吹き、閻魔の着物がばたばたとはためいた。
そして世にも恐ろしく、そして美しい目で閻魔は嗤う。

「俺の仕事って踏ん反り返って地獄か天国か宣告するだけだからさ、たまにこうやって運動しないと体なまっちゃうんだよね」
「……上等だ糞が」

濃密な闇がその場を支配し嵐のような風が吹きすさぶ中、戯れが始まった





補足↓
・下界に斬鬼討伐に向かっていた泰山府君だったが、抹殺不可能と判断し下界から冥界の閻魔へヘルプ
・泰山府君が天叢雲持ってたり八岐大蛇配下にしてるのは「スサノオノミコトと同一視されてるから」という史実から
・イッちゃってる斬鬼はもちろん鬼男君
・そして「斬鬼」は造語で実際には存在しない言葉ですので信じてはいけません


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